「人の罪と神の愛」:2020年3月29日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2020年3月29日(日)
  • 説教タイトル・テーマ:「人の罪と神の愛」
  • 聖書個所:使徒言行録25章1-27節1
東京都知事による週末の外出自粛要請を鑑み、Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)での3月29日(日)の礼拝は中止となりましたので、説教の要旨だけをネットで配信しています。
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導入

先週に引き続き今週の聖書個所でも

正しさよりも自分の利益や欲望を優先しようとする「悪い人」たち

が出てきます。このため、誰もが

パウロが可哀そうだ

と同情したくなると思います。しかし、よくよく考えてみると、

現代の日本に生きる私たちも使徒言行録に描かれている「悪い人」たちとそれほど大差がない

ようにも思います。人間の本質は、残念ながら、今も昔もそれほど変わりません。でも、だからこそ、

私たちには救い主なるイエス様の十字架と復活が必要ですし、自分の力や知恵に頼るのではなく、神様の霊である聖霊の助けに頼る

必要があります。

今日の聖書個所を通して今一度、私たち人間の罪深さを思い、イエス様の十字架と復活の意味を考えたいと思います。

良くない思いを持つ

総督フェリクスの後任としてやってきたフェストゥスは着任早々、ユダヤ人指導者たちに会うためにエルサレムに上ります(使徒言行録25章1節)。

するとユダヤ人指導者たちはパウロをカイサリアからエルサレムに送り返すようにフェストゥスに頼みます。それはパウロを待ち伏せして殺すためでした(2-3節)。

裁判ではパウロを死刑に処すことができないと分かっていたユダヤ人たちが、なりふり構わずパウロを殺そうとしていることが分かります。

私たちの生活においても、何かにつけて意見があわずに衝突してしまう人、自分の望みをかなえるためにどうしても目障りな存在な人、やたらと自分にちょっかいを出したり文句を言ってくる人などがいると思います。

そんな人に対して、少なからず良くない思いをもってしまうかもしれません。

でも、私は人を殺そうとまではしないから、ユダヤ人たちよりはマシだ

と思いたくなります。が、しかし、

殺意があるなしに関わらず、相手に対して良くない思いをもった時点で聖書の神様はその人を罪人とみなすお方

です(参照:マタイによる福音書5章21-22節)。

なすべき善を行わない

フェストゥスは、なりふり構わずパウロを殺そうとしているユダヤ人たちに対してカイサリアにやってきてパウロを訴え出るようにと勧めます(使徒言行録25章4-5節)。

こうしてパウロは再びカイサリアの法廷に立たされることとなります。けれども、ユダヤ人たちはパウロの有罪を立証することができません(7節)。

パウロが死刑にあたる罪を犯していないことはフェストゥス自身も認識していたようです(参照:25節)。

にもかかわらず、フェストゥスは法廷でパウロに無罪を宣告しませんでした。それは彼が公的な正義よりも私的な利益を優先したからです(9節)。

現代の私たちの生活においても、正しいこと、した方が良いと分かっていることであっても、なかなかそれをすることができないことがあります。特に

その正しい行為をすることで自分の立場が危うくなるときには尚更、それを行うことができない

ものです。

しかし聖書は、

成すべき善いことを知っていながら、それを行わないのは罪

だと語ります (ヤコブの手紙4章17節)。

表面的に善人ぶる

ユダヤ人指導者たちに「貸し」を作ろうとしたフェストゥスは、エルサレムに行って裁判を受けるかとパウロに尋ねます(使徒言行録25章9節)。

すると、パウロはローマ皇帝に上訴を願い出ます(11節)。

ここで一番困ったのはフェストゥスではないかと思います。というのも、フェストゥス自身が述べているように、パウロは囚人としてローマに送られるにも関わらず、彼はパウロに対する罪状を示すことができないからです(27節)。

そんなフェストゥスのもとにアグリッパ王が挨拶をするために訪ねてきます(13節)。

アグリッパ王はユダヤ人の教えにも詳しく、ローマ皇帝とのつながりも強い人物でした。ローマ皇帝に示すパウロの罪状を相談するにはこれ以上ない相手です。そこでフェストゥスはアグリッパ王に相談をもちかけます。

このとき、フェストゥスは自分の悪いところ(ユダヤ人たちの歓心を買おうとしたこと)は上手く誤魔化しながら、あたかも自分はユダヤ人たちとパウロとの間の宗教戦争の犠牲者であるかのように言葉巧みにアグリッパ王の協力を得ようとしています(参照:18-21節;比較:25-27節)。

