「光を宣べる復活の主」:2020年4月19日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

全国に発令された緊急事態宣言を鑑み、Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)ではオンラインで日曜礼拝を行っています。
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導入

新型コロナウイルスの感染が広がっているため、今はとりわけ暗いニュースばかりを耳にします。学校にも行けず、職場にも行けず、娯楽施設やショッピングモールも閉鎖され、精神的にもかなりのストレスが溜まってきている人がほとんどだと思います。何か楽しいこと、明るい話題はないのかと思いたくなります。そんな私たちにとって、

十字架で死んでよみがえられたイエス様が「光を語り告げる」

と聖書は約束しています(使徒言行録26章23節)。

今日の聖書個所を通して、十字架で死んで復活されたイエス様が私たちに語り告げる「光」について、共に考えたいと思います。

光を見るパウロ

今日の聖書個所で「光」という言葉が最初に出てくるのは13節です。そこでパウロは復活したイエス様と初めて出会った時の状況を説明しています。

このときパウロはイエス様のことを信じているどころか、イエス様を信じて従おうとする人々(クリスチャンたち)を迫害していました。

そんなとき、真昼だったにもかかわらず、太陽よりも明るい天からの光を見たとパウロは語っています。それからイエス様がパウロに現れ、彼に語り掛けられます。

まずイエス様はパウロに現れた理由を告げられています。

イエス様がパウロに現れたのは、

パウロがイエス様を見たこと、そして、この出来事以降にイエス様がパウロに示すことを人々に告げ知らせる

ためでした(16-17節)。

イエス様と出会うという体験をした後で、イエス様がパウロに示されたことの一つには、パウロがイエス様の名のために苦しむ(迫害を受ける)ことが挙げられます(参照:使徒言行録9章15-16節)。

事実、パウロはその宣教活動の中で数多くの迫害や災難に遭いました(参考:コリントの信徒への手紙第二11章23-27節)。しかし、そのような

困難や迫害の中から確かに神様はパウロを救い出され、パウロをあらゆる場所にお遣わしになられた

のです。

光に立ち帰る人々

神様がパウロを様々な困難や迫害の中から救い出し、パウロの宣教活動を助けられたのには理由がありました。それは、パウロがイエス様に出会ったこと、またイエス様から示されたことを証しすることによって、

人々の目が開かれ、人々が闇から光に、即ち、サタンの支配から神に立ち帰り、イエス様を信じる信仰によって罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかる

ためでした(使徒言行録26章18節)。

この使徒26章18節にも「光」という言葉が出てきています。この個所では特にサタンの支配としての「闇」との対比というかたちで、神様御自身が「光」にたとえられています。

「闇から光に立ち帰る」または「サタンの支配から神に立ち帰る」というのは、いわゆる「悔い改め」のこと。

「聖なる者」というのは、悔い改めと信仰によって、罪が赦され、聖なる神様の子供とされた人たちのことです(比較:コリントの信徒への手紙第一1章2節)。

さらに、26節の最後にある「相続にあずかる」というのは、神様の子供(聖なる者)として、イエス様が再びこの世に来られたときに実現する新しい天地での生活にあずかることを意味しています(比較:ローマの信徒への手紙8章14-25節;エフェソの信徒への手紙1章3-14節;テトスへの手紙3章4-7節)。

イエス様が再びこの世に来られるとき、イエス様を信じる者はイエス様が復活していたときにもっていたものと同じ「栄光の体」をもってよみがえり(フィリピの信徒への手紙3章20-21節;比較:コリントの信徒への手紙第一15章50-52節)、新しい天地で神様とともに永遠に生きるようになると聖書は約束します(ヨハネの黙示録21章1-7節)。

光を語り告げるイエス

パウロがイエス様の言葉に聞き従って、民族や身分を問わずに全ての人に宣べ伝えたことの核心が使徒言行録26章23節に述べられています。それは

メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる【使徒言行録26章23節】

出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き』(日本聖書協会、2018年) (新)262頁

ということ。そして、

このメシアこそが、十字架刑という苦しみを受け、死んでよみがえられたイエス様に他ならない

ということです。

では、

十字架で苦しまれ、死んでよみがえられたイエス様が今も生きて全世界の人々に語り告げている「光」とは何でしょうか?

