死んだイエス・キリストはよみがえった(復活した)のか?②ー復活の証拠(前編)ー

前回に引き続き、今回のテーマは「イエス・キリストのよみがえり(復活)の信憑性」について。前回は、ある意味の下準備として、聖書が語る「よみがえり(復活)の特徴・性質」についてみました。

死んだイエス・キリストはよみがえった(復活した)のか?①ー復活の特徴・性質ー
イエスは十字架上で死んで葬られた後、三日目によみがえった(復活した)!?そんな非科学的な出来事が本当に起こったのか?「イエス・キリストのよみがえり(復活)の信憑性」を三回にわたって考えます。第一回目は聖書が語る「よみがえり(復活)の特徴・性質」について。

今回と次回は具体的に、

本当にイエスはよみがえったのか?
イエスが復活したといえる証拠はあるのか?

という疑問について、イエスが実際によみがえった(復活した)ことを支持する「証拠」を紹介するつもりです。

特に今回は下記に記す4つの「証拠」の中で最初の二つ、を紹介します。

  1. 教義・世界観の変化
  2. 人々の変化
  3. 人々の証言
  4. 空っぽの墓

残りの二つについては下記の記事で紹介しています。

死んだイエス・キリストはよみがえった(復活した)のか?③ー復活の証拠(後編)ー
「イエス・キリストのよみがえり(復活)の信憑性」を三回にわたって考えるシリーズ最終回。今回はイエス復活を支持する歴史学的証拠として「人々の証言」と「空っぽの墓」を紹介し、これまでに紹介した証拠と併せて、イエスのよみがえり(復活)の信憑性を検証します。

なお、今回と次回の記事で考える「証拠」というのは、科学的な意味合いの「証拠」ではなく、過去の出来事が実際に起こったかどうかを指し示す「証拠」です。

裏を返せば、

上記4つの「証拠」を最もよく説明できる話(仮説)が「死んだイエス・キリストが本当によみがえった(復活した)」と言えるかどうか

を考えます。

しかし、その前にまずは科学的仮説・理論を支持する「証拠」と歴史的事実の信憑性を支持する「証拠」の違いを明らかにしておこうと思います。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り

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科学的「証拠」と歴史学的「証拠」

冒頭でも書きましたが、この記事で考える「証拠」というのは、ある科学的仮説・理論が正しいかどうかを指し示す「証拠」ではなく、ある過去の出来事が実際に起こったかどうかを指し示す「証拠」です。

科学的証拠のもつ特性の一つには客観性・普遍性があります。それは、条件さえ整えてやれば、いつでもどこでも誰でも繰り返し再現することができるという類の客観性・普遍性です。

対して、

過去の出来事が起こったかどうかを示す歴史学的「証拠」は、いつでもどこでも誰でも繰り返し再現できるような類の客観性・普遍性はもっていません。

というのも、歴史学的「証拠」というのは、例えば、

  • 出来事が起きた後で書かれた文書に記された人々の証言や当時の状況
  • 考古学的な知見

であったりするからです。

過去に書き残された文書や考古学的な知見には少なからず人間の解釈や意見・世界観が反映されていますし、そのような「証拠」を解釈する側にも、解釈者の意見や世界観が反映されます。

一言でいえば、

究極的な意味で、客観性・普遍性をもった歴史学的「証拠」は存在しない

とも言えます。1

このような歴史学的「証拠」のもつ特質上、過去の出来事が起こったことを100%確実に(誰もが納得する形で客観的に)「証明」することはまず不可能です。

とはいえ、

ある一つの話(仮説)が過去に起こった出来事を正しく説明しているかどうかの確からしさ(可能性)を高める・低める「証拠」は存在します。

例えば、私が昨日の晩御飯に東京のラーメン屋で味噌ラーメンを食べたという話(仮説)の確からしさを高める・低める「証拠」として考えられるのは、そのラーメン屋さんでもらったレシート(過去に書き残された文書)が挙げられます。

しかし、このレシートだけでは実はまだ不十分です。というのは、私はそのレシートを誰か別の人からもらっただけかもしれないからです。

従って、レシートを受け取ったのが本当に私かどうかを示すためには、例えば、ラーメン屋の店長に私が昨日の夕方に確かにラーメン屋にいたことを証言してもらう必要があります。

