「キリストのもたらす解放」:2021年5月2日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

この世の中には実に様々なルールや規則があります。

人間が集まって社会生活を営むとき、その集団内の秩序と調和を保つためには何らかのルールや規則は必要不可欠であると言えます。

しかしながら、本来は私たちの社会の秩序と調和を保つために定められたはずのルールや規則の本質が忘れ去られ、

ルールや規則だけが独り歩きしてしまう

ことがあります。たとえ社会の秩序と調和を犠牲にしたとしても、

何が何でもルールや規則に従わなければならない

という考えに陥ってしまうことがあります。こうなってしまうと

本末転倒です。

「律法主義」または「形式主義」に陥ってしまうことになります。

今日の聖書個所は、そのような「律法主義」や「形式主義」から解放されるためのヒントを与えてくれます。

律法の働き

「律法主義」や「形式主義」から解放されるためのヒントを探るため、まずはローマの信徒への手紙においてパウロが、神様がユダヤ人たちに与えた「律法」について何と言っているかをみておきます。

ローマの信徒への手紙3章20節においてパウロは、

律法を行うことによっては誰も神様の前に義(正しい者)とは認められず、律法によっては罪の自覚しか生じない

と言っています(比較:7章7節)。このため、

全ての人は神様の怒りを免れることができません。

この意味において、

律法は神様の怒りを招くもの

と言えます(4章15節)。

また、神様中心ではなく自分中心に生きていたとき、即ち、「神の奴隷」(6章22節;比較:6章18, 19節)ではなく「罪の奴隷」(6章17, 22節)として生きていたとき、私たちは罪に対する欲情の赴くままに生きていました

律法によって罪が何かを知れば知るほど、「罪を犯すな」と言われれば言われるほど、返って罪に溺れてしまう存在

でもありました(7章8節)。この意味において、

律法のおかげで人々の過ちが増し加わる

とパウロは語っています(5章20節)。

まとめると次のようになります。

  • まず律法によって「罪」とは何かを理解し、罪の自覚が生まれます(ローマの信徒への手紙3章20節;7章7節)。
  • しかしながら、「罪を犯すな」と言われると余計に罪を犯したくなるのが人間の本性です(6章17, 22節;7章8節)。
  • このため、ますます罪に囚われ、過ちが増し加わります(5章20節)。
  • 結果、神様の前に正しい者(義)とは認められなくなります(3章20節;4章15節)。

そして、その行き着く先は神の怒りがもたらす永遠の懲らしめとしての「死」です(参考:ローマの信徒への手紙6章21-23節;マタイによる福音書25章46節)。

律法からの解放

この

「罪を犯すな」と言われると余計に罪を犯したくなる人間の本性

に対して、どのように対処するかによって「律法主義」になるかどうかが決まると言えます。実際、

罪を犯したくなる人間の本性に対して自分の力や努力によって対処しようとするとき、人は「律法主義」に陥りやすくなります。

というのも、

自分の力や努力によって欲情・情欲を抑えこもうとする人は、自分の力や努力を誇る

傾向にあるからです。

また、そのような人は他者を非難・非難する傾向が強くなります。

さらに一旦、罪を犯し始めると自己嫌悪や自暴自棄に陥り、歯止めが利かなくなってしまうこともありえます。

「罪を犯すな」という律法の縛りに対して、私たちは自力で逃れる術をもっていない

のです。

しかしながら、

クリスチャンは律法の縛りから解放され、律法によってではなく聖霊によって神様に仕えるようになった

と聖書は語ります(ローマの信徒への手紙7章6節)。

なぜそのような劇的な変化が起きたのかというと、

イエス様が私たちの罪を背負って十字架上で死んでくださったから

です(参考:6章6-11節)。そして、

律法の縛りから解放された私たちは、今度はイエス様に属するものとなり、律法ではなく聖霊によって導かれ、イエス様に似た者へと変えられていく

とパウロは言っています(7章4節;比較:ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節;コリントの信徒への手紙二3章18節)。

