「目を覚まして生きる」:2022年7月17日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。

  • 日時:2022年7月17日(日)
  • 場所:軽井沢リトリートセンター
  • 説教タイトル・テーマ:「目を覚まして生きる」
  • 聖書個所:マタイによる福音書25章31-46節1
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導入

新型コロナウイルスの感染拡大に始まって、

ロシアによるウクライナ侵攻、

世界規模のインフレ、

異常気象…

私たちの身の回りで起こるこのような出来事を耳にする度に

これから世の中はどうなっていくのだろうか。世の終わりがいよいよ近づいてきているかもしれない

と感じる人は少なくないように思います。

世の終わりについて、聖書がはっきりと語っていることは、

世の終わりがいつ来るのかは誰にも分からない

ということ(マタイによる福音書24章36-37節)。そして、

世の終わりがいつ来てもよいように(イエス様がいつ来られてもよいように)、目を覚まして生きる

ことです(マタイによる福音書24章42節)。今日は

「世の終わりがいつ来てもよいように(イエス様がいつ来られてもよいように)、目を覚まして生きる」とは具体的にどういう生き方なのか?

を共に考えたいと思います。

イエスの再臨に備える

「目を覚まして生きる」ことに関して、マタイはイエス様のたとえ話を幾つか記しています。

まずマタイによる福音書24章43-44節において、

イエス様は御自分の再臨を盗人が夜、人の家に忍び込むこと

にたとえています。

盗人がいつ何時やってきても、家の中に忍び込ませないようにするために「目を覚ましていなさい」という訳ですから、

イエス様がいつ来られても良いようにしっかり備えておきなさい

という訳です。

同じ意味合いのたとえ話がマタイによる福音書25章1-13節にも記されています。

そこには十人のおとめが登場し、五人はしっかりと備えていた賢いおとめ、他の五人はしっかりとは備えてなかった愚かなおとめとされています。

この「十人のおとめ」のたとえから分かることは、

イエス様が来られてから備えを始めようとしても遅すぎる

ということです。

イエス様が来られるまでに何をどう備えるか(どのように生きるか)

が大事だと言えます。

使命に忠実に生きる

「イエス様が来られるまでに何をどう備えるか(どのように生きるか)」について、もう少し具体的に説明しているのがマタイによる福音書24章45-51節「忠実な僕と悪い僕」のたとえ話です。

主人から任された仕事に忠実であるか、そうでないかによって、主人が帰って来た時に受ける報いが異なるという話です。

このたとえ話から、

イエス様がいつ帰って来られてもよいように、私たちは神様・イエス様から与えられた務め・使命に忠実に生きる

ことが求められていることが分かります。

マタイによる福音書25章14-30節に出てくる「タラントン(タラント)のたとえ」も同じく、イエス様がいつ帰って来られてもよいように、神様・イエス様から与えられた務め・使命に忠実に生きることの大切さを教えてくれます。

加えて、「タラントン(タラント)のたとえ」からは、

それぞれに与えられる務め・使命は異なるので互いに互いを比べる必要はない

ことが分かります。また、

神様から罰せられることを恐れて何もしないよりも、神様に信頼して行動を起こすことの方を神様は喜んでくださる

ことも分かります。

神と人を愛する

ここで、神様から与えられた「務め・使命」と聞くと、人生の全てを神様に献げて伝道牧会に専心するといった、特別な人に任せられた偉大な「務め・使命」をイメージされる方がいらっしゃるかもしれません。