このようなレシートや人々の証言が、(かなり大袈裟ですが)先に挙げた「歴史学的証拠」と呼べるものです。

なお、一般的に、以下の5つの性質のいずれか一つ(もしくは複数)をもっていれば、その歴史学的証拠の確からしさは高いと言えます。2

  1. その証拠(証言など)の出所が複数かつ独立したものである
  2. その証拠を友好・利害関係のない者も支持している
  3. その証拠によって当事者(証言者)が不名誉を被る
  4. その証拠が実際の目撃者の証言に基づいている
  5. 証拠(証言の記録・文書など)の作成時期とその証拠が支持する歴史的出来事の時間間隔が短い

次節以降 (そして次回の記事)では、まず死んだイエスが肉体をもってよみがえった(復活した)ことを支持する歴史学的証拠(情況証拠を含む)を紹介します。

そして次回の記事の最後には、証拠として示された事柄・出来事・事実に対して、「死んだイエスが肉体をもってよみがえった(復活した)」という話(仮説)が、他の話(仮説)と比べて、最もよく全ての事柄・出来事・事実を説明できているかどうかをみていきます。

イエス復活の証拠①:教義・世界観の変化

イエスはキリスト教の開祖と呼ばれますが、ユダヤ教の聖典(キリスト教の旧約聖書)の権威を認めるという意味においてはユダヤ教徒でもありました。

事実、イエス自身が旧約聖書(新約聖書はまだ書かれていません)に書かれていることを「成就するために来た」とさえ言っています(マタイの福音書5章17節)。

しかしながら、イエスと当時のユダヤ教徒たちの決定的な違いは、旧約聖書の解釈の違いにありました。その解釈の違いから、ユダヤ人たちとイエスが衝突することもしばしば (参考:マルコの福音書7章1-13節)。

そうした聖書の教え・教義の解釈の違いは、イエスが死んでよみがえった(復活した)とされる頃から一層顕著になってきます。その中で主要なものを以下に三つ挙げて説明していきます。

よみがえり(復活)に関する理解の変化

前回の記事では「よみがえり(復活)の特徴・性質」を振り返りました。その中で分かったことの一つとして、(イエスが生まれる前に書かれた)旧約聖書では復活に関する記述がほとんどないことをみました。

言うなれば、

旧約聖書においては、「死」や「死後の世界」、「よみがえり(復活)」についてよりも、私たちが生きている「この世」で神がどのように関わってくださるかに重点が置かれている

と理解できます。3

しかしながら、イエスの死後に書かれた新約聖書において「よみがえり(復活)」に関する教えは至る所に出てくるようになります。

つまり、

イエスが死ぬ前までは中心的な教えとはいえなかった「よみがえり(復活)」が、イエスの死後には十字架と並んで中心的な教えになった

と言えます。4

しかも、です。

旧約聖書の話と新約聖書の話の中間にあたるイエスが生まれる前後の時代(紀元前200年~紀元後30年頃)、ユダヤ教徒の「復活」に関する解釈・意見は統一的なものではなく非常に多様なものでした。

それがイエスの死後、クリスチャンと呼ばれる人々の間では確立された統一的な教えとして広がっていくようになります。

クリスチャンが広めた「よみがえり(復活)」に関する教えというのは、それまでのユダヤ教の教えを土台としつつも全く異なる点が二つありました。5

  • 世の終わりに起こるとされるよみがえり(復活)は大きく二段階に分かれている(イエスの復活が一段階目。二段階目は、イエスが再びこの世に来られる時に実現するであろう神の民の復活)
  • 復活後の肉体は物理的に生前の身体と共通するところもあるが、全く異なる側面(永続性など)も兼ね備えている

ここで土台となっているユダヤ教の教えというのは

  • 世の終わりには死んだ人々が肉体をもってよみがえる(復活する)

というもの。6

さらに、旧約聖書において「よみがえり(復活)」というのは、「イスラエル国家の復興」を象徴的に表す比喩として解釈される箇所がありました(例:エゼキエル書37章)。

ところが、新約聖書において死からのよみがえり(復活)が比喩的表現で用いられるときには、イスラエル国家の復興という意味ではなく全く別の意味で用いられるようになります。7

