イエス・キリストはなぜ死んだのか?③―十字架のキリスト教的理由・意味―

今回は「なぜイエス・キリストは十字架で死んだのか?」についての第三回目にして最終回となります。これまでは以下に挙げた三つの内、最初の二つを考えてきました。

  1. 十字架による処刑方法とその死因
  2. イエスが十字架で死んだ政治的・ユダヤ教的理由
  3. イエスが十字架で死んだキリスト教的理由・意味

詳細は以下をご覧ください。

イエス・キリストはなぜ死んだのか?①―死刑(十字架刑)の方法とその死因―
「なぜイエス・キリストは十字架で死んだのか」について考える三部作シリーズの一つ目。紀元前一世紀の哲学者キケロが「最も残酷で屈辱的な処罰」と記した十字架刑、その処刑方法と死因に迫ります。
イエス・キリストはなぜ死んだのか?②―十字架の政治的・ユダヤ教的理由―
「なぜイエス・キリストは十字架で死んだのか」について考える三部作シリーズの二つ目。当時の政治的・宗教的指導者がイエスを処刑した理由は何か。「表向きの理由」の背後には、隠された「本当の理由」があったのかを考察・検証します。

最終回となる今回は「3. イエスが十字架で死んだキリスト教的理由・意味」について考えます。

とは言いながらも、

イエスが死んだキリスト教的な理由・意味というのは、キリスト教の教えの根幹部分に当たりますので、今回の記事だけで全てのことを誰もが納得のいく形で説明できるとは思っていません。

ですから、細かい箇所については別の記事で私が書く予定のもの(と既に書いたもの)もしくは他の文献を参照して頂くことにして、今回は大枠の概念をつかんでもらえればと思います。

なお、今回の記事とは異なる視点で、十字架刑に伴う「屈辱と残酷さ」に焦点を当てながらイエスが十字架で死んだ理由・意味について記した下記の記事もあります。ご興味のある方はあわせてご覧ください。

なぜイエス・キリストは無実の罪で処刑された?十字架の死の理由と意味
十字架刑(磔刑、たっけい)は実は非常に屈辱的で残酷な処罰でした。今回はこの十字架刑の屈辱・残酷性に着目しながら「なぜイエス・キリストはそんなにも屈辱的で残酷な処罰を無実の罪で受ける必要があったのか」を考えます。イエスが十字架で死んだ理由・意味は一体何か。

では、前置きはこれくらいにして、早速、イエスが十字架で死んだキリスト教的理由・意味についてみていきましょう。

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罰する神:神の正義

最近はそれほど聞かなくなったかもしれませんが、一昔前までは誰かが悪いことをするとその人に対して

「そんなに悪いことばかりしてると、そのうちバチがあたるよ」

と言われたものです。

この「バチがあたる」の「バチ」、漢字では「罰」と書きます。広辞苑(第五版)によると、この「罰(ばち)」の意味は

神仏が、人の悪行を罰して、こらすこと。冥罰(みょうばつ)。

出典:新村出記念財団『広辞苑 第五版』(岩波書店、2002年)

だそうです。なお「冥罰(みょうばつ)」というのは、同じく広辞苑によると、「神仏が人知れずくだす罰。めいばつ。」とありました。

要するに、

何か悪いことをしていると、どこかで神様や仏様がその悪事をしっかりと見ていて、人知れずこらしめられる

という考えです。

とはいえ、「私は神も仏も信じていないよ!」とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。が、たとえ神仏を信じていないとしても、

悪いことをしているといつか必ず痛い目をみるだろう

という漠然とした考えは、誰もがもっているのではないかと思います。

とすれば、です。

ここで問題となるのは、

  1. 「悪いこと」とはどのようなものか
  2. 悪いことをすると、どれほどの痛い目をみることになるか
  3. 悪いことをしてしまった後で痛い目をみずに済ます方法はあるか

といったことでしょう。以下では、これら三つの問いに聖書がどのように答えるかを駆け足でみていきます。1

まず「1. 悪いこと=罪(つみ)」について、聖書は特に

  • 神に従わないこと
  • 神の命令を守り行わないこと

を挙げます(参考:申命記28章15節以下)。2

その結果、「2. どれほどの痛い目=罰(ばつ)」をみるかというと、それは究極的に

です。3

えっ、いきなり死んでしまうの?