私たちもまたフェストゥスと同じく、

人と話をするときに自分に都合の悪いところを誤魔化しながら話す

ことがないでしょうか。

本当は自分にも非があるにも関わらず、自分の悪い部分は語らず、あたかも自分だけが犠牲者であるかのように話すことで相手の理解・協力を得ようとすることはないでしょうか。

イエス様は、そのように

表面的に善人ぶった偽善者たちに対して内側の心を清めなさい

とおっしゃっています(マタイによる福音書23章25-26節)。

結論

人を裁くのは簡単です。

しかし、実際に自分がその人と同じ立場に立ったとすれば、自分もまた同じような間違いや誤りを犯してしまうであろうことは否めません。私たちは皆、自分が思っているほど立派な人物ではないからです。

イエス様はそんな私たちに

自分の目の中の「梁」を取り除きなさい

と勧めます。そうすれば他の人の目の中の「おが屑」を取り除くことができるようになるからと(参照:マタイによる福音書7章1-5節)。

と言われても、です。

なかなか自分の目の中の梁を認めることは難しいもの。プライドや意地といったものが邪魔をするからです。

自分の目の中の梁よりもアイツの目の中の梁の方が大きいから、やっぱりアイツの方が悪い

と思ってしまいがちです。しかし、

私たちの目の中の梁の大きさを測るのは私たちではなく神様

です。私たちは

自分たちの行いや考えを周りの人たちと比べるのではなく、神様が私たちに望まれている行いや考えと比べる

必要があります。善悪の基準は神様だからです。

今日の個所を通してみてきたように、

神様の善悪の基準は非常に高い

です。

実際に人を殺すかどうかに関わらず、心の中で良くない考えを持っただけで裁かれます。

成すべき善を知りながら行わなければ罪に問われます。

しかも、表面的な善い行いではなく、心が伴っていなければなりません。

神様は私たちの心を見ておられます。

そんな神様を前にして、私たちのプライドや意地は何の役にも立ちません。ただただ神様の前にひれ伏し、その憐みにすがる他ありません。

私たちは皆、罪人

なのです。

そんな私たちにもたらされた良い知らせ(福音)がイエス様の十字架と復活です。

神様の前に罪があるとされた人たちを待っているのは「死」です(参考:ローマの信徒への手紙6章23節)。

従って、神様の善悪の基準に照らすと、誰もが「死」を免れることはできないということになります。ここでいう「死」とは肉体的・物理的な死だけではなく、神様との関係の断絶という意味の死も含みます。

この絶望的な状況を打開するため、

神様自らが人の身体をとってこの世に来られ、私たちが本来負うべき罪の罰をその身に背負い、十字架に架かって死んでよみがえってくださった

のです。ここに神様の愛が表れています。

その真理を受け入れ、

それまで自分勝手に生きていた状態から方向転換をして神様のもとに立ち返り(悔い改め)、イエス様を自分の人生の主人・王として、イエス様を信頼してイエス様と共に神様の望む生き方を歩もうとするとき、私たちは「永遠の命」を得る

と聖書は約束します。

あなたは神様の唯一無二の最高傑作として、神様から愛されています。

たとえあなたが神様の望んでおられる完璧な人生を送ることが出来ていないとしても、それは神様にとって想定内のこと。そんなことは全て織り込み済みで、神様はあなたを愛してくださっています。

しかしもちろん、神様はあなたがあなたの悪いところをそのままにしておくことを望んでいらっしゃる訳ではありません。

神様はあなたがもっとイエス様のようになること、イエス様のように考え行動できるようになることを望んでいらっしゃいます。

そのために、

イエス様はいついかなるときもあなたと共にいて、あなたを守り導いてくださっています。

また、

神の霊なる聖霊があなたのうちに住み、必要な力と助けを与えてくださっています。

それでもなお、過ちや間違いを犯すことがあるでしょう。いつまでたっても進歩のない自分に対して腹立たしい思いを感じたり、自暴自棄に陥るかもしれません。

でも、決して忘れないでください。

神様はあなたがイエス様と同じ完璧な生活を送れるとは思っていません。

完璧な生活を送れないと永遠の命が手に入らない訳でもありません。

神様があなたに求めていること、それは

日々、神様の愛を覚え、神様に生かされている恵みに感謝すること。
過ちや間違いを犯したならば、その都度、神様のもとに立ち返ること。

そして、

救い主であるイエス様を信じ信頼して、聖霊の力・助けに依り頼みながら神様の望まれるように生きようとすること

です。

参考文献および注釈

  • Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
  • Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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