礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2023年1月8日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「主を信頼して待ち望む」
- 聖書個所:イザヤ書55章6-13節1
導入
新しい一年が始まりましたが、皆さんにとってこの一年はどのような年になりそうでしょうか。
世の中的には新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が始まって丸三年が経ちました。
「コロナとの共生(Withコロナ)」を真剣に考える時期に来ているように感じますが、「コロナとの共生」なるものが具体的にどのような状態・生活なのかはまだ誰にも分かりません。
誰もが手探りで、新しい状態・生活を見つけていく必要があります。
そのように
今日はイザヤ書の御言葉を通して、
を再確認していきましょう。
主に立ち帰る
イザヤ書に記されている預言がなされた時代、
となってしまっていました。その根本原因は、
からです(参考:列王記下17章5-8節)。
訳です。
ということは、他民族の支配から救い出してもらうためには
必要があることになります。それだから、イザヤ書55章6-7節でイザヤは、ただ現状から救い出してもらうように神様に尋ね求めるだけでなく、
と勧めている訳です。
必要があります。そのためには、私たちの思いや考えを第一にする道(生き方)ではなく
必要があります。このときに自分の歩んでいる方向を変えること、生き方や考え方そのものを改めることを聖書では悔い改めと呼びます。そして、
主を信頼する
でも
その理由の一つは、
だからです(イザヤ書55章8-9節)。
さらに、その
と聖書は語ります(イザヤ書55章10-11節)。
私たちが自分の思いや道を捨て、神様に立ち帰る必要があるのは、
だからです。
主の救いを待ち望む
神様の言葉(預言)が必ず実現するというのは神様の言葉全てに当てはまる真理です。
けれども、この個所では特に人間の魂の救いに関する神様の言葉に焦点があてられています(参考:イザヤ書55章2-3, 7節)。
実際、イザヤ書55章12-13節には、
の状態が描かれています(比較:イザヤ書35章1-10節; 41章17-20節)。
と神様の言葉である聖書は約束します。
そして、その神様の言葉(預言)は私たち人間の想像もつかない方法でいつか必ず実現します。
だからこそ、
と神様は私たちにおっしゃるのです。
結論
イスラエル人は神様に従わず、神様に対して罪を犯し、神様との関係が壊れ、罪の支配下に入ってしまいました。
その結果、彼らは神様から与えられていた土地から追い出され、他民族の支配下に置かれるようになってしまいました。
けれども、神様はそんな彼らを見捨てることなく、預言者イザヤを通して、彼らに
と勧めます。
そして、その勧めに応じて彼らが
と約束してくださっています。
しかも、その
とも聖書は記します。
事実、その
その当時の人は誰一人としてメシア(救い主)が十字架刑に処されるとは思っていませんでした(比較:マタイによる福音書16章21-22節;イザヤ書53章4-8節)。
しかも、死んだメシアがよみがえるなどとは想像さえしていませんでした(参考:ルカによる福音書24章19-24節)。
けれども、
のです。
現在のようになかなか先が見通せず、何が起こるか分からない不安と恐れの中にあって「絶対確実」と言えることは、
ということです。特に
そして、その
と聖書は語ります(参考:マタイによる福音書25章31-46節;コリントの信徒への手紙一15章20-26節;ヨハネの黙示録22章12-15節)。
そのときには先のイザヤ書55章12-13節に描かれていたような世界、荒れ果てた大地に緑が生い茂り、全地が喜びと平和で満たされる世界が実現します(比較:ヨハネの黙示録22:1-5)。
しかしながら、イエス様が再びこの世に来られ完全なる救いが実現するまで、
と言われてしまうと、今のこの世には希望も何もないように思えてきます。
でも、もちろん、
ことはあり得ます。
例えば、今のその悩み苦しみの主原因があなた自身の過ち・間違いによるものであるならば、
ことによって、その悩み苦しみは解決・改善に向かっていくはずです。
そして、
しかし時には、
ことがあります。
からです(参考:ヨハネによる福音書15章18-21節)。
このような苦しみはあなた一人の力だけではどうにもならない類のものです。
あなた自身は何も悪いことをしていないにも関わらず、あなたの信仰・生き方によって苦しみや悲しみ、痛みを感じることがあるならば、是非、
イエス様ご自身が十字架の上でいわれのない苦しみや悲しみ、痛みを経験されました。
それは
でもありました(ヘブライ人への手紙2章18節;ペトロの手紙一2章20-21節)。
この世においては神様の望む「善」を行ったとしても苦しみを受けることがあります。
と思うこともあるでしょう。でも、たとえどれほど理不尽で不当な苦しみを受けることがあったとしても、
神の御子イエス様もまた理不尽で不当な苦しみを経験されました。
です。そして、
先の見通せない不安に満ちた今の世にあって、たとえどれほどの苦難・困難に直面することがあったとしても、
参考文献および注釈
- Oswalt, John N. Isaiah. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2003.
- Paul, Shalom. Isaiah 40-66: A Commentary. The Eerdmans Critical Commentary. Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2012.
- Smith, Gary V. Isaiah 40-66. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 2009.