礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年9月11日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「偶像礼拝」
- 聖書個所:出エジプト記20章4-6節1
導入
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では先々週から出エジプト記20章に記されている「十戒」についてみています。
今日はその十戒の二つ目、「偶像礼拝の禁止」についての説教となります。
実はこの「十戒」、元々のヘブライ語をみると「十個の戒め」ではなく、「十個の言葉」と訳されるべきものです(参照:出エジプト記20章1節)。
それは、十戒の中身が「戒め」「掟」「律法」といったものよりも、もっと大きな範囲の「生き方の方針・指針」といったものだからです。
具体的には、
です(参照:出エジプト記19章4-6節)。
なお、「聖なる国民」とは罪や汚れが全くない人々という意味ではなく、この世の支配から解放されて神様に属するようになった人々という意味です。
今日は
を考えていきます。
偶像礼拝を禁じる神
出エジプト記20章4-5節には、
と記されています。なお、ここで問題となっている偶像とは異教の神々の偶像はもちろん、イスラエルの神様の偶像も含んでいます(参考:出エジプト記32章4-10節)。
です。
日本の仏閣を訪れるとまず間違いなく仏像が置いてあります。
神道にはいわゆる「偶像」はありませんが、「御神体」や「御神木」といった神霊が宿るとされるモノが礼拝の対象として祀られています。
当時のイスラエル民族が生きていた古代近東アジアにおいても、偶像のない宗教はないと言っても過言ではありませんでした。
それ故にイスラエル民族は異教徒の地を征服した後、そこの土着の宗教に染まり、偶像礼拝の罪を犯すようになっていきます。
人間との関係を重んじる神
それにしても、
その理由は幾つか考えられますが、出エジプト記20章5-6節には
だとあります。「妬む」という言葉には否定的な意味合いがありますが、本来のヘブライ語の言葉にはそのような否定的な意味合いはないようです。
このため、私たちが偶像を伏し拝むとき、それは神様にしてみれば結婚相手が他の誰かと不倫関係にあるのと同じようなものということになりますから、妬まない方がおかしいと言えます。
いずれにせよ、
なのです。
罪は裁くが慈しみにも富む神
なお、この出エジプト記20章5-6節を読んで
と疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれません。けれども聖書には、
と書いている箇所があります(例:申命記24章6節)。それでは
もちろん、そういう訳ではありません。
一つの考え方として、
と考えることができます。
実際、イスラエル民族の歴史を見ると、彼らは絶えずイスラエルの神以外の異教の神々の偶像を造り、それらを礼拝し続けています。
従って、
ということをこの出エジプト記の言葉は教えていると理解することできます。
これとは非常に対照的なのが神様の慈しみの深さです。
ようになります。実際、
結論
また、
でもあります。しかし聖書は、
と語ります。神様と私たち人間との本来あるべき関係が壊れていたのは、
です。ここでいう「神々」というのは、他の宗教の神々だけを意味してはいません。
だと言えます。もし
であり、
と言えます。そして、
であると聖書は語ります(参考:エフェソの信徒への手紙2章1-3節;ヨハネによる福音書3章16節;ローマの信徒への手紙6章17-23節)。
が、しかし、です。
愛と憐れみと慈しみに富んだ神様は、私たちが「偶像」に支配され、滅びゆくのを見過ごすことができませんでした。
それ故に神様は、その
訳です。その
神様・イエス様の救いの御業を認め、
神様以外のものを神々(偶像)としていたそれまでの人生から方向転換をし、
イエス様を人生の主として信じ従おうとするとき、
私たちは神様の宝、また聖なる国民(神様に属する民)とされます。
神様の宝、また神様に属する民とされるために何かを成し遂げる必要はありません。
特別な才能を持っている必要もありません。
神様の宝、また神様に属する民とされるために必要なのは、
ただそれだけです。
のです(比較:ペトロの手紙一2章9-10節)。
ただし、旧約聖書のイスラエル民族と同じく、神様の恵みによって一旦、神様の宝、また神様に属する民とされた私たちは自分たちの好き勝手に生きてよいわけではありません。
ことが求められています。そのときに大事になってくるのは、
どうかです。
「自己実現」や「家族」、「恋人」、「友人」などなど、
なお、ここで私は別に皆さんが頼りにしているもの、大事にしているもの、恐れているものを全て捨てて、ただ神様だけに仕えるように勧めている訳ではありません。
というのも、それらが
からです。
事実、自己実現も家族も恋人も友人も皆、決して悪いものではありません。
大切なことは、それら
こと。その上で、
ことです。
自己実現に関して言えば、自分の思い願う自己実現ではなく神様の望まれる自己実現を目指す必要があります。
それは、聖霊の助けを受けて、自分に与えられているものは全て神様からの賜物であると認め、その賜物を神様が喜ばれるように用いようとするときに実現されていくものです。
家族や恋人、友人との人間関係に関しても、自分の思い願う関係ではなく、神様が望まれる関係を築けるようにと願い求める必要があります。
どうかが問われています。
とはいえ、全ての物事の判断基準の一番上に神様を置くことは決して簡単なことではありません。
私たちは実に簡単に自分や周りの人々の思いに流され、神様以外のものを優先してしまいがちな存在だからです。
でも、だからこそ神様は、私たちに神の言葉である聖書を与え、神様の思いや願いが何かをはっきりと知らせてくださっています。
神様の霊である聖霊が私たちのうちに住み、私たちが神様の宝、神様に属する民としてふさわしく生きることができるように助けてくださっています。
それでも、なお私たちは神様の望んでいない選択・決断をしてしまうことがあります。
しかし、たとえどんな選択・決断をしたとしても、
です。また、たとえ何が起きたとしても、
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.