「あなたを癒す心の傷」:2018年5月27日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。

  • 日時:2018年5月27日(日)
  • 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「あなたを癒す心の傷」
  • 聖書個所:マタイによる福音書18章21-35節

    21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)35-36頁1

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導入

今回の説教のテーマは「神(天)の国」です。「神(天)の国」という言葉のそもそもの意味は「神(天)の支配」。従って、私たちが神様の絶対的な主権を認め、その支配の下に入る時、私たちは「神の国(支配)」に入ったと言えます。つまり、

イエス様を私たちの人生の主と認め、神様・イエス様の願っておられることを行おう、イエス様に心から従っていこうという決心をした瞬間、私たちは「神の国」に入った

と言えるのです。ですから私たちは別に死ぬのを待たなくても、今この瞬間、この場所において、もう既に「神の国」にいると言うことができます。

神(天)の国のたとえ

この「神の国」において、自分に対して罪を犯した人を赦すことの大切さを教えるため、イエス様はたとえ話を語られます。主な登場人物は3人。王様と王様に1万タラントンの借金をしている家来、そしてその家来に百デナリオンの借金をしている彼の仲間

ここで「一デナリオン」というのは当時の人の日当に相当する金額。「一タラントン」というのは6000デナリオンに相当しますので、一年の中で300日間働いたとすると20年分の賃金。従って、1万タラントンというのは20万年間働いてやっと返すことができる金額。想像できない、否、想像すらしたくないほどの借金です。

この20万年分の賃金に相当する額の借金をしていた家来は、王様の憐みによって「その借金を帳消し」にされます(27節)。しかし、この家来は自分に100デナリオン(3-4カ月分の賃金に相当)の借金をしている仲間を憐れむどころか、「借金を返すまでと牢に入れ」てしまいます(30節)。

癒されない心の傷

ここで皆さんは

この家来のとった行動をどう思われますか?

人それぞれ感じ方は異なるでしょう。しかし、ここでもし、この家来が王様から想像もできないほどの金額の借金を帳消しにされていたことを知らなかったとすれば、どうでしょうか?恐らくは、一定の理解なり同情を示す方は多いのではないかと思います。

この「人それぞれに事情があって、自分も自分のことで精一杯だから、他の人を憐れんでばかりもいられない」という態度・考え方は、この世で暮らす上でほとんどの人々がもっているものだと思います。

例えば、相手にとても傷つけられる言葉をかけられた時、仮に後でその相手が真摯に謝ってきたとしても、なかなか赦せないことがあります。何かにつけてそのことを思い出し、何年経ってもそのことを持ち出しては相手を非難してしまう。自分の中で感情・気持ちの収まりがつかず、自分のことだけで精一杯。相手のことまで思いやる余裕はない…。

誤解しないでいただきたいのは、そのような感情が出て来ること自体は悪いことではなく、むしろ自然なものだということ。信仰がないから心の傷が癒されないという訳ではありません。

悲しいのをこらえて、悲しい感情を押さえつけて、自分の感情を麻痺させながら、悲しい出来事を笑い飛ばすことができるのが信仰ではありません。

イエス様もラザロが死んだ場面では涙を流されています(参考:ヨハネ11:35)。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とパウロは語ります(ローマ12:15)。悲しい出来事はどんなに見方を変えようとしても悲しい出来事に変わりはありません。

想像できない心の傷

ただ、覚えていていただきたいのは、悲しい出来事を共有することができる相手がいると、その悲しさが和らぐことがあるかもしれないということ。また、

自分の悲しさを受け止めてくれる人、理解してくれる人の存在は、その傷を負ったままの姿で、前に一歩進む勇気を与えてくれる

だろうということです。

今日のたとえ話で一番つらく悲しい思いをした人物は、一万タラントンという想像もできないほどの金額の借金を帳消しにした王様です。借金を帳消しにしたこと自体もそうですが、

それほどまでの憐れみを受けた家来が自分の仲間に憐れみをかけることができなかったのを見た時、この王様は恐らくもっとつらく悲しい思いをされた

と思います。

お分かりとは思いますが、このたとえ話に出て来る王様は神様を指します。そして、家来やその仲間というのは私たち人間のことです。さらに、借金の金額というのはある意味、相手を赦すことの難しさを示すもの。つまり、相手にどれだけ傷つけられたかを表していると言えるでしょう。この意味で、

私たち人間は神様を想像もできないほどに傷つけてしまっている

と言えると思います。

実際、私たちが神様のことを知らずに生活していた時、神様がどれほど寂しい思いをされていたか、私たちには想像すらできません

私たちが神様のことを否定し敵対していた時、それでも変わらずに私たちを愛し続けてくださった神様がどれほど心を痛めておられたか、私たちには想像すらできません

私たちが神様のことを知ってイエス様を信じ、それまで絶縁状態にあった絆が回復した後でさえ、私たちの日々の言動をみて神様がどれほど悲しんでおられるか、私たちには想像すらできません

結論

私たちが神様をどれほど傷つけているのか、神様にとって私たちを赦すことがどれほど難しいことなのか、私たちには想像すらできていない。

にもかかわらず、

私たちが悔い改めて神様のもとに立ち返ろうとするとき、神様はいつでも私たちを赦し、諸手を挙げて私たちを迎え入れ、その懐にしっかりと抱き寄せてくださるお方

なのです(比較:ルカ15:11-32)。

たとえ私たちを赦し迎え入れることと引き換えに、御自分の独り子イエス様の命が必要だったとしても

です。

もし今、誰かの言動によって深く傷つき、もう立ち直ることができないと思っていらっしゃる方がいるならば、神様を見上げてください。神様ほどあなたのその心の痛みを知っているお方は他にいないからです。

またもし今、過去に起きた辛く悲しい出来事によって、恨みと憎しみに満ちた毎日を過ごしている方がいらっしゃるならば、神様を見上げてください。神様ほどあなたのその辛さや悲しさに共感できるお方は他にいないからです。

神様は、御自分が受けた傷によって、あなたを癒してくださるお方

です(参照:イザヤ53:5)。

神様はいつもあなたと共にいてくださり、あなたと共に喜び、あなたと共に泣いてくださるお方。御自分の受けた傷によって、あなたを癒してくださるお方です。

その神様があなたに願っていらっしゃることがあります。それはいつまでも過去の出来事に縛られているのではなく、愛と憐れみに満ちた未来に向けて、神様と共に一歩を踏み出すこと。あなたがその大きな一歩を踏み出すとき、この地において、神の国がさらに広がっていくでしょう。

参考文献および注釈

  • France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
  • Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids, Mich.; Cambridge: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009.
  • Morris, Leon. The Gospel According to Matthew. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich. : Leicester, England: Eerdmans, 1992.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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