「キリストにある一つの体」:2020年9月13日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。

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導入

新型コロナウイルスの感染拡大が始まってから「新常態(ニューノーマル)」という言葉を耳にするようになりました。

これまで「当たり前(ノーマル)」だったことが当たり前ではなくなり、新しい当たり前は一体どのようなものかと皆が模索している状況にあります。

しかし、

聖書は、イエス様を救い主として信じ従おうとする者はこの世の「当たり前(ノーマル)」に倣ってはならない

とも語っています(ローマの信徒への手紙12章2節)。今日の聖書個所を通して、

クリスチャン(教会)にとっての「新常態(ニューノーマル)」は何か?

を知る手掛かりが得られればと思います。

キリストにある一つの体

今日の個所を含めたローマの信徒への手紙12章3節以降でパウロは、神様がクリスチャンに望まれる生き方とはどういうものかを具体的に説明しています。

その最初の具体例の中に体のたとえが記されているのは特筆すべきことだと思います(参照:ローマの信徒への手紙12章4-5節)。

誰もが御承知のように、私たちの体の部位は単独で存在することができません。

それと同じように、

私たちクリスチャンも単独で生きていくことはできません。

クリスチャン同士のつながりが必要不可欠です。このようなつながりによって形成される

「キリストにある一つの体」が本当の意味の「教会」

だと言えます。そして、

キリストにある一つの体である教会が本来の姿で存続するためには、誰一人として欠けることはできない

のです。

とはいえもちろん、ただ教会に行けばよいという訳ではありませんし、近くに心が休まる教会がないという場合もあると思います。

また、今現在は新型コロナの影響によって、教会に行きたくても行くことがためらわれる状況にあります。

しかし、

たとえどんな状況にあったとしても、他のクリスチャンたちとの交流関係を保つことはとても大事なこと

です。とりわけ、お互いの関係性をより良いものにするためには、実際に会って時間を共にすることに勝るものはありません

確かに、今現在も新型コロナの感染拡大に対する恐れがあります。

しかしながら、感染を防ぐための予防策・対策はかなり確立してきています。

物理的に会うことを過度に恐れることなく、正しい知識に基づいた適切な予防策を講じながら、他のクリスチャンたちとの物理的な交流を回復してもよい時期がきているのではないか

と個人的には感じています。

恵みによって与えられた賜物

キリストにある一つの体としての教会の中にいるクリスチャンは、ただお互いの人間関係を良好に保っていればよい訳ではありません。

私たち一人一人には神様の恵みによって与えられた賜物があって、それらを自分のためではなく、体全体(教会の皆)のために存分に用いることが重要

であるとパウロは続けています(参照:ローマの信徒への手紙12章6-8節)。

恵みによって与えられた賜物ということは、それらの賜物は全て、私たちが受けるに値しなかったものだということです。従って、

私たちはお互いの賜物を比べて相手を羨んだり、見下したりすることはできません。

12章3節でパウロが勧めているようなへりくだりの心が必要です。

でも、そもそものところ、

自分には6-8節に記されているような賜物は何も与えられていないんだけど…

と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

そんな方はご安心ください。

神様が私たち一人一人に恵みによって与えてくださっている賜物は今日の個所に書かれているものだけではありません。

というのも、似たような「賜物リスト」が他の聖書個所にも記されているからです(参考:コリントの信徒への手紙第一12章4-11節、28-31節;エフェソの信徒への手紙4章11節;ペトロの手紙第一4章11節)。

しかも、それぞれの「賜物リスト」を記した人たちは、神様が私たち一人一人に与えてくださる「賜物」の一例として、その中の一部を挙げているだけです。このため、

聖書に記されている以外にも賜物がある可能性は否定出来ません。

皆のために用いる賜物

大事なことは、

神様が恵みによって私たち一人一人に賜物を与えてくださっている

ということ。そして、

恵みによって与えられている賜物を自分のためではなく、キリストにある一つの体全体のために用いる

ということです(比較:コリントの信徒への手紙12章7節)。

自分に与えられている賜物が何であるのか分からない方は、自分の周りの人々に聞いてみると良いかもしれません。

あなたの持っている賜物によって慰めを受けたり、励まされたり、勇気づけられたり、和まされたりした人がきっとどこかにいらっしゃるはずです。

そのような人たちに具体的に、あなたのどのような部分(言動や態度など)に慰めや励ましを受けたのかを聞いてみてください。あなたに与えられている賜物を知る手掛かりがみつかるかもしれません。

