「神の大きさ」:2024年3月24日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。

  • 日時:2024年3月24日(日)
  • 場所:桶川福音自由教会
  • 説教タイトル・テーマ:「神の大きさ」
  • 聖書個所:ヨハネによる福音書12章12-19節1
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導入

今日の説教個所となるヨハネによる福音書12章12-19節は、復活祭の一週間前の「棕櫚(しゅろ)の主日」にちなんだ箇所です。

今日はこのイエス様がエルサレムに入城される場面を通して、

神様の偉大さ、私たちの思い・考えの枠を超えたスケールの大きさ

を改めて考えてみたいと思います。

理解を超える神の業

今日の聖書個所(ヨハネによる福音書12章12-19節)は「その翌日」という言葉で始まっています。

ここの「その」というのは12章1-11節に記されている出来事を指しています。

そのときイエス様はべタニアにいるラザロとマリア、マルタの家で夕食を取っていました。

その夕食の席でマリアは非常に高価なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。

その場にいた人々にはこのマリアの行動が理解できませんでしたが、それはご自分の埋葬の日のためであるとイエス様はおっしゃいます(7節)。

弟子たちもまたここでのマリアの行動とイエス様の言葉を理解できていなかった

と思われます。

彼らにとっての「メシア(救い主)」はローマ帝国の打ち倒して新しい王国を打ち立てるイスラエルの王でした。

その

王なるメシアがローマ帝国を打ち倒す前に死んでしまうなどあってはならないことだった

からです。

ここに

私たち人間の理解をはるかに超えたところで働かれる神様の御業

を見て取れます。

期待を超える神の業

今日の聖書個所の出来事を通してもまた私たち人間の理解をはるかに超えたところで働かれる神様の御業を見て取ることができます。

今日の個所で人々はイエス様をイスラエルの王様としてエルサレムに迎え入れようとしていました(ヨハネによる福音書12章12-13節)。

人々は、

彼らの「メシア(救い主)」なるイエス様が今すぐにでもローマ帝国を打ち倒し、イスラエルの王国を取り戻してくださることを期待していた

訳です。

ところが、です。

イエス様は彼らの期待を超えた行動を取られました。
イエス様は戦いのための軍馬ではなく、子ろばに乗ってエルサレムに入って行かれた

のです(ヨハネによる福音書12章14-15節;比較:列王記上5章6節[新改訳では4章26節];イザヤ書31章1節;ゼカリヤ書9章10節)。

それは

旧約聖書の預言(ゼカリヤ書9章9節)が実現されるためであった

とヨハネは記しています(ヨハネによる福音書12章15節)。

想定を超える神の業

メシア(救い主)が軍馬ではなく子ろばに乗ってエルサレムに入城するというのは、ここまでイエス様に付き従ってきた

弟子たちにとっても想定外の出来事

でした(ヨハネによる福音書12章16節)。事実、

弟子たちがその行動の意味を悟ったのはイエス様が死んでよみがえられた後、彼らに聖霊が降ってから

でした(参考:ヨハネによる福音書2章22節; 7章39節; 14章26節; 16章13-14節)。

なお、

今日の個所の直後の話(ヨハネによる福音書12章20-26節)もまた神様が私たち人間の想定を超えて働かれることを教えてくれるもの

となっています。

詳しくは説明しませんが、ヨハネによる福音書12章20-21節にはイエス様に会いに来た何人かのギリシア人が出てきます。

彼らは異邦人ではあるもののユダヤ人たちの信じる神様を畏れ敬う人々であったと思われます。

ユダヤ人だけでなく異邦人も救われるというのは、当時のユダヤ人たちの想定を超えたもの

でした(参考:使徒言行録10章45節; 11章18節)。

しかし、

神様はそんな彼らの想定をはるかに超えた救いの御業を成し遂げようとされていた

ことが、ギリシア人たちがイエス様に会いに来た場面に示唆されています。

結論

神様は私たち人間の理解を超えた存在で、私たちの期待や想定を超えた救いの御業を成していかれます。

イエス様の時代の人々は誰も彼らの待ち望んでいた「メシア(救い主)」がローマ帝国によって殺されるとは思ってもいませんでした。

彼らにとっての「メシア」はローマ帝国を滅ぼす存在であって、ローマ帝国に滅ぼされる存在ではなかったからです。

このため、イエス様が軍馬ではなく子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとき、弟子たちも含め誰一人、そのイエス様の真意を理解していませんでした。

彼らがそのイエス様の行動の意味を悟ったのは、イエス様が死んでよみがえられた後、彼らに聖霊が降ってからでした。

そして、弟子たちに聖霊が降って以降、神様の救いの御業は弟子たちの想定を超えて、全世界の人々に広がっていきました。

ここで一つ質問です。

あなたの信じる神様・イエス様はどれほど大きなお方でしょうか?
「神様・イエス様はどんなお方ですか?」と聞かれて、どんなイメージが湧き上がってくるでしょうか?一言で語ることができるお方でしょうか?もしくは、言葉では到底語りつくすことのできないほど偉大なお方でしょうか?

