「聖霊と共に互いに重荷を担う」:2020年10月11日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。

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導入

しばらく教会に通っていると

イエス様を救い主として信じるなら、あなたの罪は全て赦されている

という言葉をよく耳にすると思います。ここで

イエス様を信じることで罪が全て赦されるということは、自分の好き勝手に生きたとしても大丈夫ってことだな

と思われる方が少なからずいらっしゃるのではないかと思います。

約2000年前のガラテヤ(現在のトルコ領)に住んでいたクリスチャンたちも例外ではありませんでした。彼らの中には「イエス様を信じれば全ての罪が赦される」ということを盾に自分の好き勝手に生きていた人が少なからずいたようです。

そんな人たちに向けてパウロは

肉の欲望を満たすのではなく霊によって歩む

ように勧めています(ガラテヤの信徒への手紙5章16節;比較:ガラテヤの信徒への手紙5章19-23節)。今日の聖書個所は

「霊によって歩む」また「霊によって生きる・進む」(ガラテヤの信徒への手紙5章25節)とはどういうことか

を具体的に教えてくれる内容となっています。

柔和な心で正す

ガラテヤの信徒への手紙6章1節でパウロは

過ちに陥った人を柔和な心で正す

ように勧めています。ここでパウロの語る「過ち」というのは、文脈を考えると「肉の欲望を満たすこと」つまりは5章19-21節にあるような「肉の行い」をすることだと言えます。

そのような人たちを見つけたら柔和な心で正しなさいとパウロは勧めている訳です。

とは言われても、やはり罪を犯している人を柔和な心をもって正すというのは簡単なことではありません。

私たちは知らず知らずのうちにその相手を軽視した態度を取ってしまいがちな存在です。

そんな私たちの心を見透かしたように6章1節の最後でパウロは私たちも

誘惑に陥らないように気を付けなさい

と言っています。

私たちの弱点(罪を犯しやすい分野・領域)は皆それぞれに異なります。

ある人はお金、ある人は異性、またある人は名誉や権威に弱いかもしれません。しかし、

どれもが神様の前には等しく「罪」

となります。

お金に弱い人が異性に弱い人を見下すことはできませんし、その逆もまたしかり

です。

私たちに誇れることがあるとすれば、それは神様の恵みによってイエス様を信じる信仰の故に私たちの罪が赦されていることだけです(参考:ガラテヤの信徒への手紙6章3-4節;比較:エフェソの信徒への手紙2章8-9節)。

罪を犯している人を正そうとする前に、まずは自分自身の罪深さ(誘惑に対する弱さ)を思い出す。

そして、

そんな弱い自分をも赦してくださっている神様の恵みに感謝する

とき、罪を犯している人に対する私たちの態度は自然と柔和なものとなってくると思います。

このとき、忘れてはならないのが聖霊の働き・助けです。

私たちが自分の罪深さや誘惑に対する弱さを認めることができるようになるには聖霊の働きが不可欠です(ヨハネによる福音書16章8節)。

神様の愛や恵みといった聖書の真理を深く味わうことができるようになるのもまた聖霊の働きです(ヨハネによる福音書16章13節)。

そして、このような聖霊の働きを通して、私たちの中に「柔和」な態度が形成されていく訳ですから、全ては聖霊の働き・助けによるものなのです(参照:ガラテヤの信徒への手紙5章23節)。

互いに重荷を担う

聖霊の働き・助けによって、私たちは肉の欲望を満たすことなく誘惑に打ち勝ち、「霊の実」(ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節)を結ぶことができる

ようになります。とはいえ、

聖霊の働き・助けがあるからといって、私たちの中から誘惑に対する葛藤や悩み、恐れや不安などが全てなくなる訳ではありません。

ある意味、私たちは聖霊と共に誘惑に打ち勝つ必要があります。と同時に、

その葛藤や悩み、恐れや不安といった「重荷」を互いに担うべきであり、それによって「キリストの律法」が全うされる

とパウロは語ります(ガラテヤの信徒への手紙6章2節)。

この「キリストの律法」というのは神様と人に対する愛に根差した律法です(参照:ヨハネによる福音書13章34-35節;比較:ガラテヤの信徒への手紙5章14節)。

肉の欲望を満たすのではなく霊によって歩もうとするとき、様々な誘惑に対する葛藤や悩み、苦しみ、恐れ、不安といったものが生じます。

そのような「重荷」を一人で抱え込むのではなく、互いに分かち合い、励まし合い、慰め合い、助け合うようにと聖書は勧めています。

そうすることは、互いに愛し合いなさいと言われたイエス様の戒め(ヨハネによる福音書13章34節)を守ることにもなります。

このときに重要なのはお互いに対する柔和で謙遜な態度です(ガラテヤの信徒への手紙6章1, 3-4節)が、それらもまた聖霊の働き・助けによって与えられます(5章22-23節)。

