礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。
- 日時:2020年12月13日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「最優先事項」
- 聖書個所:マタイによる福音書2章1-12節1
導入
今日の聖書個所はクリスマスに何度となく聞いた・読んだことがある個所ではないかと思います。
今日はこの有名な場面に登場する人たちの「ある反応」に注目したいと思っています。何に対する反応かというと、
です。その反応を見比べることで、メシアとしてこの世に生まれてくださったイエス様の誕生をお祝いする
を学びたいと思います。
自分よりも「ユダヤ人の王」
まず最初に注目するのは東方の博士たち。
マタイによる福音書2章1節「博士」と訳されている元々のギリシャ語は教養と知識を兼ね備えた知識人、もしくは占星術や夢の解釈、魔術などに長けていた人たちを指す言葉です(比較:使徒言行録13章6節)。
このような「博士たち」はローマ帝国にも存在していましたが、とりわけバビロニアとのつながりが深かったようです(比較:ダニエル書1章20節)。
そのため、マタイによる福音書2章1節の「東方」とはエルサレム(パレスチナ地方)から見て東方に位置するバビロニア地方だと考える学者が多いようです。
いずれにしても、
であろうことが推測できます。
「ユダヤ人の王」もしくは「メシア」が生まれたというメッセージを天に見つけた東方の博士たちは、
のです。
「メシア」よりも自分
この東方の博士たちと非常に対照的なのがエルサレムに住んでいた人々です。
特にヘロデ王は東方の博士の話を聞いて「不安を抱いた」とあります(マタイによる福音書2章3節)。でも、
その理由を理解するには、当時の人々の「メシア」に対する理解とヘロデの立場を考える必要があります。
当時のユダヤ教徒にとって、「メシア」というのは政治的な指導者を意味していました。特に彼らはローマ帝国の圧政から彼らを開放してユダヤ人の王国を打ち立ててくれる新しい王としてのメシアを待ち望んでいました。
対して、ヘロデはローマ帝国によって任命された「ユダヤ地方の王」でした。言ってみれば、ローマ帝国側の人間、ユダヤ人たちにとっての「メシア」であるはずはありません。
ヘロデ自身もそのことは認識していて、
であろうことを理解していたはずです。
だからこそ彼は「メシア」が生まれたと聞いて「不安を抱いた」訳です。
ここには、
の様子が見て取れます。
事実、ヘロデは権威・権力に対して人並み以上の執着をもっていたようです。
特に晩年、彼の権威・権力に対する執着の度合いは病的なほどだったようで、ヘロデは謀反を企てた容疑で実の息子さえ処刑しています。
そのようなヘロデの性格を知っていたであろうエルサレムの人々は、「メシア」が生まれたことによってヘロデが何をしでかすか分からないと不安に思ったのかもしれません(2節;参考: 16節)。言うなれば、
と言えるかもしれません。
神や民族よりも自分
最後に、「メシア」が生まれたというメッセージに対して祭司長たちや律法学者たちといったユダヤ教指導者たちがどのような反応を示したのかをみてみたいと思います。
詳しいことは書かれていませんが、聖書の記述を見る限り、
ように思われます。その主な理由は恐らく、彼らもまたヘロデと同じくローマ帝国の庇護の下で権力・権威を保証されている立場だったからでしょう。
実際、イエス様が成人して公けの宣教活動を始め、多くの人が付き従うようになると、ユダヤ教指導者たちは自分たちの立場を守るためにイエス様を殺そうとします(参考:ヨハネによる福音書11章45-53節)。
の姿が見て取れます。
また、ユダヤ教指導者たちはイエス様に対する妬みから、イエス様を殺そうともしました (マタイによる福音書27章18節)。
彼らは、人々が自分たちの教えにではなくイエス様の教えに聞き従っているのをみて我慢がならなかったのです(参考:ルカによる福音書19章47-48節)。ここには、
が表れていると言えます。
結論
今日の聖書個所に出てくる人たちは「ユダヤ人の王」もしくは「メシア」が生まれたというメッセージに対して非常に対照的な反応を示しました。
東方の博士たちは
自分のことよりも神様・イエス様を優先した訳です。
対して、ヘロデ王やエルサレムの人々、ユダヤ教指導者たちは
していました。自分のことが最優先だった訳です。
そんな彼らは、メシアが生まれたと聞いても拝みに行くどころか、その事実が本当かどうかを自分たちの目で確かめようとさえしませんでした。
神様・イエス様よりも自分の利益やプライド、他人の目などを優先してしまうことはないでしょうか。
神様・イエス様よりも優先するものがあるとすれば、それはあなたの心の中の「偶像」、あなたが知らず知らずのうちに拝んでいる・仕えている「神々」と言うことができます。
聖書の神様はそのような「偶像礼拝」を固く禁じています(参照:出エジプト記20章3-5節)。
ただし、ここで注意すべきことが一つあります。
神様のことを最優先にするということは、礼拝や祈祷会、スモールグループや聖書勉強会といった教会関係の集まりを最優先にするということでは必ずしもありません。
大事なことは、
です。
と、口で言うのは簡単ですが、実際にそのように生活するのは非常に難しいことです。
からです。でも、
です。しかも、ただご存知なだけでなく、
その
です。
イエス様ほど神様のことを最優先にして生きた方はこの世にいませんでした。
にもかかわらず、イエス様は無実の罪で十字架に架けられてしまった。その理由は、端的に言えば、
からです。言うなれば、
訳です。それは見方を変えると、
とも言えます。
のです。だからこそ、
と聖書は約束するのです。
その時々に応じて神様が望んでいらっしゃることがなかなかできない私たち、
神様以外の何・誰かを優先してしまいがちな私たち、
そんな弱く不完全な私たちを見捨てるどころか、その身に代えて救い出そうとしてくださった神様。
その神様の愛と恵みが目に見える形で表されているのがイエス様の十字架です。
そして、その十字架に架かるためにお生まれになってくださったイエス様の誕生をお祝いするのがクリスマス…この
参考文献および注釈
- France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
- Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids, Mich.; Cambridge: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009.
- Morris, Leon. The Gospel According to Matthew. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich. : Leicester, England: Eerdmans, 1992.