いずれにしても、神様から与えられた賜物を惰性的な義務感から用いるのではなく、熱心に心を込めて快く用いるようにパウロは勧めています。

ここでも大事になってくるのはローマの信徒への手紙12章3節でパウロが述べていた(神様の恵みに根差した)へりくだりの姿勢だと思います。

結論

神様の恵みによって与えられた賜物をへりくだりの心をもって、自分のためではなくキリストにある一つの体(教会)のために真心を込めて用いる

こと。それが神様に喜ばれるクリスチャンとしての生き方の一つだと言えます。

が、しかし、そうは言われたところで、なかなか神様の望んでいることを実行できないのが私たち人間の弱いところ。

私たちはついつい周りの人と自分を比べて、自慢してみたり、他人を裁いてみたり、不平不満を口に(態度に)出してみたりする傾向があります。

そんなときにはローマの信徒への手紙12章3節のパウロの言葉を思い出してください。

私たちは皆、神様の恵みによって救われた存在

です。

私たちに誇れるところは何もありません。

人のことをあれこれ裁く権利も資格もありません。

私たちに出来ることはまず、

神様の恵みによって生かされていることを神様に感謝する

こと。そして、

神様に対する感謝とへりくだりの心をもって、キリストにある一つの体のために自分に今できること・任されていることを真心を込めて行っていく

ことです。けれども、なお私たちは失敗や過ちを犯してしまう弱く不完全な存在です。でもだからこそ、心を新たにして神様に自分を造り変えてもらう必要があるのです。

神様・聖霊の助けなしに神様の望まれる生き方をすることはできません。

現在は新型コロナの感染を懸念して、人との物理的交流が非常に限定された状況にあります。

そのような社会生活を可能にしているのが昨今のテクノロジーの発展です。

このテクノロジーというものは確かに便利な面もありますが、人間関係に関していうとかなり危険な側面を伴っていると思います。

実際、人間関係で何かちょっとでも問題があれば、SNSのグループから外れたり、着信拒否をすることでその問題から逃れることができてしまいます。

問題解決のために苦労や忍耐をする必要がなく、クリック・タップ一つで人間関係を始めたり、終わらせたりすることができる訳です。となると、

その人間関係の多くは自ずと表面的なもの、二次元的なもの

になってきます。

このような二次元的な人間関係がある意味、当たり前(ノーマル)となりつつ世の中にあって、聖書は人間同士の関係の在り方をキリストにある一つの体にたとえています

体の中の各部位の結びつきは表面的な結びつきではありません。神経や血管といった非常に細かい部分で三次元的に密接かつ複雑に結びついています

そして、そのような結びつきこそが、神様が私たちクリスチャンに望まれる人間関係の在り方だと聖書は語っているのです。

しかしもちろん、そのような人間関係を構築しようとするときには必ず問題や衝突が生じます。でも、

問題や衝突のない関係がより良い関係とは限りません。

むしろ、

お互いが腹を割って本音を分かち合うことで問題や衝突が起きたとしても、その上でお互いを受け入れ、思いやり、赦し合う。そうすることでより濃密な三次元的関係が築かれていく

ものではないでしょうか。

このような関係構築のカギはやはり神様の恵みに根差したへりくだりの心だと思います。

あなたはもう既に神様に愛されています。
受け入れられています。
赦されています。
生かされています。

その真理をより深く実感することができますように。

参考文献および注釈

  • Cranfield, C. E. B. A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to the Romans, Volume 2. International Critical Commentary. T&T Clark Ltd, 2004.
  • Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
  • ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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