「苦しむ恵み」:2018年3月18日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。

  • 日時:2018年3月18日(日)
  • 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「苦しむ恵み」
  • 聖書個所:ペトロの手紙一 2章18-25節

    18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
    22「この方は、罪を犯したことがなく、
    その口には偽りがなかった。」
    23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)431頁1

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導入

十字架刑は2000年前のローマ帝国において、「最も残酷かつ屈辱的な処罰」と言われていました。それほどまでに残酷かつ屈辱的な処罰を無実の罪でお受けになったイエス様。それは私たちの人間の罪のため、私たち人類を罪のもたす滅び(神の怒り)から救うためだと聖書は語ります(参考:ヨハネによる福音書3章16節; エフェソの信徒への手紙2章1-6節)。
でも、なぜ創造主なる神様は御自分のたった独りの愛する御子を十字架刑ではなく、もっとラクな方法で死なせることをお選びにならなかったのでしょうか。その理由としては幾つか考えられます。一つには人間のもつ残虐性が明らかにされるため。二つ目にはイザヤ書53章に描かれる「苦難のしもべ」として、人間の苦しみを自らが担って救う神の姿が示されるため。今日はこれらに加えて、イエス様が十字架刑で死ななければならなかったもう一つ別の理由をみていこうと思います。その別の理由とは、私たちが倣うべき模範を示すためです。

不当な苦しみは神の恵み

今日の聖書個所はイエス様の十二弟子の一人ペトロが書いた手紙の一部。その中でも今日の箇所は「召使いたち」(新改訳では『しもべたち』)に向けられています(18節)。しかし、その中には召し使いやしもべに対してだけでなく誰に対しても当てはまるメッセージも含まれています。特に19節の文章の主語はギリシャ語では「ある人」という不特定の人物を指す言葉が使われていて、その内容は全ての人に対するもの。つまり、「不当な苦しみ・苦痛を耐えることは御心に適う」というのは全ての人へのメッセージと言えます。
この箇所で注目したいのは19節と20節で「御心に適うこと」と訳されている言葉。新改訳2017では「神に喜ばれること」と訳され、脚注に「直訳『恵みなのです』」とあります。実際、このギリシャ語の言葉はペトロの手紙一の他の箇所では全て「恵み」と訳されています (1:2, 10, 13; 3:7; 4:10; 5:5, 12)。従って、もしこの「御心に適うこと」を「恵み」と訳すならば、19-20節は次のようになります。「19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは恵みなのです。 20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の恵みです。」

行いで伝える神の恵み

「不当な苦しみや苦痛を耐えるのが神の恵みなんて、ちょっと変なんじゃないか!?」と思われるかもしれません。しかし、不当な苦しみを耐え忍ぶことそのものではなく、耐え忍んだことで何が起きるかを考えてみると少し見方が変わるかもしれません。ペトロの手紙一(特に2:11-4:11)でペトロは「~しなさい」という幾つかの勧めをしています。その勧めの目的は、異教徒の人たちがクリスチャンの立派な行いを見て、彼らもまた神を信じあがめるようになること(参考:2:12)。今日の箇所でいえば、たとえ無慈悲で不当な扱いをする異教徒の主人であっても、召し使いが耐え忍ぶ姿を見て不思議に思い、神に導かれ神を礼拝するようになるかもしれない。だから、周りの人たちを救いに導くことにつながるという意味で、もう既に救いの恵みに預かっている人々が不当な扱いを耐え忍ぶことは神の恵みと言えるのかもしれません。
人を救いに導くためには福音を語らなければならない(伝道)と言われます。もちろん、福音を語ることは非常に大事なこと。機会があればいつでも語れる準備をしておく必要があります。しかし、福音を語ることだけが人を救いに導く手段ではないことをペトロの手紙一は教えてくれます(比較:マタイ5:16)。言葉だけではなく行動でもって、神の愛と恵みと憐れみを伝えることができるのです。

イエスが伝える神の恵み

実際、イエス様御自身が言葉ではなく行動でもって、ある人に神の子の生き様を示したことが聖書に記されています。そのある人とは、イエス様が十字架刑で死んでいく一部始終を最も間近で目の当たりにしたであろうローマの百人隊長。彼はイエス様の死に様を見て、最後にこう言いました。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)。
この時、イエス様は彼に自分が神の子だと告げた訳ではありません。神様や神の国のことを教えた訳でもありません。イエス様がなさったこと、それはただ不当な苦しみを耐え忍び、敵対する人々を愛し、自分を侮辱する者のために祈られたことだけ(比較:ルカ6:27-36)。そのイエス様の行いを見て、異邦人であるローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。イエス様が耐え忍ばれた不当な苦しみを通して、この百人隊長だけでなく全ての人に救いの道が開かれたことを覚える時、神の御心に適った苦しみは恵み以外の何物でもないと言えるのではないでしょうか。

結論

イエス様が十字架で死んで復活することによって、それまで苦しみと辱めの象徴でしかなかった十字架が神の愛と恵みの象徴へと変わりました。そして今、イエス様を信じ従おうとする人にイエス様はおっしゃいます。「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と。その道のりは決して楽なものではありません。時として、不当な苦しみや辱めを経験することもあるでしょう。しかし、神の御心に適った苦しみは神の恵みでもあります。私たちの受ける苦しみを通して、神様の救いの御業が成されていくからです。また、私たちはその苦しみや辱めを独りで乗り越える必要はありません。イエス様御自身がその道を示して下さり、私たちと共に歩んでくださるからです。その苦しみが深ければ深いほど、イエス様が共にいてくださる愛と恵みの大きさをより深く感じることでしょう
この世の中は理不尽・不合理なこと、不正や不当に満ちています。何も悪いことをしてないのに嫌がらせを受けたり、やってもいないことで汚名を着せられたり、自分が良かれと思ってやったことで偽善者扱いされたりもします。そんな時、「なんで自分ばかりこんな目に遭うんだろう。不公平だ!神様の正義は一体どこにあるんだ!」と思いたくなります。そして、ついつい相手に仕返しや復讐をしたくなるかもしれません。しかし、復讐は最終的に全てを正しく裁かれる神様がなさること。神様は私たちに復讐よりも耐え忍ぶことを願っていらっしゃいます。とは言え、耐え忍びながら何でも言うことを聞いて、自分自身も不正に満ちた体制を支えることになってしまってはいけません。「ノー」というべき時には「ノー」と言う勇気と覚悟も必要です。でも、「ノー」と言ったが故に新たな苦しみや苦痛を受けてしまうかもしれません。そんなときには今一度、イエス様の十字架を見上げてください。イエス様はおっしゃっています。「私にはあなたのその苦しみが分かるよ。大丈夫。私があなたと共にいるから。私と一緒に乗り越えていこう」と。

参考文献および注釈

  • McKnight, Scot. 1 Peter. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996.
  • Schreiner, Thomas R. 1, 2 Peter, Jude. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Broadman and Holman, 2003.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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