「律法と救いとの関係」:2022年11月27日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

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導入

今日からアドベント(待降節)が始まります。

アドベント(待降節)というのは、

イエス様が天から降ってこの地に生まれたことをお祝いする日(クリスマス)を待ち望む期間

です。その割には、今日の聖書個所にイエス様の誕生にまつわる話が出てきていませんから、不思議に思われた方がいらっしゃると思います。

アドベントの始まりの説教個所として今日の個所を選んだのは、ここ最近のTokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)の説教で出エジプト記の「十戒」について詳しく見てきたことが関連しています。

というのも、十戒や律法の話ばかりだと、どうしても神様の正義や裁きといったものが強調されてしまいがちになります。

またそのメッセージを受け取る私たちも「-すべきでない」「-すべきだ」といった義務感ばかりが先立ち、

神様の愛と恵みによって罪赦され、生かされていることを忘れがち

になってしまいます。そのため、今日の聖書個所を通して今一度、

「十戒」また「律法」とイエス様による救いとの関係性

を明らかにしておきたいと思った訳です。そして、律法と救いとの関係を考える中で、改めて

イエス様がこの世に生まれてくださった意味・目的を覚え、クリスマスを待ち望む

ことができればと思います。

信仰による救い

今日の聖書個所となるガラテヤの信徒への手紙は使徒パウロがガラテヤという地方(現在のトルコの中央部)に住むクリスチャンたちに宛てて書いたものです。

この手紙で特に問題となっているのは

福音とは何か?

です(ガラテヤの信徒への手紙1章6-9, 11-12節)。

実際、このときガラテヤに住んでいた人たちは「律法を守ることで救われる(義と認められる)」という教えに惑わされていました(参考:1章6-7節; 2章16節; 3章1-5節; 5章2-6節; 6章12-15節)。

そんな人々に対してパウロは手紙の中で

「行いではなく信仰による救い」こそが本当の「福音」

だと説明している訳です。

特にパウロは、この

「信仰による救い(義と認められる)」という福音を、神様がアブラハムと交わした約束と関連付けます(参照:ガラテヤの信徒への手紙3章8節)。

神様はアブラハムおよび彼の子孫によって、全ての人々を祝福すると約束されましたが(創世記12章3節; 22章18節)、その約束は究極的にイエス様によって実現されるとパウロは語ります(参照:ガラテヤの信徒への手紙3章10-14, 16節)。

そして、この

神様とアブラハムとの約束が後から出てきた律法によって破棄されたり、無効にされたりすることはない

とパウロは続けます(3章17節)。

神様の救いと直接的な関係があるのはアブラハムとの約束であって、律法ではない

という訳です。

キリストに導く養育係

それでは、

なぜ神様はわざわざ人間に律法をお与えになったのでしょうか?

パウロによると、律法は救いとは直接関係のないものではあるけれど、

イエス様が来られるときまで、人々の違反(罪)を明らかにするため

に与えられたものだと言えます(参照:ガラテヤの信徒への手紙3章19節)。

実際、

法によって私たちは皆、自分たちの罪に気づかされます。

しかも、

私たちはその罪から完全に逃れることができない存在、何度も同じ過ちを犯してしまう弱い存在

であることにも気づかされていきます(参照:ローマの信徒への手紙3章20節;比較:ローマの信徒への手紙4章15節; 5章13, 20節; 7章7-8節)。

けれども、それは

イエス様が来られ、神様とアブラハムとの間の約束が実現するときまでの話

だとパウロは語ります(ガラテヤの信徒への手紙3章22-23節)。言うなれば、

律法の役割は人々に罪の自覚をもたらし、自らの弱さを悟らせ、イエス様を信じる信仰によって救われる他ないと気づかせること

だと言えます。その意味で律法は私たちを「キリストに導く養育係」(ガラテヤの信徒への手紙3章24節)となったとパウロは言っています。

救いと直接的な関係はないけれども、

救い(イエス様)へと導く「養育係」という意味で、律法は救いと間接的なつながりがある

と言えます。

義と認められた後の生活

律法の「養育係」としての役割はイエス様を信じて義と認められたときに終わります(ガラテヤの信徒への手紙3章24節)。

しかしながら、

律法は義と認められた後の私たちにとって無関係なものではありません。

事実、手紙の後半部分でパウロは律法を破棄・無視したり、軽視したりするどころか、律法を土台としながら救われた(義と認められた)後の生き方の指針を与えています(参照:ガラテヤの信徒への手紙5章13-14節)。

