「圧倒的な神」:2022年4月10日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。

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導入

今日の聖書個所からいわゆる「10の災い」が次々とファラオ及びエジプトの人々にもたらされることになります。

この10の災いから最後の一つを除く9つの災いの中にはある特定のパターンが繰り返されています。

そのパターンは下記にあるように、三つの災いごとに3回繰り返されています。2

 災い時間帯ファラオに関する指示忠告
一回目1.血
2.蛙
3.ぶよ

不明
不明
「彼(ファラオ)を待ち受け」
「ファラオのところに行って」


二回目4.あぶ
5.疫病
6.腫れ物

不明
不明
「ファラオの前に進み出なさい」
「ファラオのもとに行って」


三回目7.雹
8.ばった
9.暗闇

不明
不明
「ファラオの前に進み出て」
「ファラオのもとに行きなさい」


そして、一回目のパターンのときよりも二回目、二回目よりも三回目と進むにつれて災いによる被害が増していき、最後の10個目の災いではエジプト人たちの初子は人も家畜も全て死に絶えてしまいます。

このようなパターンをみると、

出エジプト記を記した作者(神様)は明らかな意図・目的をもってこれらの10の災いを書き記している

ことが推測できます。その意図・目的とは、

創造主なる神様がその力と主権、愛と憐れみにおいてどれほど圧倒的な存在であるか

を示すことです。今日は最初の三つの災いに関する記述を通して、創造主なる神様の圧倒的な力と主権、愛と憐れみを再確認したいと思います。

神の力と主権

10の災いの初めに登場するのは

エジプトにある水という水が全て血に地に変わる

という災いです(出エジプト記7章14-25節)。

エジプトにおいて、ナイル川は全ての命の源、崇拝の対象

でした。そのナイル川をモーセが杖で打つと、その水が血に変わり、魚が死に、悪臭を放つようになる(7章17-18節)というのは、

ナイルの神よりもイスラエルの神の方が圧倒的に優れている

ことを示すことになります。

また、出エジプト記1章22節でファラオは生まれたばかりのイスラエルの男の子をナイル川に投げ込むように命じていました。

人口が増えていたイスラエル民族の数を抑え込むためです(参考:1章9-10, 16節)。

しかしながら、

神様の民がこの地に増え広がることは、天地万物を創造したときから神様の計画の中心

にありました(参考:創世記1章28節; 12章2節;比較:出エジプト記1章7節)。このため、

ファラオはナイル川を用いて神様の計画を妨害しようとしていた

と言えます。そこで

神様はどんな妨害に遭おうとも必ず御自分の計画を実現していくことを示すため、10の災いの一番初めにナイル川を打たれた

と考えることができます。

二つ目の災い

ナイル川に蛙が増え広がり、エジプト中の家々や田畑に這い上がってくる

というものです(7章26節-8章11節[新改訳は8章1-15節])。

その当時、「蛙」は出産を司る女神として崇められていたようです。

産後間もないイスラエル人の男の子を殺そうとするエジプト人たちが出産の女神として崇める蛙。

その蛙を意のままに操り、挙句の果てには殺してしまうイスラエルの神。

その対比・皮肉の中に

聖書の神様の圧倒的な力と主権

が表されています。

三つ目の災い

アロンが杖を用いて地の塵を打つと、ぶよとなって人や家畜につく

というものです(8章12-15節[新改訳は8章16-19節])。

これまでの二つの災いは水から発生しましたが、この三つ目の災いは地(の塵)から発生します。そして続く4つ目の災いは空からあぶが大量発生します。

水、大地、そして空、それら全てを神様が創造され、支配しておられる

ことが暗に示されています(比較:創世記1章6-13節)。

神の愛と憐れみ

今日の聖書個所にははっきりと記されていませんが、これら

三つの災いは全てエジプト人だけにもたらされ、イスラエル民族は災いを免れていた

と思われます(参照:出エジプト記7章21節; 8章7節[新改訳は8章11節]; 比較:8章19節[新改訳は8章23節]; 9章4, 11, 26節; 10章5, 23節; 11章7節)。

神様は天地万物の造り主で、被造物を御自分の意のままに操ることができる力を持ったお方

です。神様は時として、その力を

御自分の計画を妨げようとする人たちに対する裁き(災い)

というかたちで用いられます(参考:7章4節)。その一方で、

愛と憐れみに満ちた神様はその圧倒的な力を用いて御自分の民を裁き(災い)から免れさせ、救いをもたらすお方

でもあります。

神様の愛と憐れみは二つ目の災いの場面にも見て取れます。

そこでファラオは蛙を追い払うように神様に祈ってほしいとモーセにお願いしています(8章4節[新改訳は8章8節])。

すると神様は、このファラオの要求に応じたモーセの祈りに答えられます(8章9節[新改訳は8章13節])。

たとえ神様と敵対関係にある人であっても、神様の前にへりくだり、その憐れみにすがるとき、愛と憐れみに満ちた神様はその祈りに答えてくださる

ことが分かります。

結論

神様は天地万物の造り主で、被造物を御自分の意のままに操ることができる圧倒的な力を持ったお方

です。また

神様は御自分の計画を必ず実現される絶対的な主権をもったお方

でもあります。神様はその絶対的で圧倒的な力と主権を用いて、

御自分の計画を妨げようとする存在(悪・罪)に対しては裁きをもたらしますが、御自分の民に対しては救いをもたらす愛と憐れみに満ちたお方

でもあります。また、仮に

神様に対して敵対関係にあったとしても、一度、神様の前にへりくだり、心を入れ替えてその憐れみにすがるならば、愛と憐れみに満ちた神様はその人を顧みてくださいます。
神様はその力と主権、愛と憐れみにおいて他者を寄せ付けない圧倒的な存在