「よみがえり(復活)」に関する理解・世界観にこのような大きな変化をもたらしたのは、彼らが実際にその目でイエスのよみがえり(復活)を体験したから、と考えることはそれほど無理な話とは思えない

のは私だけでしょうか。

キリスト(メシア)に関する理解の変化

私自身、恥ずかしながら、キリスト教徒になる前はイエス・キリストという名称は「イエス」が名前で「キリスト」が苗字だと思っていました。が、実は、この「キリスト」というのは名前ではなく称号・肩書を表しています。

広辞苑(第五版)には以下の説明書きがあります。

キリスト…(もとヘブライ語のマシーアハ〈ギリシア語形メシアス〉のギリシア語訳Christosから)「油注がれた者」の意。古代ヘブライ時代で王や祭司や預言者は任命に際して頭に油を注がれ、後にイスラエルを救うために神が遣わすべき将来の王の意となる。キリスト教ではイエスを人類の罪を贖うために神が遣わしたキリストと信ずる。

出典:新村出記念財団『広辞苑 第五版』(岩波書店、2002年)

かなり簡略して言ってしまうと、「人々を救うために神が遣わした人物」を称して「キリスト」と呼ぶのです。

しかしながら、本来、称号・肩書であるはずの「キリスト」という名称が、あたかも固有名詞のように用いられるようになったのは、つい最近のことではないようです。

実際、キリスト教徒ではないユダヤ人の歴史家ヨセフス(Josephus; 紀元後37-100年頃)が紀元後93年頃に書いた「ユダヤ古代史(The Antiquities of the Jews)」の中に、次のような記述があります。8

he [Ananus, the high priest] assembled the sanhedrim of judges, and brought before them the brother of Jesus, who was called Christ, whose name was James, and some others, [or, some of his companions]; and when he had formed an accusation against them as breakers of the law, he delivered them to be stoned.

引用: Josephus, “Book XX,” in The Antiquities of the Jews, trans. William Whiston (London, New York, and Melbourne: Ward. Lock & Co., Limited, 1879), 529–530.

私訳で失礼すると

「彼(ユダヤ教の大祭司アナヌス)は最高法院を招集し、キリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブと他の数名(もしくは彼の仲間内の数名)を呼び出した。そして彼らを律法を破った咎で訴え、彼らに石打ちの刑(死刑)を宣告した。」

イエスが死んだのは紀元後30年頃とされていますので、この記述はイエスの死後、60年ほど経ったときに書かれたことになります。

が、そのときから既に、イエスは「キリスト」と呼ばれていたということが、クリスチャンの間ではもちろん、クリスチャンとは敵対関係にあったユダヤ人の間でも認知されていたことが分かります。9

なお、「キリスト」という言葉は、先の広辞苑の解説にもあるように、元々は旧約聖書(ヘブライ語)で「メシアス、メシア」と呼ばれていたものをギリシャ語に訳したもの。

従って、「キリスト(メシア)」という概念そのものは、ユダヤ教の旧約聖書が起源となっています。

ところが、です。

非常に不思議なことに、

後に「キリスト(メシア)」と呼ばれるイエスの人生(特に十字架での処刑)は、イエスが生きた当時のユダヤ人たちが抱いていたキリスト(メシア)のイメージからは程遠いもの

でした。

当時の人々がキリスト(メシア)に抱いていたイメージというのは、

ローマ帝国の支配からイスラエル民族を解放してくれる王もしくは祭司

というもの。10

ですから、自分たちが「メシア」だと信じていたイエスが、復活することはもちろん、ローマ帝国の手によって十字架刑で処刑されてしまうことは、イエスの弟子たちにとって到底受け入れることができませんでした(参考:ルカの福音書24章19-21節;比較:マルコの福音書8章29-33節)。

イスラエル民族をローマ帝国の支配から解放する前に殺されてしまう(そして復活する)こと以外にも、当時のユダヤ人たちが描いていたメシアのイメージと、イエスの死後、クリスチャンが伝えたメシア像(イエスの人生)には異なる点が幾つかあります。