律法は、私たちが義と認められること自体とは無関係ですが、神様が義と認める生き方が何かを教えてくれる

ものだと言えます。その意味で

律法は、イエス様を信じるまでは「養育係」、信じてからは「学校の先生」

のような役割を持っていると言えるかもしれません。

結論

律法は救いと直接的な関係はありません。

律法をどれだけ守った・守らなかったかで救われるか(神様の前に義と認められるか)どうかが決まる訳ではないからです。

しかしながら、

律法は救いの源であるイエス様へと導くという意味で、救いと間接的な関わりをもっています。

律法は人々に罪の自覚をもたらし、自らの力では律法を守り切ることが出来ず、イエス様を信じる他に救われる道はないという思いへと導くからです。

さらに

律法は信仰によって義と認められた私たちに対して、神様が義と認める生き方、即ち、神様の喜ばれる生き方が何かを教えてくれる

ものです。その意味で、律法はもう既に信仰によって義と認められている私たちにこそ必要なものだと言えます。

世の中はクリスマスの季節を迎えています。

でも残念ながら、日本では教会以外の場所でクリスマスにイエス様を見かけることはほぼありません。

けれども、

クリスマスというのは本来、イエス様がこの世にお生まれになったことをお祝いするための日

です。

イエス様がこの世に来られたのは律法を廃止するためではなく、完成するため

だとイエス様はおっしゃいました(参照:マタイによる福音書5章17節)。事実、

律法の教える神様の義を人々に与えるため、イエス様はこの世に来られ、十字架で死んでよみがえってくださいました。

また、信仰によって神様の前に義と認められた

私たちが律法の教える生き方に生きることができるようになるため、死んで復活され天に昇られたイエス様は私たちに聖霊を注ぎ、私たちを内側から造り変えてくださっています(使徒言行録2章33節;コリントの信徒への手紙二3章18節)。

だからパウロはガラテヤの信徒への手紙5章16節で

聖霊によって歩む

ように勧めています。そうすることで、

御霊の実とよばれる「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が私たちクリスチャンの生活の中に現れてくる

と言うのです(5章22節)。

ここで

御霊の実を結ぶことが出来るように頑張らなければ、努力しなければ!

となってしまうと危険です。

私たち人間の努力だけでは到底、愛や喜び、平和、寛容などといった特性を身に着けることはできない

からです。むしろ、どれだけ努力しても全く変わらない自分をみて

自分はやっぱり駄目な奴だ
こんな自分を神様が愛してくれるはずがない

と自暴自棄に陥ってしまうことになります。もちろん、

私たち人間の側で努力する部分、意識的に変わろうとする部分はあります。

けれども、

その努力や頑張りの根底に「神様・イエス様・聖霊がどうにかしてくれるから、大丈夫」という安心感・信頼感があるでしょうか?

繰り返しますが、

聖書の中の律法や掟、戒めを守ることと聖書の語る救いとは直接的な関係はありません。

また、

律法をたくさん守れば、神様がたくさん愛してくれる訳でもありません。

反対に、律法を守らなければ、神様が愛してくれなくなる訳でもありません。

牧師の言うことや聖書に書いてあることをたくさん実践すれば、神様に認められて、自分の願い事がかなえられたり、何か特別な祝福を与えられたりする訳でもありません。

私たちが聖書の中の勧めや戒めに従うのは、自分の救いや利益のためではなく、もう既に神様の恵みによって返しきれないほどの祝福を受けているからです。

それは日本的なたとえで言えば、個人的にすごくお世話になった人がいて、その人に対する恩義に報いるため、またその人の面子をつぶさないようにするため、その人から頼まれたことを忠実に行おうとすることに似ているかもしれません。

しかも、その人はただあなたに頼みごとを任せっ放しにするのではなく、あなたがその頼みごとを遂行するために必要なものを全て与え、絶えずあなたのそばにいてあなたを励まし、力づけてくれる訳です。

さらにいえば、その人はたとえあなたがその頼みごとを完璧・完全に成し遂げることができないとしても、それまでと変わらずあなたを愛し、受け入れ、何度でもチャンスを与えてくれる懐の深いお方でもあります。

神様の恵みによって、私たちにもう既に与えられている返しきれないほどの神様の祝福。その最たるものがイエス・キリストです。その

イエス様の誕生を共にお祝いするクリスマスの日を待ち望みつつ、
神様から与えられた祝福の数々を思い起こし、
たとえ何があったとしても決して揺らぐことのない神様の御腕の中で安らぐことができますように。

そして、

イエス様と共に神様の望まれる人生を歩み続けることができますように。

参考文献および注釈

  • McKnight, Scot. Galatians. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1995.
  • Schreiner, Thomas R. Galatians. Edited by Clinton E. Arnold. The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Academic, 2010.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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