子育てから学ぶ神との関係:「しつけ・懲らしめ」について

子育てに関わる中で神様との関係について考えさせられることが結構あります。今回は神様の「懲らしめ」について。ちなみに、前回は下記の記事で神様の「愛」「寛容さ」について書きました。

子育てから学ぶ神との関係:「忍耐・寛容」について
子供の育児に関わる中で神様と自分との関係を考えさせられることがしばしばあります。今回は、神様が私たちをどれほど愛してくださっているか、特に「愛は寛容である」という聖書の言葉を通して、聖書の語る「愛」とは何かを具体的に考えます。

上記の記事でも少し触れましたが、

「愛・寛容さ」というのは「何でも許す・受け入れる、甘やかす」という訳ではないんだな

と改めて感じた次第です。

とは言いつつも、私の息子はまだ一歳ちょっとなので、今のところ基本的にはやらせるがままの状態です。が、さすがにそろそろ良いことと悪いことは教えるべきかと思い始めてきました。

それで、最近ちょっと厳しく注意しているのは、

食事のときに食べ物をテーブルの下に投げ捨てないようにすること

です。と書くと

えっ、一歳でもう一人で食事してるの?

と驚かれる方がいらっしゃるかもしれませんが、まだまだ自分一人で何でも食べられる状態ではありません。しかし、できるだけ自由にさせてあげたいという思いから、食べ始めてしばらくは子供の好きにさせ、途中から親が食べさせるかたちにしています(妻のアイデアです)。

で、子供の方はというと、最初はスプーンやフォークを使いながら頑張っていますが、次第に手づかみになってきて、そのうちに器から器へ食べ物を移したり、スープやお茶をまき散らかしたり、とテーブルの周りにカオスを広げてくれる訳です。

まあ、それでも子供の成長のため

と思い(できるだけ)自由にやらせてはいるのです。

が、しかし、

最近は食べるのに飽きてくると、器やスプーン・フォークはもちろん、食べ物までテーブルの下に投げつけるようになってきました。

最初のころは「まあまだ良く分かっていないから仕方ないか」と、軽く注意はしても特にきつくは叱りませんでした。

けれども、最近は何度言っても止めないので、ちょっと厳しく注意して、食事はそこで中断。(ビニールシートを敷いた)床を奇麗にする間、じっと座らせるようにしています。

と書いてはみましたが、この私のやり方が良いか悪いかをこの記事で議論・弁護したい訳ではありません(ちなみに妻は、子供がちょっと気の毒に思っているようです)。

ただ、

いずれは、良いこと・悪いことをきちんと教える・しつける必要があるな…

と思わされているのは確かです。と同時に、

子供がやりたいことを何でもやらせるのが、子供のためになるとは限らない

とも考えさせられています。

聖書には以下の言葉があります。

わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。【箴言3章11-12節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉1095頁

「主(しゅ)」というのは「神様」のことです。従って、

神様はあなたを懲らしめたり、叱ることがあるけど、それはあなたを愛しているが故なんだよ。

と言っていることになります。

神様は愛なるお方で、忍耐強く、寛容で憐み深いお方。でも、その愛の故に人を懲らしめたり、叱ることがある

というのです。

人生においては、「なぜこんなにつらい目に遭うんだろう」とか、「なぜ自分だけがこんな苦しい思いを経験しないといけないんだ」と思うことがあります。

そんなとき、「神様は自分のことを嫌いになったのかもしれない」とか「神様は自分を見捨てたんだ」と思いたくなります。

でもそれは、神様が自分のことを嫌いになったり見捨てた訳ではなく、むしろ私のことを愛しているからこそ、辛いことや苦しいことを経験させ、そこから何かを学び取ってもらいたいと思っていらっしゃるのかもしれないな…

子供のしつけの難しさを思いつつ、ふとそんなことも思わされました。

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