礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年11月13日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神への畏れ」
- 聖書個所:出エジプト記20章18-21節1
導入
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では2022年の1月から出エジプト記を通して説教をしてきましたが、今日で出エジプト記からの説教は終わりとなります。
皆さんそれぞれに感じ方や捉え方は異なると思いますが、これまでの出エジプト記の物語を通して、神様の愛と恵みと憐れみ、そして絶対的な主権を感じることができたのではないかと思います。
実際、この神様の愛と恵みと憐れみ、そして絶対的な主権は聖書内の「十戒」や「律法」の中にも見ることができます。
というのも、聖書の「戒め」「律法」「掟」というものは私たち人間を縛るためのものではなく、私たちが
だと言えるからです(参照:申命記5章33節)。
その
しかも、私たちが求めるより先に一方的な恵みによって。
ここに神様の人間に対する深い愛と憐れみを感じることができます。
今日の聖書個所を通しても神様の愛と恵みと憐れみ、そして主権を感じることが出来ますので、その内容を共に詳しく見ていきましょう。
神への畏れを抱く人々
今日の聖書個所は、
がどのようなものだったかを教えてくれます。
出エジプト記19章をみると、この十戒が与えられたとき、
と記されています。そのとき、
これは今日の聖書個所となる出エジプト記20章18の描写と合致します。
聖書の中では神様が人々のところに現れるとき、しばしばこのような自然現象を伴います(例:出エジプト記3章2節; 13章21節;レビ記9章24節)。
そこには
をはっきりと見てとれます。
さて、このような自然現象を伴って神様がシナイ山に降ってこられたとき、
をします。一方、
ようです(出エジプト記19章9, 17, 19, 24節)。
山は煙で覆われ、何も見えない濃い雲の中に雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が響き渡っている。
そんな中で雷鳴のような神様の声を聞いたとき、人々は神様が自分たちに語らないようにしてほしいと震えながらモーセに訴えかけます(20章19節)。
神への畏れの効果
するとモーセは、神様がシナイ山を煙で覆い、雷鳴や稲妻、また角笛の音と共に雷鳴のような声で人々に語られたのは、
だったと語ります(出エジプト記20章20節)。ここに、
と願う神様の愛と恵みと憐れみを感じることが出来ます。
なお、この後でモーセが神様の更なる言葉と律法を人々に告げ知らせたとき、彼らは一様に神様の言葉を全て行うと答えます(出エジプト記24章3節)。
それから彼らは神様と契約を交わし、契約の書に記された神様の言葉を全て守り行うことを宣言します(24章5-8節)。
これは明らかにその直前の「神体験」がもたらした「畏れ」の効果だと言えます。
神への畏れの限界
ここまでの話をみると「畏れ」の効果は絶大だと言えるのですが、実は
実際、人々は神様と契約を結び、神様の言葉に聞き従うと高らかに宣言して間もなく(40日足らず)、
ここに
また
が表れています。事実、その
だからこそ、
と聖書は語ります(参照:ローマの信徒への手紙6章6-8節;参考:ローマの信徒への手紙6章4-5節)。
結論
「神体験」や「奇跡体験」というものは確かに神様・イエス様に対する恐怖や畏敬の念を引き起こし、神様に従おうとする気持ちをもたらします。
しかしながら、多くの場合、
出エジプト記のイスラエル民族だけでなく、イエス様の時代の人々も同じでした。
イエス様は数多くの奇跡的な業を行い、その噂を聞いた人々が大勢、イエス様につき従いました(参考:ヨハネによる福音書6章26節)。
けれども、イエス様が十字架にかかる時には弟子たちも含めて皆、イエス様を見捨ててしまいます(マルコによる福音書14章50節)。
「神体験」や「奇跡体験」だけに根差した「信仰」は人生が上手くいっている順境時には特に問題はありませんが、
ものだと言えます(参考:ヨハネによる福音書2章23-25節;比較:マルコによる福音書4章16-17節)。
その典型的な例がイエス様の弟子のペトロです。
最後の晩餐の席でイエス様は彼に「あなたは今夜、私のことを三度、知らないと言うだろう」と言われます(マルコによる福音書14章30節)。
するとペトロは、たとえイエス様と一緒に死ぬことになってもイエス様を知らないとは言いませんと断言します(14章31節)。
しかし、その直後にイエス様が捕らえられ大祭司のところで裁判を受けているとき、イエス様の預言した通り、ペトロは三度、イエス様を知らないと言ってしまいます(14章43-72節)。
何の問題もなく、自分の身に危険が迫っていないとき、ペトロは自らのイエス様に対する「信仰」を高らかに宣言しました。
しかしながら、
けれども、
この後、
その要因の一つは間違いなく、
ことだと思います。
もし私が誰かが自分を裏切ると事前に知ることができたとすれば、自分を裏切ろうとしている人とそれまでと変わらない付き合いを続けるのは非常に難しいと思います。
でもイエス様は、ペトロが自分のことを三度、知らないと言うであろうことを知っていたにも関わらず、
ペトロはこのイエス様の無条件の愛に自分が三度、イエス様のことを知らないと言ってしまったときに気づかされたに違いありません。だから彼はそのとき泣き崩れたのだと思います(マルコによる福音書14章72節)。
現代社会は「みんな違って、みんないい」という言葉もあるように、
という考え方が支配的になってきています。
「幸せ」の意味も「みんな違って、みんないい」
幸せに至る道も「みんな違って、みんないい」
という訳です。言うなればそれは、
ということを意味しています。でもそれによって今度は
と悩む人が増えるのもまた事実です。そんな中で
と教えてくれています。聖書の教える絶対的な価値観・真理というのは、
ということ、また
ということです。私たちに求められていることは、その
こと。そこに
があります。
ただし、聖書・牧師がそう言っているから、神様の喜ばれる人生を歩もうとする訳ではありません。
クリスチャンとしての義務感からでも、周りの雰囲気に流されてでもありません。
私たちが神様の喜ばれる人生を歩もうとするのは、
に根差している必要があります。そうでなければ、
です。その
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.