それらは、例えば以下になります。11

  • ユダヤ人のイメージしていた「メシア」は、イエスのように奇跡を行うとは思われていなかった(メシアが奇跡を行ったとしても不思議ではないが、奇跡を行うことがメシアとしての条件ではなかった;比較:ヨハネの福音書7章31節)12
  • ユダヤ人のイメージしていた「メシア」は、キリスト教が教えるような神の子(三位一体の神)としてのメシアではなかった (比較:マタイの福音書22章41-46節)13
  • ユダヤ人のイメージしていた「メシア」は、キリスト教が教えるような天地創造の始めから存在するメシアではなかった(参照:ヨハネの福音書1章1-18節;コロサイ人への手紙1章15-17節)

ユダヤ人たちがイメージしていた「メシア」と実際のイエスの姿は、これほどまでに異なっていた。

にもかかわらず、

イエスの死後、「イエスこそがメシア(キリスト)だ!」と大勢のユダヤ人たちが信じて疑わなくなってしまったのは、一体なぜか?

一つ確かなのは、

もしイエスが十字架刑で処刑されたままで、よみがえる(復活する)ことなく終わっていたのであれば、これほどまでにかけ離れた「メシア」の姿をわざわざ(命をかけてまで)広めようとするユダヤ人は一人もいなかったであろう

ということ。14

しかし、もし

イスラエルの神が十字架刑で屈辱的な死を迎えたイエスを死人の中から生き返らせ(復活させ)、ユダヤ人たちが実際に自分たちの目で肉体をもって復活したイエスを目撃した

のであれば、

イエスの姿がどれほど自分たちのイメージしていたメシア像からかけ離れていたとしても、イエスこそが神から遣わされた正真正銘、本物のメシア(キリスト)だ

と信じたユダヤ人がたくさんいたとしても、それほど不思議には思えないのは私だけでしょうか。

安息日に関する理解の変化

イエスが死んでよみがえった(復活した)とされる頃から、一層顕著になってくるユダヤ教とキリスト教の聖書の教え・教義の解釈の違い。

その違いはそれぞれの宗教儀礼の在り方にも違いを生じさせました。

その中でも一番大きな違いは「安息日」(読み方は『あんそくにち』、『あんそくじつ』、『あんそくび』)の在り方でしょう。

安息日については、旧約聖書に次のように定められています。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。【出エジプト記20章8-10節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉134-135頁

要するに、

週の七日目は(自分や家族のために)仕事をせず、神様のために捧げなさい(神様に祈ったり聖書を読んだりしなさい)

という掟が「安息日を覚えなさい」というもの。

なお、ユダヤ人にとっての週の七日目は今でいう土曜日に当たりました。

安息日に関する掟は、イエス時代のユダヤ人たちにとって、ある意味、自分たちの民族的・宗教的アイデンティティの中核をなす教え・掟と考えられていて、ユダヤ人たちは非常に厳格に守ろうとしていました。15