そういう方は是非、今日の聖書個所であるマタイによる福音書25章31-46節をもう一度じっくり読んでみてください。

この個所にはイエス様が再びこの世に来られた時になされる「最後の審判」の様子が記されています。

そのイエス様の裁きの中心となっているのは「人生の全てを神様に献げて伝道牧会に専心したか」どうかではありません。

むしろ、

困っている人・助けを必要としている人に対して何をしたか

が裁きの基準となっています。

特にマタイによる福音書25章34-36節でイエス様は、天地創造の時から用意されている神の国を受け継ぐ、つまりは

永遠の命を得る人たちというのは、イエス様が衣食住に不自由しているときに助け、病気の時に看病し、牢にいた時に訪問した人たち

だとおっしゃっています。

ところが、注目すべきことに、この34-36節の言葉をかけられた人たちは、

「そんなことをした覚えはありません」

と逆にイエス様に質問するのです(37-39節)。

するとイエス様は、

「この最も小さな者」、即ち、「今、このときに何らかの助けを必要としている、弱く取るに足らない人」に助けの手を指し伸ばすのはイエス様にした

のだとおっしゃいます(40節)。

「善きサマリア人」のたとえ(ルカによる福音書10章25-37節)の表現を使うならば

「困っている人・助けを必要としている人の隣人となる」つまりは「隣人を自分のように愛する」ことはイエス様・神様を愛すること

だとも言えます。

キリスト者にとって最も重要な戒めは全身全霊で神様を愛すること、そして自分自身のように隣人を愛すること

です(マタイによる福音書22章34-40節)。ですから、

神様から与えられた「務め・使命」というのは他でもない、この最も重要な戒めを守ること

だと言えます。

その愛し方は、それぞれに与えられた能力や賜物、置かれている環境などで異なりますし、他の人と比べる必要はありません。

イエス様がいつ帰って来られてもよいように、今、自分が置かれている場所で、自分にできる最高最善の方法で困っている人・助けを必要としている人の隣人となれるかどうか

が問われています。

結論

残念ながら、

世の終わりがいつ来るのか、イエス様がいつ来られるのかは神様以外、誰にも分かりません。

神様が私たちに望んでいることは、

世の終わりがいつ来てもよいように、イエス様がいつ来られてもよいように、目を覚まして生きること

それは、

今、自分が置かれている場所で、自分にできる最高最善の方法で困っている人・助けを必要としている人の隣人となる

ことだと言えます。

他の人と比べる必要はありません。

自分には何もできないから

どうせ失敗するのは分かっているから

有難迷惑と思われてかえって嫌われてしまうから

と色々な理屈を並べて何もアクションを起こさないことを神様は望んでおられません。

目の前の困っている人・助けを必要としている人の立場になって、

「自分がその人だったらこうしてもらいたいな」と思うことからとりあえずやってみる

そこから全てが始まります(マタイによる福音書7章12節)。

もちろん、そうするためには、

その人のことをより良く知る必要があります。

知恵が必要です。

勇気が必要です。

思いやりの心、何よりも愛が必要です。

しかし、それら

必要なもの全てはあなたのうちに住んでおられる神様の霊、聖霊が与えてくださいます。

ここで決して忘れてはならないことがあります。

それは、

強制や義務感から神と人を愛する訳ではない

ということです。また、

最後の審判において永遠の命を得るために、困っている人・助けを必要としている人の隣人となる訳でもありません。

私たちは皆、

行いによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によって永遠の命を与えられる

からです。ただ、その

信仰には行動が伴います(参照:ヤコブの手紙2章26節)。

イエス様を信じることによって私たちは、

罪が赦されるだけでなく、罪の支配からも解放され、神の支配の下に入る

からです。罪の奴隷として自分の欲望の赴くままに生きる(自己中心)のではなく、神の奴隷として神様の望む生き方を生きようとする(神中心)とき、

私たちの思い・考え、行動は聖霊の力によってキリストに似たものへと変えられていきます(ローマの信徒への手紙6章20-22節;コリントの信徒への手紙二3章18節)。
私たちが神と人を愛する(ことができる)のは、神様の愛と恵みによって、もう既に永遠の命を得ているから、また、罪の奴隷から解放され神様の奴隷となっているから

です。

と言われても、です。

自分はまだまだ神様と人を愛せてはいないな…

と思われる方は多いのではないでしょうか。事実、

私たちは皆、イエス様を信じた後も、聖霊が内に住んでくださっていても、イエス様が共に歩んでいてくださっていたとしても、罪を犯してしまいます。

でも、

たとえどれほど弱く不完全で失敗や過ちを犯してしまう存在であったとしても、

神様を落胆させるようなことばかりしているとしても、

神様があなたをお見捨てになることはありません。
あなたが悔い改めて、神様のもとに立ち返るならば、真実で正しい神様はいつでもあなたの罪を赦してくださいます(ヨハネの手紙一1章8-9節)。

とはいえ、もちろん、この神様の愛と恵みを逆手にとって、

「どうせ赦してもらえるから」と罪を犯し続けることを神様は望んでおられません(ヨハネの手紙一2章1節;ローマの信徒への手紙6章1-2節)。

先にもみたように、信仰には行いが伴うものだからです。でも、その

行いの原動力は神様に対する恐怖でも義務感でもなく、神様から受けた愛と恵み

です(ヨハネの手紙一4章10-11節)。今一度、

神様があなたをどれほど愛してくださっているかに思いを馳せてみてください。

そして、

神様・イエス様があなたを愛してくださっているようにあなたの周りで困っている人・助けを必要としている人を愛することができるよう、聖霊の助けを祈り求めてみてください。

参考文献および注釈

  • France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
  • Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids, Mich.; Cambridge: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009.
  • Reeves, Rodney. Matthew. The Story of God Bible Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Academic, 2017.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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