それこそ、

聖書の語る福音(良き知らせ)

です。具体的には18節でみたように、

イエス様のことについて聞いた人々の目が開かれ、彼らが悔い改めてイエス様を信じ従うようになり、罪赦された神様の子供として、イエス様が再びこの世に来られたときに実現する新しい天地で共に生活できるようになる

ことです。
ここで注目していただきたいことは、

復活したイエス様御自身が今も生きて、イエス様を信じる者たちを通して、世の中の「光」である福音を語り告げておられる

ということ。

私たちに望まれているのは人々を救うことではなく、絶望のどん底の中にある人々に寄り添うこと

です。

そこには何も言葉はいらないかもしれません。

かける言葉が見つからないとしても、ただただ、イエス様のようにその人の人生に共に寄り添おうとする。

そうするとき、

イエス様御自身がその人に語り掛けてくださる

ことが多いように思います。

結論

クリスチャンたちを迫害していたパウロが天からの光を見てイエス様と出会い、この世に光をもたらす福音(良き知らせ)を伝える者へと変えられました。

この世に光をもたらす福音とは、

私たちがそれまでの生き方を転換して光である神様に立ち帰り、イエス様を信じ従おうとするとき、罪赦された神様の子供とされるという福音。そして、イエス様が再びこの世に来られたときに実現する新しい天地で神様と共に永遠に生きるようになるという福音

です。この「光」を、十字架で死んでよみがえられたイエス様御自身が今も生きて、語り告げていらっしゃるのです。

聖書が「新しい天地で永遠に神様と共に生きる」と語るとき、それは物理的な肉体をもった人々が再び死ぬことなく神様と共に生きることを意味しています。まさに「不老不死」の世界が実現するのです。

そんな非科学的なことが起こるはずがない!

とおっしゃるかもしれません。けれども、

「そんな非科学的なこと」がもう既に起こった

と聖書は語るのです。それがイエス様の復活です。

実際、イエス様の復活を宣べ伝えることで死んでいったイエス様の弟子たちの生涯を思うとき、イエス様の復活は実際に起きた出来事だと考えるのが自然なように個人的には思います。

と言われても、です。

仮にイエス様の復活が本当で、イエス様が再び来られたときに新しい天地で永遠に過ごすことになるとしても、それはあくまで未来の話。今現在の苦しみ、悲しみをどうにかしてほしい

と思われる方がいらっしゃるかもしれません。が、残念ながら、

この世に生きる限り、苦しみ、悲しみが無くなることはない

と聖書は語っています。今日のパウロの話はもちろんイエス様の十字架を見れば、そのことは明らかです。

が、しかし、です。

それで話は終わらない

とも聖書は語るのです。

今現在の世界の惨状をみて、誰よりも心を痛めていらっしゃるのは創造主なる神様です。だからこそ、

神様はこの世の中を本来あるべき姿に戻すため、自らが人の姿をとってこの世に来られ、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、死んでよみがえってくださった

のです。

それは、私たちが悔い改めてイエス様を信じる信仰によって、神様との本来あるべき関係を回復するため、また私たちの本来あるべき姿、私たちが復活したときにもつ「栄光の体」を指し示すためでもありました。

また、

復活したイエス様は今も生きて、イエス様を信じる者といつも共にいてくださっています。

現在は新型コロナの影響で様々な不都合さを経験しています。やりたいこと・やれることがあっても、公共の利益のためにそれを差し控えることが求められています。

でも、

イエス様はこのような不都合さをある意味、誰よりもご存知なお方

です。というのも、

全知全能で天地万物を創造されたお方が、御自分が創造された人間のかたちをとられた

からです。

神が人となることに伴う不都合さは、私たち人間には到底理解できません。が、神様は私たち人間を救うためにその不都合さを経験された訳です。

それだけでなく、

イエス様は私たちが経験しているような苦しみ、悲しみをも全て経験されています。

イエス様は誰にも理解されず、友だと思っていた人々には見捨てられ、裏切られました。無実の罪をかぶせられ、罵られ、あざけられ、十字架上で極限状態の苦しみを味わいながら死んでいかれました。

そのイエス様が今、苦しみや悲しみ、不都合さを経験しているあなたと共にいて、あなたを励まし、慰め、力づけてくださっています。
この暗い世の中にあって、あなたといつも共にいてくださっている「光」に気付くことができますように。

参考文献および注釈

  • Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
  • Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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