にもかかわらず、です。

クリスチャンの間ではイエスの死後、神のために捧げる日は「安息日」とは呼ばれなくなります。

代わりに「主の日」として、土曜日ではなく週の初めの日曜日に集まって神を礼拝するようになります(参照:使徒の働き20章7節;ヨハネの黙示録1章10節)。

これは考えられないほど衝撃的な出来事です。

というのも、

「安息日」を土曜日に覚えるというのは、それが旧約聖書の律法として定められて以来、1000年以上もの間に渡って続いていたユダヤ教の習慣

だったからです。

それほど長くかつ厳密に守られていた習慣がイエスの死後、びっくりするほどあっさりと(?)変わってしまった。

となると、

それにはそれなりの理由が考えられます。

イエスの死後、クリスチャンたちが週の終わりの土曜日ではなく、週の初めの日曜日に人々が集まって神を礼拝するようになった。

その理由は、イグナティオス(Ignatius、35年頃~108年)によると、週の初めの日曜日にイエスが復活したからと言われています。16

もちろん、イエスの復活以外にも、その変化を説明することのできる理由はあるかもしれません。が、

長年続いた習慣を突然変更したという事の大きさを考えると、死んだイエスが復活したという大きな出来事以上に説得力のある理由(説明)はなさそうな気がする

のは私だけではないでしょう。17

イエス復活の証拠②:人々の変化

イエスの弟子たちの変化

イエスの弟子たちというと、よく「聖人」としてヨーロッパの絵画に描かれていますので、

さぞかし信仰心に篤い人格的にも立派な人たちだったんだろうな

と思われると思います。

しかしながら、

聖書、特に福音書の中に出て来るイエスの弟子たちは、いわゆる「聖人」とはかけ離れた、どこにでもいそうなごく普通の人間

として描かれています。

弟子たちのごく普通の人間の側面が表れている記述として、例えば、次のようなものがあります。

  • 自分たちの中で誰が一番偉いかと論じ合った(ルカの福音書9章46-48節)
  • イエスが十字架刑に処せられる裁判のために逮捕されたとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った(マルコの福音書14章50節)
  • イエスが十字架刑で亡くなった後、弟子たちはユダヤ人に危害を加えられることを恐れて、自分たちのいる家の戸にカギをかけていた(ヨハネの福音書20章19節)

一言でいえば、「自分のことしか考えていない弟子たち」の姿が見て取れます。

そんな彼らが、よみがえった(復活した)イエスに出会った後は劇的に変えられてしまいます18

弟子たちは自分のことよりも神の真理を優先し、そのために迫害されることさえも恐れなくなった

のです(参照:使徒の働き5章41-42節)。

そして、実際にイエス(の復活)を信じる信仰の故に殉教する者も多数いました(参照:使徒の働き7章54-60節; 12章1節)。

しかし、ここで

イエスを信じて殉教したからといって、イエスが本当に復活したことの「証拠」とはならないんじゃないの?イスラム教の信者でも殉教している人がいるんだから…

と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

確かに、現代においてもキリスト教徒に限らず、自分が信じるもののために命を失うことも厭わない人たちは少なくありません。

また、信仰の熱心度または敬虔さと信じているものの正しさが比例するとは必ずしも言えません(熱心に信じている人が多いからといって、その教えが正しいとは限らない)。

しかしながら、殉教したイエスの弟子たちと他の宗教の殉教者たちの間で決定的に異なることがあります。それは、

イエスの弟子たちは、ただイエスが復活したことを信じたのではなく、イエスが本当に復活したかどうかを実際に確かめることができた

のです。19

さらに、

イエスの弟子たちの中で迫害のためにイエス(の復活)を信じる信仰を捨てたという人物の記録はありません(もし、そのような改宗者・棄教者がいれば、敵対関係にあった人たちは必ず言及していたはず)。20

イエスの弟子たちの中で迫害による改宗者・棄教者がいないという事実は、イエス復活の信憑性を支持する更なる(情況)証拠と言えると思います。

懐疑者の変化

Saint James the Just By The picture originates from the days.ru open catalogue ([1]), Public Domain, Link

イエスが死んでよみがえった(復活した)ことによって変えられた人はイエスの弟子たちだけではありません。

イエスの生前はイエスのことを信じていなかったものの、復活したイエスに出会ったおかげでイエスを信じるようになった人物がいます。

その人物とはイエスの弟ヤコブ21

まず聖書にはイエスに弟が4人と妹が少なくとも二人いたことが記されています。

この人(イエス)は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。【マルコの福音書6章3節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉76頁

さらに、別の箇所では、イエスの兄弟たちは「イエスを信じていなかった」(ヨハネの福音書7章5節)とも記されています。

しかしながら、イエスを信じていなかった兄弟のうちヤコブに対しては、復活したイエスが現れたと聖書(コリント人への手紙第一15章7節)に書かれてあります。

しかも、このヤコブ、復活したイエスに出会ってただ信じただけではなく、初期のキリスト教会においてリーダー的役割をも担っていたことが分かります(参考:使徒の働き15章12-21節; ガラテヤ人への手紙1章19節)。

そして、前節の「キリスト(メシア)に関する理解の変化」で紹介したユダヤ人歴史家ヨセフスの記述によると、ヤコブは(復活した)イエスを信じる信仰のために殉教しています。

