「祈りの家」:2018年2月25日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。

  • 日時:2018年2月25日(日)
  • 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「祈りの家」
  • 聖書個所:マルコによる福音書11章12-25節

    12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
    15それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 16また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 17そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
    『わたしの家は、すべての国の人の
    祈りの家と呼ばれるべきである。』
    ところが、あなたたちは
    それを強盗の巣にしてしまった。」
    18祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 19夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
    20翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。21そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」 22そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 23はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 24だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 25また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)84-85頁1

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導入

今日の箇所には一見すると関係がなさそうな二つの話が出てきます。一つ目は、イエス様が実のなっていないいちじくを呪われるとそのいちじくが枯れてしまった話(12-14、20-25節)。二つ目は、イエス様が神殿の境内で売り買いしている人を追い出したり、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返される話(15-19節)。今日は、この二つの話に共通するキーワードに注目して話を進めたいと思います。そのキーワードとは「祈り」です(参照:17節と24-25節)。

神殿の本来の在り方

17節でイエス様は、エルサレムの神殿は「祈りの家」と呼ばれるべきだと聖書に書いてあると言っています。この「祈りの家」という言葉が聖書に出てくるのはイザヤ書56章7節。

わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。【イザヤ書56章7節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)1154頁

イザヤ書56章3節以降の内容を踏まえると、ここで神様は、神様に心から従おうとするならば、ユダヤ人だけでなく異邦人や宦官もまた神様の祈りの家である神殿で喜び祝い、神様の家である神殿は「すべての民の祈りの家」と呼ばれるようになると言っていることが分かります。
しかしイエス様は、神殿が「すべての民の祈りの家」どころか「強盗の巣」となってしまっているとおっしゃいます。この「強盗の巣」または「強盗の巣窟」という表現はエレミヤ書7章11節に出てきます。

わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。【エレミヤ書7章11節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)1188頁

前後の文章(特に7章9-10節)を読むと、エレミヤの時代(紀元前600年頃)のイスラエルの民は神殿を自分たちのどんな悪事も赦してくれる神様が住んでいる所、絶好の「隠れ家」のような場所とみなしていたことが分かります。だから神様は7章11節で、「悪者たちの隠れ家」のようになっている神殿が「強盗の巣窟」に見えると言っている訳です。
このエレミヤの時代と同じく、イエス様の時代の神殿もまた「悪者たちの隠れ家」、つまりは「強盗の巣」になっているとイエス様はマルコ11章17節でおっしゃっています。実際、当時の宗教指導者たちは律法主義に陥っていました。ですから、彼らにとって神殿は、律法通りに「正しく」捧げ物を捧げさえすれば、神様からどんな悪事も赦してもらえる「隠れ家」となっていたといえます。指導者たちを含め神殿に集まる人々は皆、神様への捧げ物よりもはるかに重要なものがあることを忘れていました。それは、人が神様のもとに立ち返ること、悔い改めの心をもつこと(比較:エレミヤ7:3-7)。神殿というのは、心ここにあらずで形式的に捧げ物を捧げさえすれば、神様からどんな悪事も赦してもらえる「強盗の巣」「悪者たちの隠れ家」ではありません。むしろ、悔い改めの心をもって神様の御前にヘリ降り、心から神様に従おうとする気持ちで祈りを捧げる人々が集う「祈りの家」なのです。

聖霊の宿る「神殿」としての生き方

しかし、こうした神殿の本来の在り方が現代の日本に生きる私たちと何の関係があるのでしょうか?聖書は次のように語ります。

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。【コリントの信徒への手紙一3章16節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)302頁

ここでパウロはコリントの教会の人々全体が一つの神の神殿で、神の霊なる聖霊が共同体の内に住んでいると言っています。さらに

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。【コリントの信徒への手紙一6章19-20節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)306頁

つまり、キリストを信じ従う者一人一人の体は神殿であって、聖霊がその内に宿ってくださる。と同時に、キリスト者が集まる共同体全体もまた神の神殿であって、聖霊がその内に住まわれることが分かります。
ここで忘れてはならないのは、コリントの信徒への手紙一6章20節にあるように、私たちキリストを信じる者は「代価を払って買い取られた」ということ。私たちの内に神の霊なる聖霊が宿ってくださるためには、それ相応の代価が必要だったのです。その代価というのは神の独り子なるイエス様の命。この世の誰一人として、神様の聖なる霊が宿るにはふさわしくありません。程度の差はあれ、皆が等しく神様に逆らい、神様を無視し、自分の思うままに生きています。この世の誰一人として、聖なる神様と共に生きる資格や権利は持っていないのです。にもかかわらず、神様はそんな状況を良しとされなかったのです。神様は、たとえどんな犠牲を払ってでも私たち人間と共にいたいと思うほどに、私たちを愛してくださっているのです。たとえそのために、ご自分の愛する独り子の命が犠牲にならざるを得ないとしてもです。

結論

神の独り子の尊い犠牲の故に、私たち一人一人また教会全体が、神の霊なる聖霊が宿る「神殿」となりました。また、神の独り子の尊い犠牲の故に、私たち一人一人が神様の子とされ、神様を「天におられる私たちの父よ」と仰いで親しく祈ることができるようになりました。私たち(と教会)もまた神様の「祈りの家」となったのです。そこに民族や身分の隔たりはありません。必要なのはイエス様を信じる信仰、ただそれだけです(参考:イザヤ書56章1-8節;マルコ11章22-24節)。
神の霊が内に住む神の神殿または祈りの家として、神様は私たち一人一人に悔い改めるべきときは悔い改め、御前にヘリ降り、神様を信頼して祈ってほしいと願っていらっしゃいます。また、神様はあなたに(あなた自身も含めた)人を赦す勇気と力をもってほしいとも願っていらっしゃいます(参考:マルコ11章25節)。もしかしたら、過去に犯した過ちや失敗のために、自分を責め続けている方がいらっしゃるかもしれません。「自分は生きている資格も値打ちもない。もう死んだ方がましだ。神様もこんな自分はお見捨てになったに違いない」と思っていらっしゃるかもしれません。忘れないでください。神様は決してあなたを見捨てることはありません。見捨てるどころか、神様はあなたに悩みを余すことなく打ち明けてほしいと願っていらっしゃいます。一人で悩む必要はありません。天におられる父なる神様がいつもあなたと共におられ、あなたの悩みを聞いてくださるからです。

参考文献および注釈

  • Edwards, James R. The Gospel according to Mark. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002.
  • Garland, David E. Mark. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Pub. House, 1996.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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