「必要かつ十分」:2018年12月30日(日)年末感謝礼拝での証し

MACF(Mission Aid Christian Fellowship)における2018年最後の感謝礼拝にて、この一年を振り返っての証しをさせていただきました(礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。)

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私にとって、この2018年という年はこれまでと異なる大きな変化が二つありました。

一つ目は4月には関根先生から按手を受け、「牧師」としての生活が始まったという変化

二つ目は、個人的な話ですが、昨年2017年12月末に初めての子供が誕生しましたので、「父親」としての生活が始まったという変化

どちらも生まれて初めての経験で、戸惑う所は多く、未だに手探り状態で学びながらの毎日です。

そんな中でも、やはり父親となったということで考えることが増えてきた、というよりは、考える内容に変化が生じてきました。一番の変化は経済状況についてだと思います。というのも、子供が生まれると経済的な出費は間違いなく増えるからです。

例えば光熱費について、私は独身のときは家の中でも冷暖房はほとんど使っていませんでしたが、今では子供のいる部屋にはほぼ間違いなく冷暖房がついていますので、出費がかなり増えています。

対して、牧師という職業は決して経済的に恵まれた職業とは言い難いのが現状です。しかし、確かに神様は私たちの経済的な必要をも満たしてくださっています

このような私の一年を振り返ったとき、思い浮かんできたのが以下の聖書個所。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。【マタイによる福音書6章33節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)11頁

ここに出てくる「神の国」の王は神様ですから、「神の国と神の義を求める」というのは、「神様を王として、神様が正しいとする生き方をすること」、またはもっと簡単に「神様が望まれるように生きる」ことと言えます。

つまり、

神様が私たちに望まれるように生きようとするとき、私たちに必要なものが全て与えられる

という訳です。

が、しかし、です。

実際の生活は誰もがご存知のようにそんなに簡単ではありません。神様の望まれるように生きることは本当に難しい…「でも、そんな中にあっても私は神様に忠実に生きたから、必要が全て満たされていますよ。皆さんも頑張ってください!」と今、ここで言いたい訳ではありません。

むしろ私は、

神様が望まれる完全な生き方ができたと胸を張って言うことはできません。

にもかかわらず、神様は私の必要を満たしてくださっていると感じることができるのです。それはなぜかというと、

神様が私たちに望まれている生き方の中には、私たちが神様の望まれるようには完全には生きられないことを認めることが含まれているから。

別の言い方をすれば、

神様は私たちに自分の不完全さ・足らなさを認め、神様の御前にへりくだり、神様の憐れみにすがりつつ生きることを望んでいらっしゃる

のです(参考:マタイによる福音書5章3節)。

これはとても重要なことです。なぜなら、私たちが罪のない完璧な生活を送ることができないからこそ、イエス様が私たちの罪の代価を背負って十字架に架かってくださったからです。

ここで重要なのは視点を変えることだと思います。

自分の力や知恵に頼って生きるとき、私たちの思いや注意はどうしても自分中心になってしまいます。また、自分の思いが強くなると「あれをしたい」「これをしたい」と考えますので、自分が持っていないものにばかり注意が向けられるようになります。

そんなとき、自分の力や知恵ではどうしようもできないことがあることを認めて神様の憐れみにすがるとすれば、自分中心だった考え方が神様の方向に向けられます。自分が持っていないものばかりに行きがちだった視点が、自分が今持っているもの、神様が既に与えてくださっているものに向けられ始めます。神様の憐れみによって生かされているんだと実感できるとき、私たちに必要なものが実は既に与えられていることに気付かされるようになります。

自分が今持っているもの、今置かれている状況が実は私にとって必要かつ十分だと思えるようになると、思い悩むことが一気に減ってきました(比較:マタイによる福音書6章34節)。

また、物事の悪い面ばかりでなく良い面にも目が向くようになってきました。それに応じて、神様に対して素直に感謝することができるようになり、より一層信頼できるようにもなりました。

この一年は私にとって、そのような気付きを与えてくれた一年だと言えます。全ての栄光が神様にありますように。

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