礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2023年2月12日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「へりくだり仕える者」
- 聖書個所:マタイによる福音書23章1-12節1
導入
皆さんは自分よりたくさんの聖書知識のある人、また多くの人をイエス様に導いている人のことを「偉いクリスチャン」と思うことはないでしょうか。
また反対に、自分が誰かにキリスト教のことを教えて、その人に感心・感謝されたとき、自分が少し偉くなったような気がしたことはないでしょうか。
これはある意味でとても自然な気持ちの動きと言えるかもしれません。
でもそのように、自分もしくは他のクリスチャンのことを「偉いクリスチャン」と思ってしまいがちな私たちに対して、今日の聖書個所は警鐘を鳴らしています。
今日は特に、
について学びたいと思います。
良く見せようとする者
マタイによる福音書23章2節に出て来る「律法学者」というのは、法律に詳しい弁護士のような人ではなく、当時のユダヤ人たちの聖書である旧約聖書に精通した人たちのことを指しています。
「ファリサイ派」というのは、聖書の教えを非常に忠実かつ厳密に守ろうとしていたユダヤ教の一派で、聖職者(祭司)ではない一般人の集まりでした。
どちらも当時のユダヤ人社会である程度の影響力をもった指導者層の人たちです。
彼らはモーセの権威に基づいて人々を教えるだけでその教えた通りに行わないから、その行いを見習ってはいけないとイエス様はおっしゃいます(3-4節)。
さらにイエス様は、律法学者やファリサイ派の人々は自らの教えに生きることなく、自分のことを人に良く見せるために生きていると指摘します(5-7節)。
イエス様は8-10節でそんな
と群衆や弟子たちにおっしゃいます。
当時は年長者や身分の上の人を、敬意を込めて「父」と呼ぶことがあったようです(参考:サムエル記上24章11節;列王記下2章12節; 5章13節; 6章21節)。
でも血の繋がりのある本当の父親を除き、
だとイエス様はおっしゃっています。
また、「先生」および「教師」というのは人々を教え導く人に対する敬意を示す呼び名です。
しかし、そのように
だとイエス様はおっしゃいます。
へりくだり仕える者
続けてイエス様はマタイによる福音書23章11-12節で、
と勧めておられます。その理由は12節にあるように、
です。このことから、
だと言えます。ここで忘れてはならないのは、
だということです。
イエス様はご自身でもおっしゃっているように、確かに「先生」「教師」と呼ばれるに値する唯一のお方でした。
天地万物をお造りになった神ご自身であり、王の中の王、主の中の主であられるお方。
人々に仕えられて当然なお方でした。
けれども、
そして遂には
のです(参照:フィリピの信徒への手紙2章6-9節)。
結論
イエス様の時代の律法学者やファリサイ派の人たちはモーセの権威に基づいて人々に聖書のことを教えていました。
しかし彼らは自らの教え通りに生きることなく、むしろ人々から偉いと認められたり、注目を浴びたり、敬意をもって「先生」と呼ばれたりすることを好んでいました。
けれども、イエス様は
だとおっしゃいます。
さらにイエス様は、
と教えます。そして
そのことをイエス様は自らの命をもって私たちに示してくださっています。
今日の聖書個所は、当時のユダヤ教社会で指導的立場にあった律法学者やファリサイ派の人たちを引き合いに出して、彼らのようにならないようにというメッセージとなっています。
そのため、この個所は主に今日の教会において指導的立場にある人たち(牧師や宣教師)に向けられた言葉だと思われるかもしれません。
しかしながら、今日のメッセージは
だとも言えます。
というのは、人々からの称賛や誉れを受けるに値する存在は神様・イエス様だけで、他は皆、兄弟姉妹というのは、指導者だけでなく教会全体で共有しておくべき教え・考えだからです。
とりわけ、ここ最近TMCの説教テーマとなっている「弟子訓練」を考える際に重要になってきます。
「弟子訓練」には、ある人が「先生」となって「弟子」を育成するという仕組みが組み込まれているからです。
ここで、
を皆が共通の認識としてもっておく必要があります。
また、
です。私たち
ことが期待されています。
その意味で、イエス様のようにへりくだって皆に仕えることは指導的立場にある人だけではく、クリスチャン皆に求められている生き方です。
もう一つ、今日の聖書個所のメッセージが指導的立場にある人だけでなく全ての人に向けられたメッセージでもあると言えるのは、イエス様の時代の律法学者やファリサイ派の人たちに限らず、
ものだからです。
そのために本当の自分を偽って、自分をより良く見せようとするというのは程度の差こそあれ、誰もがすることではないかと思います。
毎週欠かさず日曜日の礼拝に来る。
聖書を読む。
お祈りをする。
献金をする。
奉仕をする。
それらはもちろん全て大事なことです。
でも、それらを周りから「良いクリスチャン」「偉いクリスチャン」と認めてもらいたいからやっているとすれば、神様は決して喜んでおられません。
です。
私たちが礼拝したり、聖書を読んだり、祈ったり、献金したり、奉仕したりするのは、
です。また
です。実際、私たちは
です。
今のあなたがあるのは、あなた一人の力ではないはずです。
家族を始め、多くの人との出会いや環境的な備え・導きがあったはずです。
そもそものところ、あなたに命を与え、能力・賜物を与え、この世で生きることを可能にしてくださったのは神様です。
そしてあなたがこの世で生き続けることを可能にしてくださっているのも神様です。
神様の助けなしには、誰も何もすることはできません。
だからこそ、私たち人間の称賛や誉れを受けるに値する存在は神様・イエス様、ただお一人なのです。
ことが求められています。
とは言われても、それでもやはり「頑張っている自分を見てほしい。褒めてほしい。注目してほしい」と思うことがあるかもしれません。
そんなときは是非、
そこには神様・イエス様の無条件の愛が示されています。
神様はあなたの表面的な行いだけでなく、その心も絶えずご覧になっています。
神様の注意関心があなたから逸れることは決してありません。
その上で、
のです。この
参考文献および注釈
- France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
- Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids, Mich.; Cambridge: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009.
- Reeves, Rodney. Matthew. The Story of God Bible Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Academic, 2017.