「愛と恵みで変えられて」:2019年3月31日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。
礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。

  • 日時:2019年3月31日(日)
  • 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「愛と恵みで変えられて」
  • 聖書個所:マタイによる福音書28章16-20節

     16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)60頁1

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目次

導入

今日はイエス様の復活の前後で大きく変えられた弟子たちの生き方・態度に注目したいと思います。人間はなかなか変わることができない生き物だと思いますが、なぜ彼らはそこまで劇的に変えられたのか、彼らの生き方・態度を変えたものは何だったかを探りたいと思います。

変えられた弟子たち

私たち人間は自分を変えることがなかなかできない存在です。「敵を愛しなさい」「赦しなさい」と言われたところで、そのように生きることは難しいものです。

イエス様の弟子たちも例外ではありませんでした。イエス様が十字架で死んで復活される前、イエス様の弟子たちはある意味、自分たちのことしか考えていませんでした (参照:ルカによる福音書9章46-48節;マタイによる福音書26章56節;ヨハネによる福音書20章19節)。

ところが、復活したイエス様に出会い聖霊が降った後、そんな彼らの態度は一変します。それまでは自分の利得や身の安全ばかりを考えていた弟子たちが突然、自分のことよりも神様の真理を優先し死ぬことさえも恐れなくなるのです(例:使徒言行録12章1-2節)。

復活したイエスとの出会い

それにしても、一体何が彼らをそこまで変えたのでしょうか。

もちろん、死んだ人がよみがえるという奇跡を目の当たりにして、イエス様こそ正真正銘のメシア・キリストであることを悟り、救い主である神様・イエス様のために命をささげようと思ったのかもしれません。

しかし、今日の聖書個所を読むと他にも理由があったように思えます。

この箇所には復活したイエス様と弟子たちがガリラヤで出会う一場面が描かれています。ここの17節には、非常に興味深いことに、復活したイエス様に会ってひれ伏した者と疑う者がいたことが記されています。

復活したイエス様を目の当たりにしてもまだ信じきれない弟子たちがいた

ことが分かります。

しかし、ここで注目したいのは、この次のイエス様の行動です。

18節に「イエスは、近寄ってきて言われた」とあります。イエス様は自分を信じた者だけでなく、

未だに疑いを持っている者たちの方にも自ら近寄って来られた

のです。

私たちが誰か身分の高い人や偉い人(天皇や首相など)に会おうとするとき、会おうとする側が何らかの努力や行いをしないと会うことができないのが普通です。

対して、聖書の神様・イエス様は私たちが何か努力や行いをしないと会えないような存在ではありません。むしろ、

神様の方から私たちのところに近寄ってくださり、私たちと関わりをもちたいと願ってくださっている

のです。

愛と恵みの体験

まだ疑いをもっている者も含め、そこにいた弟子たち全員にイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20節)とおっしゃいます。

これはとても意義深い言葉だと思います。

イエス様が捕らえられた時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまっていました。イエス様が死んだ後は、今度は自分たちの番かもしれないと彼らは恐れ、家の戸に鍵を閉めて閉じこもっていました。復活したイエス様を目の当たりにしてもなお疑っていた弟子さえいたのです。ある意味、

とても薄情で臆病で不信仰な弟子たち。

でも、そんな弟子たちなのにもかかわらず、イエス様は彼らを受け入れ、イエス様の方から彼らに近寄って

「私はいつもお前と一緒にいるよ。お前を必要としているよ」

と言ってくださったのです。弟子たちにとって、神様・イエス様の愛と恵みを体験する出来事となったはずです。

この愛と恵みの体験は、弟子たちがその後、様々な苦難や困難を経験するときにもずっと彼らを支え続けてくれたに違いありません。

どんなことがあっても、イエス様だけは自分のことを受け入れ愛してくださっているんだと思えたとき、どんな困難・苦難にも立ち向かう勇気や力が与えられたことでしょう。

それでも、時には神様・イエス様のことが非常に遠くに感じることがあったかもしれません。自分は神様に見捨てられたのかもしれないと思うことがあったかもしれません。しかし、しばらくしてから自分たちの生涯を振り返ったとき、確かにイエス様はどんなときも自分たちと共にいて助け導いてくださったと感じ、ますますイエス様に対する信仰・信頼が深められていったのだと思います。