ここに「律法主義」から解放される生き方のヒントがあります。

結論

「律法主義」から解放されるためには、まず

聖書の教えを自らの力や努力で守り切ることができないことを認める

必要があります。そして、

そんな弱く不完全な自分が受けるべきであった罪の罰をイエス様が十字架上で全て受けてくださったことに感謝し、イエス様に属するものとして生きる

ことを再確認します。その上で、

自分の力や努力だけに頼るのではなく、イエス様を信じ従おうとする私たちの内に住んでくださっている聖霊の助けを求めながら、神様の望まれる生き方に生きる

訳です。くだけた表現を使えば、

神様、できない自分を愛してくださって有難うございます。
イエス様、できない自分を救ってくださって有難うございます。
聖霊様、できない自分ですが、できるように助けてください。

と絶えず思い続けることが大事です。そうすれば、

自分と他人を比べて一喜一憂することはなくなるでしょう。

他人を裁くこともなくなるでしょう。

あくまでも自分と神様の関係に焦点を当てながら、聖霊の働きによって、イエス様が自分を愛してくださっているように周りの人を愛することができるようになるでしょう。

では、

「形式主義」から解放されるにはどうすればよいのでしょうか?

形式主義に陥ってしまう理由の一つには表面的な聖書理解があると思います。

聖書の語っていることを頭では何となく理解できているけれども、心の底から納得し切れていない。

もしくは、

あまり疑問を持たずにそのまま受け入れてしまっている

とも言えます。

ただ「聖書がそう言っているから」という理由で全てを片付けてしまうことはないでしょうか。

「なぜ」聖書がそう言っているのかを深く考えようとせず、書いてあることをそのまま受け入れて実行しようとしてしまうことはないでしょうか。

それは、下手をすると、

前後の文脈や作者の意図を完全に無視して、書いてある文字面だけをそのまま抜き出して生活に適用する

ことになりかねません。

そうなると、神様・聖書が本来望まれているものとはかけ離れた結果を招くことになってしまいます。

自分が表面的形式的に神様・イエス様に従っていることすら気づかないこともあり得ます。

そうならないためにも、

聖書を正しく、深く理解する

必要があります。そのためには、

前後の文脈に注意しながら、「なぜ」聖書はそのように語っているのかを絶えず問いかけていく

ことが大事だと思います。

形式主義に陥ってしまうもう一つの大きな理由は恐らく、傷つけられるのが怖いからではないかと思います。

真剣に取り組んでいる自分を見られて馬鹿にされるのが怖い。
真面目に取り組んで失敗して笑われるのが怖い。
できない自分をさらけだして、見下されるのが怖い。

そのような対人関係に対する怖さから、

人から傷つけられる前に防護壁をはりめぐらして、本当の自分を見せないようにする…

そして、そのような自分を着飾るため、表面的に「良いクリスチャン」を演じるようになってしまうことがあるのではないでしょうか。

しかし、これは

人に対しても神様に対しても自分を偽りながら生きる生き方です。表面的には神を愛し、人を愛しているように見えたとしても、その実態は真の愛とは程遠いもの

です。

でも、決して忘れないでください。

神様はそんなあなたを愛しておられる

のです。

誰にも自分の弱さをみせることができず、いつも自分を偽っているあなたの心の内を神様は誰もよりもご存知

です。そんなあなたに神様は

「大丈夫、私はあなたのことを分かっているよ。私はあなたを愛しているよ」

と語り掛けてくださっています。その

神様の愛が表されているのがイエス様の十字架

です。

誰も心から愛することができないあなたを
愛することで傷つくことを恐れてしまっているあなたを
神様はご自分の命に代えても惜しくないほどに愛しておられます。
その愛を示すため、神様の独り子イエス様が十字架に架かられた

のです。

もう「良いクリスチャン」を演じ続ける必要はありません。
あなたの内に住んでおられる聖霊の働きによって、真の意味での「良いクリスチャン」、即ち、「イエス様に似た者」へと変えられていく

のです。

参考文献および注釈

  • Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
  • ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
  • Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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