と思われるかもしれませんが、例えば、聖書には神によって最初に造られたアダムという人物が登場します。このアダムは神から次のように命じられます。

善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。【創世記2章17節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)3頁

しかし、アダムは神様の命に従わず、善悪の知識の木を食べてしまいました。その結果、神はアダムを追放しました。そのため、アダムは食べると永遠に生きるようになったであろう「いのちの木」を食べることができなくなったのです(参考:創世記3章22-24節)。

つまり、アダムは神に従わなかった罪の罰として、永遠に生きるチャンスを逃してしまった。即ち、死を待つより他なくなったという訳です。4

The Fall By Michelangelo - www.heiligenlexikon.de/Fotos/Eva2.jpgTransferred from de.wikipedia to Commons by Roberta F. using CommonsHelper., 9 September 2007 (original upload date), Original uploader was Nitramtrebla at de.wikipedia, Public Domain, Link

また、有名な(?)「ノアの箱舟」の話は、「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった」(創世記6章5節)神が、洪水によって人々を地上から消し去った話です(参考:創世記7章23節)。

つまり、神の望むことを行わず、神の前に堕落し、暴虐の限りを尽くしていた人々に対して、彼らの犯した罪の罰として、神は洪水によって死をもたらしたという訳です。


Noah's Ark By Edward Hicks - http://www.cs.berkeley.edu/~aaronson/zoo.html, Public Domain, Link

この他にも聖書には、神(の命令)に従わなかった罪の罰を受けて死んでしまった人々の話が色々と出てきます。 5

これらの話が意味すること、それは

聖書の神は罪(神に従わないこと)を非常に重く受け止めており、罪を犯した者は究極的に死をもって償う他ない

ということ。6

ここに「正義」「正しさ」を重んじる神の姿がはっきりと表れています。

さらに、聖書には「罪に陥らない人は一人もいません」(列王記第一8章46節)と書いてありますので、罪の罰が死であるならば、遅かれ早かれ死を免れる人は一人もいないことになります。7

でも、このことは誰もがよく知っていることでしょう。実際問題、この地上に不老不死な人間は一人としておらず、人は皆、例外なく死んでいくからです。8

ということは、です。

先に挙げた「3. もし可能なら、悪いことをしてしまった後で痛い目をみずに済ます方法はあるか」の答えは、残念ながら、

痛い目をみずに済ます方法、つまりは、死を免れる方法はない!!!

と言いたくなりますが、

実は、

死を免れる(救いの)方法がある

と語るのが聖書なのです。

赦す神:神の愛

神に対して悪いことを行った(神に従わない)という罪の罰としての死。その死を免れる救いの方法をみるためには、神による罪の赦しについて理解する必要があります。

天地万物の創造主なる神は、被造物である人間が神に逆らう(従わない)ことを非常に重く受け止めます。そして、その罪の罰として、罪を犯した人のを要求します。

つまり、罪を犯した人は死をもって罪を償う必要があります。

この部分だけ聞くと確かに、聖書の神は

断固として「正義」「正しさ」を貫かんとする怖くて恐ろしい神

です。

しかし、

と同時に、聖書の神は

「愛」と恵みと憐れみに富んだ神

でもあるのです。そして、愛と恵みと憐れみに富んだ神は、自分に逆らった(従わなかった)人間を赦すお方でもあるのです。9

ただし、人間関係においても罪に対する償い(謝罪や賠償など)が必要なように、聖書の神もまた

人の犯す罪を無条件で赦してくださる訳ではありません。

神は人が犯した罪を赦す代わりに、人間の「命」の代わりとなるものを要求するのです。それが何かというと

動物の「命(特に血)」

なのです。10

なぜなら、聖書の神は次のように語るからです。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたし(神)は、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥(なだ)めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。【レビ記17章11節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)208頁

