礼拝説教の要旨です。
- 日時:2020年3月29日(日)
- 説教タイトル・テーマ:「人の罪と神の愛」
- 聖書個所:使徒言行録25章1-27節1
導入
先週に引き続き今週の聖書個所でも
が出てきます。このため、誰もが
と同情したくなると思います。しかし、よくよく考えてみると、
ようにも思います。人間の本質は、残念ながら、今も昔もそれほど変わりません。でも、だからこそ、
必要があります。
今日の聖書個所を通して今一度、私たち人間の罪深さを思い、イエス様の十字架と復活の意味を考えたいと思います。
良くない思いを持つ
総督フェリクスの後任としてやってきたフェストゥスは着任早々、ユダヤ人指導者たちに会うためにエルサレムに上ります(使徒言行録25章1節)。
するとユダヤ人指導者たちはパウロをカイサリアからエルサレムに送り返すようにフェストゥスに頼みます。それはパウロを待ち伏せして殺すためでした(2-3節)。
裁判ではパウロを死刑に処すことができないと分かっていたユダヤ人たちが、なりふり構わずパウロを殺そうとしていることが分かります。
私たちの生活においても、何かにつけて意見があわずに衝突してしまう人、自分の望みをかなえるためにどうしても目障りな存在な人、やたらと自分にちょっかいを出したり文句を言ってくる人などがいると思います。
そんな人に対して、少なからず良くない思いをもってしまうかもしれません。
と思いたくなります。が、しかし、
です(参照:マタイによる福音書5章21-22節)。
なすべき善を行わない
フェストゥスは、なりふり構わずパウロを殺そうとしているユダヤ人たちに対してカイサリアにやってきてパウロを訴え出るようにと勧めます(使徒言行録25章4-5節)。
こうしてパウロは再びカイサリアの法廷に立たされることとなります。けれども、ユダヤ人たちはパウロの有罪を立証することができません(7節)。
パウロが死刑にあたる罪を犯していないことはフェストゥス自身も認識していたようです(参照:25節)。
にもかかわらず、フェストゥスは法廷でパウロに無罪を宣告しませんでした。それは彼が公的な正義よりも私的な利益を優先したからです(9節)。
現代の私たちの生活においても、正しいこと、した方が良いと分かっていることであっても、なかなかそれをすることができないことがあります。特に
ものです。
しかし聖書は、
だと語ります (ヤコブの手紙4章17節)。
表面的に善人ぶる
ユダヤ人指導者たちに「貸し」を作ろうとしたフェストゥスは、エルサレムに行って裁判を受けるかとパウロに尋ねます(使徒言行録25章9節)。
すると、パウロはローマ皇帝に上訴を願い出ます(11節)。
ここで一番困ったのはフェストゥスではないかと思います。というのも、フェストゥス自身が述べているように、パウロは囚人としてローマに送られるにも関わらず、彼はパウロに対する罪状を示すことができないからです(27節)。
そんなフェストゥスのもとにアグリッパ王が挨拶をするために訪ねてきます(13節)。
アグリッパ王はユダヤ人の教えにも詳しく、ローマ皇帝とのつながりも強い人物でした。ローマ皇帝に示すパウロの罪状を相談するにはこれ以上ない相手です。そこでフェストゥスはアグリッパ王に相談をもちかけます。
このとき、フェストゥスは自分の悪いところ(ユダヤ人たちの歓心を買おうとしたこと)は上手く誤魔化しながら、あたかも自分はユダヤ人たちとパウロとの間の宗教戦争の犠牲者であるかのように言葉巧みにアグリッパ王の協力を得ようとしています(参照:18-21節;比較:25-27節)。
私たちもまたフェストゥスと同じく、
ことがないでしょうか。
本当は自分にも非があるにも関わらず、自分の悪い部分は語らず、あたかも自分だけが犠牲者であるかのように話すことで相手の理解・協力を得ようとすることはないでしょうか。
イエス様は、そのように
とおっしゃっています(マタイによる福音書23章25-26節)。
結論
しかし、実際に自分がその人と同じ立場に立ったとすれば、自分もまた同じような間違いや誤りを犯してしまうであろうことは否めません。私たちは皆、自分が思っているほど立派な人物ではないからです。
イエス様はそんな私たちに
と勧めます。そうすれば他の人の目の中の「おが屑」を取り除くことができるようになるからと(参照:マタイによる福音書7章1-5節)。
と言われても、です。
なかなか自分の目の中の梁を認めることは難しいもの。プライドや意地といったものが邪魔をするからです。
と思ってしまいがちです。しかし、
です。私たちは
必要があります。善悪の基準は神様だからです。
今日の個所を通してみてきたように、
です。
実際に人を殺すかどうかに関わらず、心の中で良くない考えを持っただけで裁かれます。
成すべき善を知りながら行わなければ罪に問われます。
しかも、表面的な善い行いではなく、心が伴っていなければなりません。
そんな神様を前にして、私たちのプライドや意地は何の役にも立ちません。ただただ神様の前にひれ伏し、その憐みにすがる他ありません。
なのです。
そんな私たちにもたらされた良い知らせ(福音)がイエス様の十字架と復活です。
神様の前に罪があるとされた人たちを待っているのは「死」です(参考:ローマの信徒への手紙6章23節)。
従って、神様の善悪の基準に照らすと、誰もが「死」を免れることはできないということになります。ここでいう「死」とは肉体的・物理的な死だけではなく、神様との関係の断絶という意味の死も含みます。
この絶望的な状況を打開するため、
のです。ここに神様の愛が表れています。
その真理を受け入れ、
と聖書は約束します。
たとえあなたが神様の望んでおられる完璧な人生を送ることが出来ていないとしても、それは神様にとって想定内のこと。そんなことは全て織り込み済みで、神様はあなたを愛してくださっています。
しかしもちろん、神様はあなたがあなたの悪いところをそのままにしておくことを望んでいらっしゃる訳ではありません。
そのために、
また、
それでもなお、過ちや間違いを犯すことがあるでしょう。いつまでたっても進歩のない自分に対して腹立たしい思いを感じたり、自暴自棄に陥るかもしれません。
でも、決して忘れないでください。
神様はあなたがイエス様と同じ完璧な生活を送れるとは思っていません。
完璧な生活を送れないと永遠の命が手に入らない訳でもありません。
神様があなたに求めていること、それは
そして、
です。
参考文献および注釈
- Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
- Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.