なぜこのような質問をしたかというと、イエス様を救い主と信じ、クリスチャンとして生活する期間が長くなればなるほど、

神様のことを全て分かった気になってしまう

ことがあるかもしれないからです。

しかしながら、

聖書という書物は、私たちが読む度に異なる気付きを与え、その時々の私たちの状況に応じて語り掛けてくれる書物、まさに神様の生きた言葉

です。ですから、

神様・イエス様のことを分かったつもりになって聖書を読むのを止めてしまうのは非常にもったいない

ことだと思います。

是非、聖書を読む前には一度、神様の前に心静めて、

「神様、どうか聖書を通して私に語り掛けてください。私の目と心を開いて、あなたからの語り掛けに気付くことができるようにお助け下さい」

と一言祈ってから読み進めてみてください。

きっとこれまでになかった新しい気付きを通して、神様から語り掛けられると思います。

神様・イエス様のことを全て分かったつもりにならないというのは聖書を読むとき以外の私たちの実生活においても非常に大事

なことです。というのは、

この世の中は私たちには分からないこと、私たちの理解や期待、想定を超えることで満ちている

からです。

たとえ私たちに理解できないことや私たちの期待・想定に反することが起きたとしても、私たちの理解・期待・想定を超えたところで働かれる神様を信じて全てを委ねる

ことがとても大切です。

とはいえ、もちろん、実生活の中で辛いこと・悲しいこと・苦しいことが起きた時、それでも神様を信頼し続けるのは簡単なことではありません。

が、しかし、万事が上手くいっているから、祝福されているから信じるのではなく、

全てが上手くいかず、どこ行けばよいのか、どうすればよいのかも分からない全くの暗闇の中にあっても、その先にはきっとそれまでの労苦を補って余りある祝福があると信じて歩み続ける。

そこに信仰の本質があると思います(参考:ヘブライ人への手紙11章1節)。

そして、

そのような信仰を可能にするのが私たちの思い描く神様・イエス様の大きさ

だとも思います。

あなたの思い描く神様・イエス様のイメージが大きければ大きいほど、苦難困難に遭ったときに神様・イエス様を信じようとする気持ちは大きくなる

はずです。

聖書の語る神様は私たちの理解・期待・想定を超えたところで働くお方、全知全能にして、絶対的主権を持った天地万物の造り主なるお方

です。この

比類なき知恵と力、権威・権力を持ったお方があなたのために、あなたを罪の滅びから救い出すために、あなたの身代わりとして十字架で死んでよみがえってくださった

と聖書は語ります。

あなたが他の人と比べて特別に優れているからではありません。

何か特別なことをしたからでもありません。

ただ

あなたの存在そのものが、神様にとってはご自分の命に代えても惜しくないほどに高価で尊い

のです。

あなたはそのままで神様に愛され、受け入れられ、必要とされています。

自分ではない誰かのふりをする必要はありません。

あなたがあなたらしく、神様に与えられた個性や能力を存分に用いて神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛することを神様は望んでおられます。

とはいえ、

神様の望まれるように神様と人を愛し抜くというというのは決してラクな道ではありません。

時には心無い言葉に傷つくことがあるかもしれません。

陰口をたたかれることがあるかもしれません。

自分の思い・考えを誰にも理解されず、自分は独りぼっちだと感じることがあるかもしれません。

「なぜこんなことが起きてしまったんだ!」と嘆き悲しむことがあるかもしれません。

でも、

たとえどんなことがあったとしても、

それは神様があなたを嫌いになったからではありません。

神様があなたを見捨てたからでもありません。

神様はそれまでと変わることなくあなたを愛し、絶対的主権をもってあなたを守り導いてくださっています。
あなたは独りではありません。
あなたの理解・期待・想定をはるかに超えて働かれる神様の御子イエス様がいつもあなたと共にいて、あなたを励まし、慰め、力づけてくださっています。

参考文献および注釈

  • Burge, Gary M. John. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2000.
  • Carson, D. A. The Gospel according to John. Reprint edition. The Pillar New Testament Commentary. Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
  • Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary. Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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