ここで「宥(なだ)め」という聞き慣れない言葉が出てきていますが、ここでは「罪ほろぼし」もしくは「罪の償い(賠償)」と理解して構わないと思います。11

つまり、

動物の血の中に命があるから、罪を犯した人のたましい(命)の罪ほろぼしのためには、動物を殺してその血を神に捧げなさい

というのです。

ちなみに、この罪ほろぼしのために殺される動物は「いけにえ」と呼ばれ、傷のない牛や羊や山羊などが捧げられました(参考:レビ記4章3、23、28、32節など)。12

By Illustrator of Henry Davenport Northrop's "Treasures of the Bible," 1894 - http://www.lavistachurchofchrist.org/Pictures/Treasures%20of%20the%20Bible%20(Moses)/target26a.html, Public Domain, Link

ここで注意事項が一つ。

というのも、確かに、神に罪を赦してもらうためにはいけにえを捧げる必要があります。が、かと言って、

いけにえさえ捧げていれば、自分の好き勝手に何をやっても神様は文句を言わない(罪を犯し放題)とは言えない

からです。

事実、聖書には次のように記されている箇所があります。

主(神)は、全焼のささげ物やいけにえを、主(神)の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。【サムエル記第一15章22節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)505頁

ここにはっきりと、神は人間がいけにえを捧げるよりも神に聞き従うことを喜ぶことが示されています。

極論すれば、いけにえを捧げるよりも神に従ってほしい(罪を犯さないでほしい)というのが神の人間に対する願いと言えるでしょう。13

さらに、別の聖書個所には次のようにあります。

「しかし、今でも―主のことば―心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたし(神)のもとに帰れ。」衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。もしかすると、 主が思い直してあわれみ、祝福を後に残しておいてくださるかもしれない。あなたがたの神、主への穀物と注ぎのささげ物を。【ヨエル書2章12-14節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)1554-1555頁

ここでは神が人々に「心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、私のもとに帰れ。」と呼びかけています。というのは、もし人々が神に立ち返るならば、神は情け深く、憐み深く、怒るのに遅く、恵み豊かだから、わざわい(人々の罪に対する罰)を思い直すかもしれないからです。

ここで注目すべきは、神にわざわい(罪の罰)を思い直してもらうために、いけにえやささげ物を捧げなさいとは言っていないということ。いけにえよりも大事なのは、

心から神に立ち返る(神に従い直そうと決心する)こと

なのです。

ちなみに、これをキリスト教用語で「悔い改める」と言います。14

つまり、

心から神に立ち返った(悔い改めた)上でいけにえを捧げない限り、神は人の罪を赦してはくださらない

ことが分かります。

ここで、もう一つの注意事項があります。

それは、

人が悔い改めていけにえを捧げさえすれば、自動的に神がその人の罪を赦してくださる訳ではない(人が神の赦しを要求する権利はない)

ということ。

神が人の罪を赦してくださるのは、あくまでも(先に挙げた聖書個所にある通り)、

神が情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊か

だからなのです。15

えっ、でも、ちゃんと悔い改めて、いけにえも捧げたんだから、赦してくれて当然じゃないの!?第一、神様は情け深くて、憐れみ深くて、怒るのにも遅くて、恵み豊かというんなら、悔い改めもいけにえも無しに赦してくれそうなものなのに…。何か騙されている気がするなあ。

とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は、そもそものところの罪の罰を思い出して頂けると少しは納得できるかもしれません。

前節でみたように、私たち人間が神に従わなかったという罪の罰はでした。

即ち、そもそものところ、神の被造物である私たち人間は、造り主なる神に逆らった(罪を犯した)時点で命を絶たれても文句の言えない立場にあったのです。

しかし、神は情け深く憐れみ深く怒るに遅く恵み豊かなお方なので、私たちが罪を犯したとしても直ぐに命を取ることはせずに、悔い改めていけにえを捧げる機会を与えてくださっているのです。

主導権は絶えず天地万物の造り主である神の側にあって、神に造られた被造物である人間の側にはありません。16

あくまでも、

神の愛と恵みと憐れみによって、

私たちは罪赦され、救われるのです。

救う神

さて、ここまでの記事を読んでくださった方はそろそろ(とっくに?)

一体、いつになったらイエスが十字架で死んだ理由・意味についての話が始まるんだろう?