前々節「科学的「証拠」と歴史学的「証拠」」において、ある話(仮説)の信憑性を高める歴史学的証拠の性質として

  • その証拠を友好・利害関係のない者も支持している

というものがありました。

イエスの生前はイエスを信じていなかったヤコブが、復活したイエスに出会ってイエスを信じ、キリスト教会の中心的役割を果たし殉教した。

このヤコブの人生における変化は、まさに上記の性質をもったイエス復活を支持する「証拠」だと言えます。

迫害者の変化

Conversion of Saint Paul (Michelangelo Buonarroti) By Michelangelo - From Web Gallery of Art - http://www.wga.hu/index1.html., Public Domain, Link

最後に、復活したイエスに出会ったがために人生が180度変えられてしまった人物を紹介します。

その人の名はパウロ22

彼は知る人ぞ知る(?)新約聖書の有名人。というのも、新約聖書に収められている「手紙」の多くを書いたのが他ならぬパウロだからです。

しかしながら、このパウロ、その昔はクリスチャンたちを迫害する熱心なユダヤ教徒だったのです。

彼自身、ガラテヤ人への手紙で次のように述べています。

ユダヤ教のうちにあった、かつての私(パウロ)の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。【ガラテヤ人への手紙1章13-14節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉374-375頁

そして、実際にパウロ(サウロとも呼ばれた)がクリスチャンを迫害するためダマスコに向かう途上において、彼は復活したイエスに出会います(参照:使徒の働き9章1-9節)。23

その後、パウロはキリスト教の迫害者から宣教者へと変わってしまいます。

その変わり様にはクリスチャンはもちろんユダヤ教徒たちも驚き、ユダヤ人たちはパウロを殺そうとしたとさえ記されるほど(参照:使徒の働き9章22-23節)。

キリスト教を宣教したが故に、それからパウロは数多くの困難に遭遇します(参照:コリント人への手紙第二11章23-27節)。

しかし、最後まで(復活した)イエスの信仰を捨てることなく生涯を全うしたと言われています。24

イエスを信じていなかっただけでなくイエスを信じる者を積極的に迫害していたパウロが、イエスの復活を証言し、残りの人生をかけて(復活した)イエスのことを宣べ伝えた。

このことは、前項でみたイエスの弟ヤコブと同じかそれ以上に、イエス復活を支持する「証拠」だと言えます。

まとめ

今回のテーマは前回に続いて「イエス・キリストのよみがえり(復活)の信憑性」。特に、イエスが実際によみがえった(復活した)ことを支持する以下の二つの「証拠」を考えてきました。

  • 教義・世界観の変化
  • 人々の変化

なお、今回(そして次回)の記事で考える「証拠」というのは、科学的な意味合いの証拠ではなく、ある一つの話(仮説)が過去に起こった出来事を正しく説明しているかどうかの確からしさ(可能性)を高める・低めるという意味の歴史学的な「証拠」です。

イエスが死ぬ前と死んだ後における「教義・世界観の変化」をまとめると以下になります。

教義・世界観イエスが死ぬ前イエスが死んだ後
よみがえり(復活)よみがえり(復活)は教えの中心ではないよみがえり(復活)はイエスの十字架と並ぶ中心的な教え
よみがえり(復活)の解釈は多種多様よみがえり(復活)の解釈が、それまでには無かった要素を加えて統一的なものへと発展
よみがえり(復活)の比喩的意味は「イスラエル国家の復興」よみがえり(復活)の比喩的意味は「洗礼」など
キリスト(メシア)ローマ帝国の支配からイスラエル民族を解放してくれる王もしくは祭司(復活はもちろん、処刑されることは有り得ない)人々を罪の滅びから救うために十字架刑で処刑された後、よみがえる(復活する)神の子
安息日ユダヤ人の民族的・宗教的アイデンティティの中核をなす教え・掟として、週の七日目である土曜日に集まって神に祈り聖書を読んだイエスがよみがえった(復活した)週の初めである日曜日を「主の日」として、土曜日ではなく日曜日に集まって神を礼拝するようになった

