礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2023年3月12日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「あり得ない神の救い」
- 聖書個所:イザヤ書52章13-15節1
導入
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では2023年に入ってから、これまでずっと「弟子訓練」、即ち、
についての説教が続いていました。しかしながら、今日からしばらくの間は
に関するメッセージとなります。
今日は特にイザヤ書52章13-15節から、
共に考えていきたいと思います。
人々を裁く神
まずはイザヤ書の時代背景と文脈を確認しておきます。
イザヤ書は紀元前700年ごろに生きた預言者イザヤが書いた書物と言われています。
当時、ユダヤ人の王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれていました。
ところが、彼の時代に北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます(列王記下17章1-23節)。
その後も100年ほどの間、南ユダ王国は存続しますが、この南ユダ王国もバビロニア帝国の侵入を受けて滅ぼされ、人々はバビロンに連れていかれてしまいます。
いわゆる「バビロン捕囚」です。
このバビロン捕囚についてはイザヤ書39章6-7節に預言がなされています(比較:列王記下24章13-14節)。
その後のイザヤ40章以降には
ことが預言されています。
でも、
聖書は、イスラエルの王国が滅んでしまったのは神様に力がないためではなく
であると教えます(参照:列王記下17章7-8節;参考:申命記28章36-46節, 63-68節;比較:歴代誌下36章11-16節)。つまり
訳です。
人々を贖う神
これは裏を返せば、
ということになります。それ故に神様は、イザヤ書40章以降で何度となく、
とおっしゃっています(例:41章14節; 44章33節; 48章17節; 49章7, 26節)。
神様がイスラエルを贖い、罪の裁きから救い出すときに重要な役割を果たすのが52章13節-53章12節に出て来る神様の「僕(しもべ)」です。
イザヤ書の他の個所をみると、この
存在であることが分かります。そして、イザヤ53章5-6節によると、
ことが分かります。この個所および53章全体に記される神の僕の姿は明らかに
であることが分かると思います。
あり得ない神の救い
今日の聖書個所で特に注目したいのはイザヤ書52章15節です。
ここには
ことが預言されています。私たち人間の常識や知識、経験で考えるとあり得ない神様の救いの御業を見聞きして人々が絶句してしまう、というこの預言は確かに、
しました。
いつの時代でも、人々を悪や苦しみから救う救い主、「正義の味方(ヒーロー)」は決して死ぬことがありません。
どんなピンチに陥っても、最後には必ずそのピンチを抜け出して、諸悪の根源を倒すのがヒーローです。
それは古今東西、どこでも同じでしょう。
ところが、イエス様はユダヤ人からすれば諸悪の根源ともいえるローマ帝国を倒すどころから、反対に捕まえられ、反逆罪の汚名を着せられ十字架刑にかけられ、殺されてしまう訳です。
けれども、
しかも
このあり得ない出来事を聞いて驚きと畏れから言葉を失う人もいれば、到底、信じられないと呆れてものが言えない人もいるかもしれません。
いずれの場合であれ、
結論
神の民イスラエルは自らが犯した罪の裁きのため、国を失い、異国の地で苦しんでいました。
しかし神様はその民を見捨てることができず、彼らを救うべく神の僕を遣わすと約束されました。
その
と神様は告げられます。
その驚くべき神様の救いの御業は
しました。
なお、イエス様の十字架と復活による救いは、イスラエル民族が異民族の支配から解放されるという意味の救いではなく、
という意味の救いでした。
ただし、その
です(参照:イザヤ書55章9-11節)。
この世の中の出来事に目を向けると暗いニュースばかりが目につきます。
自然災害や感染病によって多くの人が命を落としています。
戦争や紛争の話を聞かない日はありません。
家庭内暴力やいじめ、パワハラやセクハラといったハラスメントの問題がなくなることもありません。
です。そんな世の中にいると
しかしながら、私たちがどのように感じようとも、
そのことを思い起こさせてくれるのが
です。
救い主が十字架で死んでよみがえるというのは、誰もが思う「あり得ない」ことでした。
また、行いではなく信仰によって救われるというのも、私たちの直感・常識で考えると「あり得ない」ことです。
事実、この世の誰もが良いことをすれば良いことを受け、悪いことをすれば悪いことを受けるのが当然・道理だと考えています。
聖書の語る
です。
皆さんの人生においても、以前は絶対に「あり得ない」と思っていたことを今は普通にやっていることが少なからずあるのではないでしょうか。
特にクリスチャンになる前には「あり得ない」と思っていたことを、クリスチャンになった後ではあまり気にせず普通にやっていることは少なくないと思います。
それはまさに神様の働きの成せる業、神様が今も生きて働いておられる証拠だと言えます。
その意味では
です。
今のこの暗い世の中にあって神様の存在や働きを疑いたくなるときこそ、
今の自分と一年前、五年前、十年前の自分で考え方や生き方において何か変わったこと・変えられたことはないでしょうか。
以前の自分では「あり得ない」と思っていたことを今は普通にやっているようなことはないでしょうか。
です。
参考文献および注釈
- Oswalt, John N. Isaiah. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2003.
- Smith, Gary V. Isaiah 40-66. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 2009.