と疑問に思われる(思っている?)かもしれません。

しかし、これまでの話の中に実は、イエスが十字架で死んだ理由がそれとなくほのめかされていたことに気付いていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。

そうなんです。先に答えを言ってしまうと、キリスト教の聖書が語るイエスが十字架で死んだ理由とは、

天地万物の創造主である唯一の神に対して罪を犯した人間が、その罪を神に赦され、罪の罰である死から救われる方法を提供するため

なのです。 17しばしば、十字架には神の正義(罪を罰する神)と神の愛(罪を赦す神)が表されていると言われる所以です。

イエスが十字架で死んだ理由

前々節「罰する神:神の正義」では、神は私たちの犯した罪に対して、私たちの「命」を要求することをみました。

前節「赦す神:神の愛」においては、神は私たちの罪を赦す代わりに、私たちの命の代わりとして(傷のない)動物の命(特に血)をいけにえとして要求することをみました。ただし、ただ形式的にいけにえを捧げればよいのではなく、心から神に立ち返る(悔い改める)ことも必要であることもみました。

要するに、私たちの罪が赦されるためには、まず何らかの身代わり(傷のないいけにえ)が必要という訳です(参照:へブル人への手紙9章22節)。

そしてイエスは、まさにこの私たちの罪が赦されるための身代わり(傷のないいけにえ)として、無実の罪を背負って十字架で死んだのだと聖書は語ります。

イエス自身、次のように言っています。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。【マルコの福音書10章45節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)89頁

「人の子」という表現はイエスが自分自身のことを指すときによく使った表現ですので、ここでイエスは自分自身のことについて語っています。

つまり、イエスは、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たと言っているのです。

「贖いの代価」という言葉を「身代金」と訳す日本語訳聖書(新共同訳)もありますが、その意味するところは「等価なものを支払って得られる解放」のこと。18

従って、イエスは、

人間に(死からの)解放を与える価値のある(罪を犯していない)自分のいのちを与える(十字架で死ぬ)ために地上にやって来た

と言っている事になります。

さらに、イエスがこの地上に生まれる700年ほど前に、一人の預言者が「ある人物」の出現を預言していました。その預言とは以下のものです。

しかし、彼を砕いて病を負わせることは主(神)のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。【イザヤ書53章10節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)1259頁

ここには自分のいのちを人々の罪の代償のささげ物として捧げるために苦しまんとする人物の姿が描かれています。また、その人物が苦しみ、自分の命を捧げることは神のみこころ(願い・計画)であるとも記されています。

この箇所で「彼」と呼ばれている人物こそが、十字架に架かって死んでいくイエスその人であると理解できます。19

さて、

ここでも再び注意事項が一つ。

傷のない動物のいけにえを捧げるときにも悔い改め(心から神に立ち返ること)が必要であったのと同じように、

ただイエスが無実の罪を背負って十字架で死ねば(傷のないいけにえとして捧げられれば)、自動的に全ての人の罪が赦される訳ではありません。

私たちの罪が赦されるために必要なこと、それは

神のひとり子なるイエスが自分の罪の代償として十字架で死んでくださったことを心から認め、

イエスを信じ信頼し、神の望まれるように人生をやり直そうと決心する(悔い改める)こと。20

そうするとき、

情け深く憐み深く怒るに遅く恵み豊かな神はあなたの罪を赦してくださいます。

それだけではありません。

罪赦されると同時にあなたは、

「死」の支配から完全に解放され、永遠のいのちを持つことができる

のです。

イエスが十字架で死んだ理由、それは

神の愛と恵みと憐れみによって、悔い改めてイエスを信じる者の罪を赦し、死の支配から解放し、永遠のいのちを与えるため

なのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。【ヨハネの福音書3章16節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)180頁

イエスが十字架で死んだ意味

では最後に、イエスが十字架で死んだことを通して

  • 何が分かるのか
  • 何がどう変わったのか

といったこと、即ち、イエスの死が意味することに関して、神と私たち人間の関係に注目しながらみていきましょう。21

まずイエスが十字架で死んだことにより、神と人との間の絆が回復したと聖書は語ります。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。 【コリント人への手紙第二5章18-19節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)361頁

ここに「和解」という言葉が出てきています。この言葉は、喧嘩していた友達と仲直りしたという意味よりもむしろ、「それまで敵対していた関係が友好的な関係に取って代わられた状態」を意味します。22

このことから、

神と人とは敵対していた(している)