蒔いたものを刈り取る

今日の聖書個所を読んで少し疑問に思うかもしれない個所はガラテヤの信徒への手紙6章5節だと思います。パウロはそこで、

各自が自分の荷を負うことになる

と言っています。けれども、2節では互いに重荷を担うようにとも勧めている訳です。

5節でパウロが言わんとしていることは7-8節を読むと分かってきます。

7-8節でパウロの語る「刈り取り」というのは神様・イエス様による最後の審判のことです (参考:コリントの信徒への手紙一3章8-15節; 4章5節)。この

最後の審判において、私たちは他の人の重荷を担うことはできません。私たち一人一人が自分自身の荷を負う

ことになります。

自分の肉の欲望を満たすような生き方をした人は滅びを刈り取り、霊の実を結ぶような生き方をした人は永遠の命を刈り取ります(ガラテヤの信徒への手紙6章8節)。

それだからパウロは

絶えず善を行うように人々に勧めている

訳です(ガラテヤの信徒への手紙6章9-10節)。

ここでパウロの語る「善い行い」には今日の個所に出てきた「罪を犯した人を柔和な心で正すこと(1節)」、「互いの重荷を担うこと(2節)」などが含まれます。しかし、もちろん、それらだけに限定される訳ではありません。

また、倦むことなくそれらの「善い行い」に励むためには、聖霊の実が必要になります。裏を返せば、「善い行い」に倦むことなく励むことを通して聖霊の実が結ばれていくとも言えます。

聖霊の働き・助けに依り頼みながら、倦むことなく「善い行い」に励む中で次第に霊の実が結ばれていく

という生き方が「霊によって歩む」生き方だと言えます。

結論

でも、ここで一つの大きな疑問が出てくるのではないでしょうか。

というのも、この箇所だけを読めば、私たちが「善い行い」をするかどうかによって、滅びを刈り取るか、永遠の命を刈り取るかが決まるようにも理解できるからです。

パウロはここで信仰による救いではなく、行いによる救いを教えているのでしょうか?

もちろん、そんなことはありません。

事実、パウロがこのガラテヤの信徒への手紙を書いたのは、行いによる救いを主張し始めていた人々を戒めるためでした(参照:ガラテヤの信徒への手紙2章16節)。

しかし、それとは別に「信仰による救い」即ち「イエス様を信じることによって全ての罪が赦されること」を逆手にとって、自分の好き勝手に生きようとする人もいました。ですから、ここでパウロは、

自分の好き勝手に生きようとしている人たちに対して、神様が望まれる「善い行い」をすることの必要性を説いている

訳です。

つまるところ、最も大事なことは実際に善い行いをするかどうかではなく、

イエス様が自分の罪のために十字架に架かって死んでよみがえられたことを信じ、それまでの自分の生き方を改めて、神様の望まれる生き方をしようとしているかどうか

です。心の底からイエス様を救い主だと信じ信頼し、神様の望まれる生き方をしようと思うとき、

私たちの内に住む聖霊によって、私たちの考え方が変えられます。

行動が変えられていきます。

それまでは絶対に認めたくなかった自分の弱さ・足らなさを認められるようになります。

素直に自分の思い煩いや悩みを他の人に打ち明けられるようになります。

また、

他の人の思い煩いや悩みに対して、自分のことのように親身になって考えられるようにもなります。

聖霊の助けと働きによって私たちは互いに重荷を担うことができるようになる

のです。ここに「霊によって歩む・生きる・進む」姿の一端を垣間見ることができます。

ここで注意して頂きたいのは、

イエス様を信じた後で考え方や行いがどれくらい変わったかというのは、それほど重要ではない

ということ。なぜならば、そもそものところ、私たち人間にはその変化の度合いを正確に測ることができないからです。それよりも大事なことは、

今現在、神様の愛と恵みを感じながら、感謝と喜びをもって、神様の望まれる生き方をしようとしているかどうか

です。繰り返しますが、

善い行いをしているかどうかが最も重要な訳ではありません。

善い行いは確かに大事ですが、それは、あなたがイエス様を信じ信頼し、神様の望まれる生き方をしようとするとき、

聖霊の働きと助けによって「自然に」生み出されてくる「副産物」

に過ぎません。それよりも大事なのは、

神様の無条件の愛と一方的な恵みを知る

ことです。

神様はあなたが善い行いをしたかどうかに関わらず、あなたをありのままで受け入れ、愛し、赦してくださるお方

です。そんな

神様の無条件の愛と一方的な恵みが表されているイエス様の十字架を見上げつつ、聖霊と共に互いに重荷を担うことができますように。

参考文献および注釈

  • Bruce, F. F. The Epistle to the Galatians: A Commentary on the Greek Text. The New International Greek Testament Commentary. Paternoster Pr., 1982.
  • Longenecker, Richard N. Galatians. Word Biblical Commentary. Dallas, Tex.: Word Bks, 1990.
  • McKnight, Scot. Galatians. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1995.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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