「御心を求める人生」:2020年2月23日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(説教の音声はこちらから)。

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導入

今日の聖書個所(特に21章4節と11節)および使徒言行録20章22-23節をみると、神様はパウロに対してエルサレムで苦難が待ち受けているであろうことを何度となく伝えていることが分かります。

にもかかわらず、パウロはエルサレムに向かう旅を止めようとはしません。むしろ、エルサレムに向かおうとする彼の覚悟・決心は益々強められているようにさえ感じます。

今日は、

苦難・困難が待ち受けていることを承知の上で、なぜパウロはその苦難・困難を避けようとしなかったのか?
なぜパウロは苦難・困難をも恐れずに突き進むことができたのか?

を共に考えたいと思います。

苦難の伴う人生

パウロが危険や苦しみが待ち受けていると知っていてもなお、その苦難・困難に満ちた道を避けようとしなかった理由の一つ目として、パウロは、

クリスチャンとして生きるとき、苦しみや痛みを避けられないことを知っていた

ことが挙げられます。

事実、パウロ(とバルナバ)は諸教会のクリスチャンたちに対して、苦しみを避けることができないことを説いています(使徒言行録14章22節)。

現代の日本においてクリスチャンは圧倒的少数派です。

このため、集団の和(調和)を重んじる日本的な文化・慣習においては、時として非常に肩身の狭い思いをしたり、白い目で見られたり、変り者と思われることがあるかもしれません。

また、イエス様を信じて、神様の思い・願いを求めて生きようとするとき、それまでは大して気にも留めなかったことに対して非常な罪悪感を感じることがあるかもしれません。

程度の差はあれ、

クリスチャンとして生きるとき、私たちもまた苦難や困難を避けては通れない

と言えます。そんなとき、

私たちの主イエス・キリストもまた苦難や困難に遭われた

ことを覚えたいと思います。

イエス様は何一つ悪いことをしませんでした。むしろ、自分の全てを投げ打って、この世の弱い人たち、虐げられている人たち、除け者・邪魔者扱いされている人たちの友となられました。

にもかかわらず、

この世はイエス様を受け入れるどころか、イエス様を憎み、最終的には十字架に架けて殺してしまった

のです(参照:ヨハネによる福音書15章18-19節)。

神が共にいる人生

危険や苦しみが待ち受けていると知った上で、パウロがその苦難・困難に満ちた道を避けようとはしなかった理由。その二つ目は、

たとえ苦難や困難にあったとしても、神様はいつも共にいてくださり、守り導いてくださる

と彼が確信していたからだと思います(参照:マタイによる福音書28章20節)。

イエス様が私たちと共にいてくださるとしても、私たちが苦難や困難に遭わなくなる訳ではありません。

イエス様が共にいてくださったにもかかわらず、パウロは数多くの苦難に遭いました。

私たちはこの世にあって苦しみや悲しみを避けることはできません。しかし、

どんな状況であろうとも私たちを理解してくれ、決して見放すことなく私たちといつも共にいてくださる方がおられるのだ

と思える(信じられる)とき、私たちもまたパウロと同じように、苦難・困難をも恐れずに突き進む勇気と力を得ることができるのではないでしょうか。

イエス様はおっしゃいます。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。【ヨハネによる福音書16章33節】

出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き』(日本聖書協会、2018年) (新)197頁1

御心を求める人生

パウロが苦難・困難をも恐れずに突き進むことができたもう一つの理由。それは彼が

主の御心がなることを第一に求めていた

からだと言えます。

パウロの友人・知人がエルサレムに行かないように彼を説得したとき、パウロは自分の命よりも神様の御心が成されることを求める自らの覚悟を伝えます(使徒言行録21章13節)。

そんなパウロに対して、人々もまた自分たちの思い・考えよりも主の御心が行われることを優先しました(21章14節)。

その後、パウロはエルサレムで捕らえられ、遂にはローマまで連れていかれることになります。が、それによって、神の国がローマにまで宣べ伝えられるようになりました(28章30-31節)。

彼らが自分の思いや願いではなく神様の御心を第一に求めたからです。

神様の御心、つまりは

神様の思いや願いというものは私たち人間の思いや願いと異なる

ことがほとんどです。

ですから、私たちが神様の御心がなされるように行動しようとするときは大抵、自分たちがあまりしたくない・やりたくないことをすることになります(例:ルカによる福音書6章27節;17章4節)。

なぜそんな辛く苦しい思いをしてまで、神様が望んでいることをしないといけないんだろうか?

と思いたくなってしまうかもしれません。そんなとき、思い出してください。

神様の独り子イエス様が想像を絶するほどの苦しみを十字架上で経験して、永遠の滅びからあなたを救い出すという神様の御心を成し遂げてくださったことを。

あなたに永遠の命を与えるために、神様の御子イエス様がご自身の命を十字架上で捧げられ、死んでよみがえってくださったのです。

辛く苦しい思いを経験しながらも神様の望んでいることをなそうとすることは、ある意味、この

測り知れない神様の愛と恵みに対する「恩返し」

ということができると思います。

なお、この神様への「恩返し」はあなた独りの努力によってするものではありません。

あなたのうちに住む神様の霊(聖霊)が「恩返し」に必要な助けを与えてくださる

のです。

結論

神様が十字架上で示してくださった測り知れない愛と恵みに対する「恩返し」として、自分の思いや考えではなく神様の思いや考えを優先して生きようとするとき、私たちは様々な苦難や困難に直面します。

しかし、イエス様はそんな私たちといついかなるときも共にいてくださり、苦難や困難をも恐れずに突き進む勇気と力を与えてくださいます。

神様の御心を求める人生を歩もうとするとき、決して忘れてはいけないことがあります。それは、

私たちは神様が望んでおられることを完璧に行うことができない弱く不完全な存在

だということ。そして、

神様はそんなにも弱く不完全な私たちを御自分の独り子イエス様の命に代えても惜しくないほどに愛してくださっている

ということです。

神様は弱く不完全なあなたを必要としておられます。
神様は弱く不完全なあなたを用いて、あなたと共に御自分の御心を成していこうとされている

のです(比較:コリントの信徒への手紙第二12章9-10節)。

参考文献および注釈

  • Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
  • Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き』から引用。
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