ということが分かります。

なぜ敵対していた(している)かというと、人が神に逆らった(逆らっている)からです(参照:ローマ人への手紙5章8-10節)。そして、その「背きの責任」とは何かというと、これまでみてきたように、です。

が、しかし、

神は、キリスト・イエスが人々の罪の代償として十字架で死ぬことによって、この世の人々をご自分と和解させ、背きの責任としての死を負わせなかった

というのです。

従って、イエスが十字架で死んだことによってもたらせたことの一つは、

神と人との和解

もしくは

神と人との絆の回復

と言えます。

ただし、

またまた注意事項

となりますが、

この神と人との絆の回復が、イエスが十字架で死ぬことによって自動的に地上に住む全ての人にもたらされた訳ではありません。

神と人との絆の回復がもたらされるためには、人間の側が悔い改めて(神のもとに立ち返り)イエスを信じる必要があります。

このことは、先に挙げた聖書個所に書いてあるように、神と和解した人々に「和解の務め(ことば)」が与えられて(委ねられて)いることからも明らかです。もし、イエスが十字架で死ぬことによって全人類が自動的に神と和解されているのであれば、和解の務めは必要ないからです。

とはいえ、

和解させるのは、あくまでも、神(と罪の代償としてのイエスの十字架での死)

です。従って、ここで言われる「和解の務め」とは、これまでみてきた「イエスが十字架で死んだ理由」(和解のことば)を周りの人々に伝えることと言えます。23

まとめ

今回は「なぜイエス・キリストは十字架で死んだのか?」の最終回として、「イエスが十字架で死んだキリスト教的理由・意味」をみてきました。

時の政治的・宗教的指導者が「正義」や「愛」を追求しなかったが故に、無実の罪を背負わされ、その当時「最も残酷で屈辱的な処罰(a most cruel and ignominious punishment)」24 とされた十字架刑でイエスが死んだ理由とは、

