礼拝説教の要旨です。
- 日時:2018年7月29日(日)
- 場所:埼玉県川口市内での日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「神は聞かれる」
- 聖書個所:創世記21章9-21節
9サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、 10アブラハムに訴えた。
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
11このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。 12神はアブラハムに言われた。
「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。 13しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
14アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。 15革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、 16「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。 17神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 18立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
19神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。 20神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。21彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)29-30頁1
導入
今日の箇所の主要な登場人物は5人。アブラハムにサラ、その二人の子イサク、そしてサラの女奴隷でエジプト人のハガル、ハガルとアブラハムの間の子イシュマエルです。
乳離れしたばかりの我が子イサクがイシュマエルにからかわれているのを見たサラは、イシュマエルと母親のハガルを追い出すようにとアブラハムに迫ります(9-10節)。当時は女手一つで家族を養うのは非常に難しい時代、二人を追い出すというのは、彼らを野垂れ死にさせることと同じです。父親として、アブラハムは非常に悩みます(11節)。
悩み苦しんでいたアブラハムに対して、神様は「ハガルとイシュマエルのことは大丈夫だから、サラの言う通りにしなさい」(12-13節)と言われます。
その言葉通り、アブラハムはハガルとイシュマエルを立ち去らせます。二人は行く当てもなくさ迷い歩き、とうとう飲み水もなくなり泣くしかないハガル。そんなハガルに天の御使いが語りかけます。
神は聞かれる
実は今日の箇所で「イシュマエル」という名前は一度も出てきていません。しかし、原語のヘブル語をみると、17節の天使の言葉の中に「イシュマエル」という言葉が出てきています。それは「神は…聞かれた」という箇所。「イシュマエル」という名前には「神は聞く」という意味があります (参照:16:11)。イシュマエルの人生を通して、「神は聞かれる(イシュマエル)」ことを伝えようとしているかのようです。
では、この箇所で神は何を聞かれたのでしょうか?それはイシュマエルの「泣き声」、特に死を待つしかない状況にある悲痛な叫びです。しかし、この「泣き声」の直接的な原因はイシュマエルがイサクをからかったから。ある意味、イシュマエルの自業自得と言えるかもしれません。しかし、神様はそんなイシュマエルの泣き声を聞かれたのです。
ここに私たちの「自業自得」を放っておくことができない神様の愛と憐れみが表れています。
神は「計画外」をも益とする
今日の短い話の中にも人間の弱い部分がたくさん出てきています。そして、弱い人間であるが故に、神様のご計画とズレたことをしてしまうこともたくさんあります。
アブラハムの場合でいえば、神様の計画・約束を人間の知恵と力で成し遂げようとした結果、ハガルとの間にイシュマエルが生まれました。
私はそうは思いません。
確かに、イシュマエルの存在は神様の「計画」の「外」にありました。しかし、もしそれを「計画外」と呼ぶならば、人間の成すことはほぼ全て神様の「計画外」のことばかり。それこそが人間の罪深さ。だからこそ、イエス様が十字架に架かられたのです。
神様の偉大なところは、人間が次から次へとやらかしていく「計画外」のことをも通して、御自分の計画を成し遂げていかれるところ。罪深い人間を用いながら、御自分の計画を成し遂げられるのが神様です。神様にあっては、まさに「万事が益となるように共に働く」(ローマの信徒への手紙8章28節;比較:創世記50章20節)のです。
結論
神様がその存在を望んでいない「計画外」な人は一人もいません。神様は地上の全ての人に対して「いてくれてありがとう」とおっしゃっています。
事実、今日の箇所において、神様は御自分の「計画」の「外」の存在であるイシュマエルを見捨てるどころか、彼の泣き声を聞かれ、生きるために必要な水をお与えになり、彼と共におられたと書いてあります(19-20節)。
そこに表れているのは、全人類に向けられた神様の愛と憐れみ、そして約束は必ず果たされる神様の誠実さです(参照:創世記16章10節; 17章20節; 21章13節)。
たとえ自分は誰にも必要とされていないと思ったとしても、神様はあなたを必要としてくださっています。たとえ自分のことを誰も分かってくれないと思ったとしても、神様はあなたの状況や思いを全てご存知です。たとえ周りの人たちに見放され自分は独りぼっちだと感じることがあったとしても、あなたは独りではありません。神様はいつもあなたと共にいてくださいます。
と言われたところで、時には神様が非常に遠くに感じられることがあります。自分の人生が何も問題なく順調なときには、「そうだ、確かに神様はいつも共にいてくださる。万事を益となるようにしてくださる」とうなずけても、実際に悲しい思いや辛い出来事に遭遇すると「神様は私を見放された」「神様は、自分が今経験しているこのことも益にしてくださるとは思えない」という思いがしてしまいます。
私自身も何度となくそのような思いを感じることがありました。それでも、やはり後になってみると「ああ、あのことも確かに神様は益と変えてくださったんだなぁ」と思えることばかりです。ただし、ほとんどの場合、「益と変えてくれた」の「益」という部分が、自分が思っていた意味合いとは随分異なっていたと気づかされています。
もし神様に祈っても祈っても一向に状況が良くならないと感じるならば、視点を変えてみると良いかもしれません。状況が良くないと思えるのは、あくまでも自分の考えや思いを通して物事を見ているからかもしれないからです。少し違った視点で物事を見直すと、神様がもう既に与えてくださっている恵みや祝福に気付くことができるかもしれません。
今一度、祈りの中で神様に自分の現状を洗いざらい訴えてみてください。そして祈りの中で、自分の思いではなく神様の思いを通して物事を見ることができるように求めてみてください。
参考文献および注釈
- Waltke, Bruce K., and Cathi J. Fredricks. Genesis: A Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
- Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.