です。そのことが最もはっきり示されているのがイエス様の十字架と復活という出来事です。

イエス様は十字架上で、この世の悪・罪が受けるべき裁きをその身に受けられました

そのおかげで、神様の前にへりくだり、心を入れ替えてその憐れみにすがろうとする人々には神様の裁きを免れることのできる救いの道が拓かれました。

その救いの道は神様の一方的な恵みによって、神様の底知れぬ愛と憐れみによって与えられた道です。

その道を歩むために必要なのはイエス様を救い主として信じ従おうとする信仰だけです。

また、天地万物を無から創造された神様は、その圧倒的な力を用いて、イエス様を死からよみがえらせました(参考:ローマの信徒への手紙4章17節;エフェソの信徒への手紙1章19-20節)。

それは、イエス様が再びこの世に来られるときにもたらされる完全な救いがどのようなものかを私たちに示すためでした(参考:コリントの信徒への手紙一15章20-27節)。

イエス様が再び来られるとき、イエス様を信じる私たちもまたイエス様のような肉体をもってよみがえります(コリントの信徒への手紙一15章51-55節;フィリピの信徒への手紙3章21節)。

この

朽ちることなく死ぬことのない「栄光の体」をもって、現在の世の中とは異なる新しい天地において、神様と共に永遠に生きる

というのが聖書の語る救いが完全に実現した状態です(ヨハネの黙示録21章1-5節)。

それはいわゆる「堕落」前のエデンの園の状態に近いと言えます。

その力と主権、愛と憐れみにおいて圧倒的な存在である神様は天地万物を創造の始めの極めて良かった状態(創世記1章31節)に戻すべく、今も生きて働いておられる

のです。

現代は科学の発展のおかげで、一昔前では想像もできなかった生活が可能となっています。

医学の進歩のおかげで、一昔前では治せなかった病も治せるようになってきています。

神様に頼る必要なんかない。人間の知恵と努力で何でもできる!

そう思ってもおかしくない世の中となっています。

けれども、昨今の新型コロナウイルスの感染拡大は人間の知恵や力の限界を思い知らされる出来事ではなかったかと思います。

とはいえ、私は別に新型コロナウイルスが神様の裁きによってもたらされたと言いたい訳ではありません。

科学技術や医学的治療を捨てて、原始の生き方に帰ろうと言いたい訳でもありません。

ただ、

私たちの造り主である神様のことを忘れ、私たち人間の知恵や力だけに頼ろうとする生き方は必ずどこかで行き詰ります。

「絶対」や「完璧・完全」といった言葉は、残念ながら、人間には当てはまらないからです。

「絶対に10キロ減量するぞ!」と思っても、そのダイエットが絶対に成功するとは限りません。

仮に一度は成功したとしても、同じことをもう一度やって再び成功するとは限りません。

ダイエットに限らず、たとえどんなに些細なことでも100回やって100回全て成功することは簡単なことではありません。

人間は誰しも弱く不完全な存在です。

対して、

神様は「絶対」で「完璧・完全」なお方

です。

神様が実現するとおっしゃったことは絶対に実現します。

神様は絶対的で圧倒的な力と主権をもったお方ですから、100回やれば100回とも絶対に成功します。

しかも

神様は底知れぬ愛と憐れみに満ちたお方

です。

その神様が成されることはイエス様を信じ従おうとする者にとっては最高最善の結果となります(ローマの信徒への手紙8章28節)。

ただ、その

最高最善の結果は、あなたが望む最高最善ではなく神様の目から見た最高最善

です。また、その

最高最善の結果は、あなたが期待する方法やタイミングはなく、神様の方法とタイミングによってもたらされます。

そこには

神様・イエス様に対する信仰が必要

です。けれども、その

信仰をもって神様・イエス様につき従おうとするとき、この世が決して与えることのできない喜びと平安、そして希望があなたの心を満たす

ことでしょう(ローマの信徒への手紙15章13節)。

私たちの想像をはるかに超えた圧倒的な神様の祝福が皆さん、お一人お一人の上に豊かにありますように。

参考文献および注釈

  • Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
  • Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
  • Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。なお、出エジプト記の7章26-29節から8章28節まで、聖書協会共同訳と新改訳とでは章節の振り方が異なっている。聖書協会共同訳の7章26-29節は新改訳の8章1-4節に相当する。以降、聖書協会共同訳の8章1節は新改訳の8章5節にあたり、4節ずつ節番号がずれている。
  2. Peter Enns, Exodus, The NIV Application Commentary (Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000), 208.
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