天地万物の創造主である唯一の神に従わなかった(罪を犯した)罰として、死んで償う他なかった人間を救うため。

これは、神が自らの「正義」と「愛」を追求したが故の必然の結果とも言えます。

また、イエスの死が意味することは、その一つとして、

人が神に従わなかった(罪を犯した)故に神と人との絆が断たれており、その壊れてしまった関係を回復するために、人々の罪の代償としてイエスが十字架で死んだということ。

従って、もし今あなたが、

自分が神に従わなかった罪の代償として、

神のひとり子なるイエスが十字架で死んでくださったことを心から認め、

イエスを信じ信頼し、神の望まれるように人生をやり直そうと決心する(悔い改める)ならば、

愛と恵みと憐れみに満ちた創造主なる神は

あなたの罪を赦し、永遠のいのちを与え、断たれていた神との絆を回復してくださいます。

参考文献および注釈

  • Cicero, Marcus Tullius. “Against Verres,” translated in 1903. Wikisource.
  • Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
  • Frame, John M. Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology. Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006.
  • France, Richard Thomas. The Gospel of Mark: A Commentary on the Greek Text. New International Greek Testament Commentary. Grand Rapids; Carlisle: Eerdmans; Paternoster, 2002.
  • Gane, R. E. “SACRIFICE AND ATONEMENT.” Edited by Mark J Boda and J. Gordon McConville. Dictionary of the Old Testament: Prophets. Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  • Harris, Murray J. The Second Epistle to the Corinthians: A Commentary on the Greek Text. The New International Greek Testament Commentary. Grand Rapids; Milton Keynes: Eerdmans; Paternoster, 2005.
  • Mathews, K A. Genesis 1-11:26. The New American commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 1996.
  • McKeown, J. “FORGIVENESS.” Edited by Mark J Boda and J. Gordon McConville. Dictionary of the Old Testament: Prophets. Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012.
  • Morris, L. L. “ATONEMENT.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, J. I. Packer, and D. J. Wiseman. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
  • Walton, John H. Genesis. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
  • Wenham, Gordon J. The Book of Leviticus. New International Commentary on the Old Testament. Eerdmans, 1979.
  • Yarbrough, R. W. “Atonement.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  • ———. “FORGIVENESS AND RECONCILIATION.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  1. キリスト教(聖書)が教える「悪いこと=罪」について詳しく知りたい方は下記の記事を参照ください。「人はみな罪人?キリスト教(聖書)の教える罪とは?―罪の定義と本質―」「なぜ人は罪を犯す?生まれながらに罪人?原罪とは何?―罪の原因―」「罪に程度や大小の違いはある?赦されない罪は?―罪の種類と結果―」
  2. エリクソンによると、罪の本質は「神以外のものを神以上に重要視すること」です。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 530.
  3. 聖書における「死」についての詳細は以下を参照。ibid., 557–561.
  4. 詳細な解説は以下を参照。K A. Mathews, Genesis 1-11:26, The New American commentary (Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 1996), 211–212; John H. Walton, Genesis, The NIV Application Commentary (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001), 174–175.
  5. 例えば、出エジプト記32章、レビ記10章1-2節、民数記16章、17章6-15節、21章4-9節、ヨシュア記7章など。
  6. 詳しくは下記を参照。R. W. Yarbrough, “Atonement,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 391.
  7. 罪(とその罰)に大小があるかについて、興味のある人は例えば以下を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 501–504.
  8. ただし、聖書には死ぬことなく神によって天に上げられた人物が二人登場します。一人はエノク(創世記5章24節)、もう一人はエリヤ(列王記第二2章11節)。
  9. 聖書の神がどのようなお方であるかは、下記の記事を参照ください。「キリスト教(聖書)の神はどんな神?①ー造り主なる神の性質ー」「キリスト教(聖書)の神はどんな神?②ー救い主なる神の性質ー」「キリスト教(聖書)の神はどんな神?③ー裁き主なる神の性質ー」
  10. 詳しい議論は下記を参照。L. L. Morris, “ATONEMENT,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 102.
  11. 「宥め」(他の日本語訳聖書では『贖[あがな]い』と訳される場合もあり)と訳されている元々のヘブル語の言葉の意味について、詳しくは下記を参照。Gordon J. Wenham, The Book of Leviticus, New International Commentary on the Old Testament (Eerdmans, 1979), 59–62.
  12. 聖書における「宥め」の捧げ物について、興味のある方はレビ記1-7章を参照。
  13. いけにえを捧げることと神への従順さの関係についての詳細は下記を参照。R. E. Gane, “SACRIFICE AND ATONEMENT,” ed. Mark J Boda and J. Gordon McConville, Dictionary of the Old Testament: Prophets (Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012), 688–689.
  14. 「悔い改め」についての詳細は以下を参照。John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 196–197.
  15. 赦しの主導権は神にあることについて、詳しい議論は下記を参照。J. McKeown, “FORGIVENESS,” ed. Mark J Boda and J. Gordon McConville, Dictionary of the Old Testament: Prophets (Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012), 254–255.
  16. 人間の側に主導権があると主張することは神の主権に逆らうこと、つまりは罪を犯すのと同義です。
  17. イエスが死んだ理由と意味についての包括的な議論は例えば以下を参照。Erickson, Christian Theology, 731–752.
  18. 詳しくは下記を参照。Richard Thomas France, The Gospel of Mark: A Commentary on the Greek Text, New International Greek Testament Commentary (Grand Rapids; Carlisle: Eerdmans; Paternoster, 2002), 420.
  19. なお、この箇所の前後を含めたイザヤ書52章13節から53章全体が、イエスが十字架に架かって死んでいく様を表していると理解できます。
  20. 詳しくは下記を参照。R. W. Yarbrough, “FORGIVENESS AND RECONCILIATION,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 501–502; Frame, Salvation Belongs to the Lord, 188–199.
  21. イエスの死が意味することについての包括的なまとめとしては、例えば下記を参照。Erickson, Christian Theology, 751. 十字架刑の屈辱・残酷性から垣間見えるイエスの死の意味については、下記の記事を参照ください。「なぜイエス・キリストは無実の罪で処刑された?十字架の死の理由と意味」
  22. Murray J. Harris, The Second Epistle to the Corinthians: A Commentary on the Greek Text , The New International Greek Testament Commentary (Grand Rapids; Milton Keynes: Eerdmans; Paternoster, 2005), 436.
  23. 詳しくは下記を参照。ibid., 438–439.
  24. Marcus Tullius Cicero, “Against Verres,” translated in 1903, 2. 5. 64. 165, Wikisource.
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