このようにして、彼らは少しずつ変えられていったのではないかと思います。

結論

復活したイエス様に出会い、それまでは自分の利得や身の安全ばかりを考えていた弟子たちが、自分のことよりも神様の真理を優先し死ぬことさえも恐れなくなりました。

彼らがそこまで劇的に変えられた理由の一つは、

イエス様のことを完全に信じきれなかったにもかかわらず、自分たちを変わらずに受け入れてくれた神様・イエス様の愛と恵みを体験した

から。そして、

この神様の愛と恵みはイエス様の弟子たちだけでなく、時と場所を超えて、あらゆる人々の生き方・態度を変えるもの

でもあります。

私自身は科学大好きの無神論者でした。しかし、今ではこうしてキリスト教の牧師として説教しています。これは非常に大きな変化です。

私の人生における大きな変化もまた神様の愛と恵みを体験したから

でした。

詳細は省きますが、私はクリスチャンになる前、ある出来事を通して人間不信に陥り、誰も・何も信じられないと思うようになりました。そして、生きる意欲もすっかり失っていました。

そんな状態の私を支えてくれたのが周りにいたクリスチャンの友人たち。彼らは私がクリスチャンであろうがなかろうが、私を私として受け入れ愛してくれたのです。

誰も・何も信じられなくなっていた私でしたが、彼らの愛情だけは嘘偽りのないものだと感じられたのです。そして、彼らが信じているキリスト教の神が本物かどうかを試してみようと思うに至りました。そこで「もしあなたが存在しているのなら、その姿を私に現してください」と神様に祈り始めたのです。

ある意味、自分本位に神様を試みる上からの態度の祈り。でも、その時の私はその祈りにすがるより他はありませんでした。毎日、時には泣きながら祈り続けました。

そして6か月ほどが経ったとき、神様は私の祈りに答えてくださいました。絶望のどん底にあって、生きる意欲も失っていた私のもとに神様の方から近寄り、引き揚げてくださったのです。その瞬間、私の口から出ていた言葉は

「神様、ごめんなさい。そして、有難う。」

その出来事以降、私は自分のためではなく神様のため、また神様の愛する人のために生きようと決心をし、今に至っています。

しかし、

神様の愛と恵みを体験したからと言って、一夜にして全くの別人に生まれ変わる訳ではありません。

私自身、救われてから16年余りが経ち、牧師となった今でも神様が望まれるように生きることはできていません。むしろ、「こんな私が牧師でいいんですか。無理です、神様!」と思わされることが多いです。

でも、そんな自分の内なる思いを全て神様にさらけだして祈るとき、こんな自分でも神様は愛してくださり、必要としてくださっているんだと感じ、何とも言えない安心感・平安が心を満たすことがあります(比較:フィリピ4:6-7)。

これは、イエス様が絶えず共にいてくれているからこそ感じる安心感・平安だと思います(比較:ヨハネ14:27; 16:33)。

そして心の底の方から「イエス様がそこまでおっしゃるなら、もう一度、頑張ってみます」という気持ちが湧いてくるのです。もう一度、前に進もうとする勇気と力が与えられるのです。

とは言うものの、たとえ心に安心感や平安が感じられないとしても、イエス様が共にいてくれていない訳ではありません。

私たちが心に平安を感じようが感じまいが、イエス様が共にいることを疑ってしまおうが、いついかなるときもイエス様は私たちと共にいてくださっています。

ただ、問題の只中にいるときには、そう感じるのは難しいかもしれません。でも、後になって振り返ると、確かにイエス様は私たちと共にいてくださったことに気付かされ、神様・イエス様への信頼感・信仰が深められていく。そのようにして日々、少しずつ成長していくのだと思います。

今しばらくの間、

神様の愛と恵みを体験した時のことを思い起こしてください。

神様は不完全で弱いあなたを愛し、必要としてくださっています。たとえあなたが絶望のどん底にいて「もうどうしようもない」と人生を諦めそうになっているとしても、イエス様があなたを諦めることはありません。

イエス様はあなたを諦めるどころか、あなたの更に下に入って、その深みからあなたを引き揚げてくださるお方です。

参考文献および注釈

  • Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids, Mich.; Cambridge: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009.
  • France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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