また、死んで復活したイエスに出会う前と後における「人々の変化」をまとめると以下になります。

人々復活したイエスに出会う前復活したイエスに出会った後
イエスの弟子たち自分のこと(地位や名誉、身の安全など)しか考えていなかった自分のことよりも神の真理を優先し、そのために迫害されることも恐れなくなった
懐疑者(ヤコブ)イエスを信じていなかった(復活した)イエスを信じ、初期のキリスト教会においてリーダー的役割を担った結果、殉教した
迫害者(パウロ)イエスを信じておらず、イエスを信じている者を積極的に迫害していた迫害も苦にせず(復活した)イエスのことを生涯宣べ伝えた結果、殉教した

次回はイエス・キリストのよみがえり(復活)を支持する歴史学的(情況)証拠の残りの二つとして、以下を紹介します。

  • 人々の証言
  • 空っぽの墓

そして、記事の最後には、

証拠として示された事柄・出来事・事実に対して、「死んだイエス・キリストが肉体をもってよみがえった(復活した)」という話(仮説)が、他の話(仮説)と比べて、最もよく全ての事柄・出来事・事実を説明できているかどうか

をみていきます。

次回の内容は下記の記事をご覧ください。

死んだイエス・キリストはよみがえった(復活した)のか?③ー復活の証拠(後編)ー
「イエス・キリストのよみがえり(復活)の信憑性」を三回にわたって考えるシリーズ最終回。今回はイエス復活を支持する歴史学的証拠として「人々の証言」と「空っぽの墓」を紹介し、これまでに紹介した証拠と併せて、イエスのよみがえり(復活)の信憑性を検証します。

参考文献および注釈

  • Alexander, L. C. A. “CHRONOLOGY OF PAUL.” Edited by Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid. Dictionary of Paul and His Letters: A Compendium of Contemporary Biblical Scholarship. Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993.
  • Antioch, Ignatius of. The Epistle of Ignatius to the Magnesians (Shorter and Longer Versions). Edited by Alexander Roberts & James Donaldson. Edinburgh: T. & T. Clark, 1865.
  • Evans, C. A. “MESSIANISM.” Edited by Craig A. Evans and Stanley E. Porter. Dictionary of New Testament Background. Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000.
  • France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
  • Habermas, Gary R., and Michael R. Licona. The Case for the Resurrection of Jesus. First Edition. Grand Rapids, Mich.: Kregel Publications, 2004.
  • Josephus. “Book XX.” In The Antiquities of the Jews, translated by William Whiston. London, New York, and Melbourne: Ward. Lock & Co., Limited, 1879. https://en.wikisource.org/wiki/The_Antiquities_of_the_Jews/Book_XX.
  • Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary. Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003.
  • Nolland, J. “SABBATH.” Edited by Joel B. Green, Jeannine K. Brown, and Nicholas Perrin. Dictionary of Jesus and the Gospels. Downers Grove, Ill.: IVP Academic, December 2013.
  • Osborne, G. R. “RESURRECTION.” Edited by Craig A. Evans and Stanley E. Porter. Dictionary of New Testament Background. Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000.
  • Ryken, Leland, James C. Wilhoit, and Tremper Longman III, eds. “RESURRECTION.” Dictionary of Biblical Imagery. Downers Grove, Ill.: InterVarsity Press, December 1998.
  • Strobel, Lee. The Case for Christ: A Journalist’s Personal Investigation of the Evidence for Jesus. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1998.
  • Wright, N. T. The Resurrection of the Son of God. First Edition. Minneapolis, Minn.: Fortress Press, 2003.
  1. もう少し細かい議論は、以前に書いたブログ記事「聖書は信頼できる書物か?③―聖書の信憑性:歴史的・考古学的整合性―」の中の「1. 歴史の性質:1.1 歴史の主観性と客観性」を参照ください。
  2. 詳細は下記を参照。Gary R. Habermas and Michael R. Licona, The Case for the Resurrection of Jesus, First Edition. (Grand Rapids, Mich.: Kregel Publications, 2004), 36–40.
  3. G. R. Osborne, “RESURRECTION,” ed. Craig A. Evans and Stanley E. Porter, Dictionary of New Testament Background (Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000), 931; 詳しくは前回の記事「死んだイエス・キリストはよみがえった(復活した)のか?①―復活の特徴・性質―」を参照ください。.
  4. N. T. Wright, The Resurrection of the Son of God, First Edition. (Minneapolis, Minn.: Fortress Press, 2003), 477.
  5. 詳細は下記を参照。ibid., 477–478.
  6. 聖書の語る「世の終わり(終末)について、興味のある方は下記の記事を参照ください。「世の終わりは既に始まっている!?―キリスト教(聖書)の語る終末とイエスの再臨―」
  7. よみがえり(復活)の比喩的意味合いとしては、例えば「洗礼」など(参照:コロサイ人への手紙2章12節)。詳細は下記を参照。ibid., 478; Leland Ryken, James C. Wilhoit, and Tremper Longman III, eds., “RESURRECTION,” Dictionary of Biblical Imagery (Downers Grove, Ill.: InterVarsity Press, December 1998), 711.
  8. Josephus, “Book XX,” in The Antiquities of the Jews, trans. William Whiston (London, New York, and Melbourne: Ward. Lock & Co., Limited, 1879), 529–530, https://en.wikisource.org/wiki/The_Antiquities_of_the_Jews/Book_XX.
  9. この他にも、2世紀初頭までに書かれた聖書以外の文献で、イエスが「キリスト」と呼ばれていたことを記すものが幾つかあります。ご興味のある方は、ブログ記事「イエスは実在したのか?証拠は?聖書以外で証明できる?」を参照ください。
  10. 詳細は下記を参照。C. A. Evans, “MESSIANISM,” ed. Craig A. Evans and Stanley E. Porter, Dictionary of New Testament Background (Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000), 698–699.
  11. 詳細は下記を参照。ibid., 700.
  12. Craig S. Keener, The Gospel of John: A Commentary (Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003), 719.
  13. マタイの福音書22章41-46節の詳細な注解は、例えば下記を参照。R. T France, The Gospel of Matthew, The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007), 848–853.
  14. イエスの死後、ユダヤ人の間で「メシア」だと思われた人物が少なくとも二人登場します。しかし、どちらも最終的にはローマ帝国によって処刑されてしまいます。彼らが処刑された後も依然として彼らを「メシア」だと主張するユダヤ人は一人もいません。Wright, The Resurrection of the Son of God, 558–559.
  15. 詳細は以下を参照。J. Nolland, “SABBATH,” ed. Joel B. Green, Jeannine K. Brown, and Nicholas Perrin, Dictionary of Jesus and the Gospels (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, December 2013), 820.
  16. Ignatius of Antioch, The Epistle of Ignatius to the Magnesians (Shorter and Longer Versions), ed. Alexander Roberts & James Donaldson (Edinburgh: T. & T. Clark, 1865), chap. 9.
  17. 安息日とイエスの復活に関する詳細な議論は下記を参照。Wright, The Resurrection of the Son of God, 579–580.
  18. 厳密には、復活したイエスが天に昇った後、聖霊(神の霊)が弟子たちの上に臨んでから劇的な変化が生じました(比較:使徒の働き1章8節; 2章1-41節)。
  19. 詳細は下記を参照。Lee Strobel, The Case for Christ: A Journalist’s Personal Investigation of the Evidence for Jesus (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1998), 333–334.
  20. Habermas and Licona, The Case for the Resurrection of Jesus, 59.
  21. 詳細な議論は下記を参照。ibid., 67–68.
  22. 詳細な議論は下記を参照。ibid., 64–65.
  23. 使徒の働き9章1-9節の記述だけを読むと、「パウロは個人的な宗教体験をしただけで、肉体をもって復活したイエスとは出会ったとはいえない」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら、使徒の働きを書いた作者(ルカ)が9章1-9節の描写で伝えたかったこと、パウロ自身が書いた他の手紙・書簡での証言、福音書に描かれているイエス復活の出来事などを考慮すると、パウロは実際に肉体をもって復活したイエスに出会ったと解釈する方が妥当だと思います。詳細な議論は下記を参照。Wright, The Resurrection of the Son of God, 388–393.
  24. キリスト教会の古い言い伝えによると、パウロはローマ皇帝ネロの迫害によって紀元64年にローマで殉教したと言われています。L. C. A. Alexander, “CHRONOLOGY OF PAUL,” ed. Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid, Dictionary of Paul and His Letters: A Compendium of Contemporary Biblical Scholarship (Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993), 116.
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