キリスト教(プロテスタント)において、「聖礼典」または「礼典」と呼ばれる儀式は以下の二つです。
- 洗礼(せんれい)式
- 聖餐(せいさん)式1
最初の洗礼式については、クリスチャンでなくてもどこかで聞いた事がある方がいらっしゃるかもしれません。前回の記事で少し詳しく紹介しましたので、興味のある方は下記の記事をご覧ください。
洗礼式については聞いた事があっても、その次の「聖餐式」については馴染みがない方が多いのではないかと思います。
が、実はこの「聖餐式」、洗礼式よりも教会で行われる頻度が圧倒的に高いのです(洗礼式は多くても年に2-3回なのに対して、聖餐式は毎週もしくは毎月一回というところがほとんどだと思います)。
このため、何度か教会に足を運んでいると一度は必ずこの聖餐式なるものに遭遇するはず。という訳で、今回は「キリスト教(プロテスタント)の聖餐式の意味と目的」について紹介します。
今回の話の流れ(目次)は以下の通り。
聖餐式の由来
Serving of elements individually, to be taken in unison, is common among Baptists. By Alanscottwalker - Own work, CC BY-SA 3.0, Link
プロテスタントの聖餐式では、上記の写真のようにぶどうジュースの入った小さなカップ(左)と小さなクラッカー状のパン(右)を食することが多いです。
教派によってはぶどうジュースの代わりに本物のぶどう酒(ワイン)を飲むところもあります。
カップはプラスチック製のものもあれば、ガラス製や紙製のものもあります。
パンについても形や味は様々で、日本では市販の食パンをサイコロ状に切ったものを食べるところもあります。
いずれにしても、欠かせないのはパンと(赤い)飲み物の二つ。
でも、
それはイエス・キリストが弟子たちと共にとった最後の晩餐の席上の出来事に由来しています。
最後の晩餐というのは、イエスが十字架に架けられる前夜、弟子たちと取った文字通り「最後の」食事です。その席上において、
イエスが最後の晩餐の席上で弟子たちに与えたパンと(恐らくはぶどう酒の入った)杯、この二つが聖餐式で食するパンと(赤い)飲み物と深い関係があるのです。
では、その「深い関係」とは一体何なのかについて、次節でみていきます。
聖餐式の意味
イエスが最後の晩餐の席上で弟子たちにパンと(恐らくはぶどう酒の入った)杯を与えた様子は聖書に以下のように記されています。
(イエスは)それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」【ルカの福音書22章19-20節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉165-166頁2
ここに「わたしを覚えて、これを行いなさい」とイエスが弟子たちに命じている言葉があります(比較:コリント人への手紙第一11章24-25節)。
ですから、キリスト教ではこの
訳です。3
それにしても、それ以外のイエスの言葉は良く言えば意味深、悪く言えば意味不明な言葉だと思います。ので、以下でその意味を詳しく説明します。
まず文化的背景について。
最後の晩餐はユダヤ教の過越(すぎこし)という祭りが行われている最中にもたれました。4
過越の祭りはエジプトで奴隷状態にあったイスラエル民族が聖書の神によって助け出されたことを記念するお祭りです(参照:出エジプト記12章1節―13章10節;レビ記23章5-14節;申命記16章1-8節)。
その祭りのハイライトの一つが過越の食事で、 5食卓では食事に出てくる食べ物や飲み物の象徴的な意味を説明するのが慣例でした。6
ある意味、
のが先に挙げたイエスの言葉ということになります。
では、
というと、それは以下になります。7
- 「これ(パン)は、あなたがたのために与えられる、わたしのからだ」という言葉は、人々の罪のきよめのささげ物として、十字架上で死んでいくイエスのからだを象徴的に表す(参照:へブル人への手紙10章5-10節)
- 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」という言葉は、十字架上で流されるイエスの血(死)によって、神と人との間に新しい契約が結ばれたことを象徴的に表す(参照:へブル人への手紙9章11-15節;比較:出エジプト記24章5-8節)
もう少しかみ砕いて言うと、まず
しています。
ただし、キリスト教(聖書)の教えによると、
訳ですので、そのイエスのからだは私たちの「罪のきよめのささげ物」とも言えます(参照:へブル人への手紙10章5-10節)。
また、イスラエル民族はエジプトの奴隷状態から助け出された後、聖書の神と契約を結んでいました(この契約が「旧約」聖書という名称の基となる「旧い」契約です)。
そのときは雄牛の血によって、契約が結ばれました(出エジプト記24章8節)。
しかしながら、この契約の記載内容をイスラエル民族が守らなかった (神に対して不従順であった)ため、神は新しい契約を結び直すことを預言者を通して宣言されました(エレミヤ書31章31-34節;エゼキエル書37章24-28節)。
この
とキリスト教は教えます(「新約」聖書という名称の基となる「新しい」契約です)。1
しているという訳です。
また、十字架上で死んだイエスのからだを象徴している一つのパンをその場に集う人々(クリスチャンたち)が分け合って食べるという行為は、
しているとも理解できます(参考:コリント人への手紙第一10章15-17節)。8
さらに、食事をするという行為は当時のユダヤ文化において、敵対関係にあった者同士が和解したことを意味するものでもありました(例:創世記31章52-54節;サムエル記第二9章7-13節;列王記第一2章7節など)。9
従って、神に対して罪を犯したために神との絆が壊れてしまった(神と敵対関係にある)人間が神と食事をするというのは、神との和解を意味することになります。
実際、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放され、神と契約を結んだ後、民の中の主だった人たちは神と食事をしたと記されています(出エジプト記24章9-11節)。
そして、イエスが再びこの世にやってきて最終的な救いが完成される時には、イエスを信じて神との絆が回復した人たちは、イエスが主催する宴会に招かれると聖書は預言しています(参照:ルカの福音書13章29節;22章30節;黙示録19章9節)。1 1
この意味で、イエスが行うようにと命じた(主催した)聖餐式においてクリスチャン(イエスを信じて神との絆が回復した人)たちが皆一緒にパンを食べ杯を飲むという行為は、
しているとも言えます(比較:コリント人への手紙第一11章26節)。
以上で紹介した聖餐式の象徴的な意味をまとめると、
と言えます。10
聖餐式の目的
前節でみた聖餐式の象徴的な意味は以下のようなものでした。
- 聖餐式のパンは、人々の罪のきよめのささげ物として、十字架上で死んでいくイエスのからだを象徴している(参照:へブル人への手紙10章5-10節)
- 聖餐式の杯は、十字架上で流されるイエスの血(死)によって、神と人との間に新しい契約が結ばれたことを象徴している(参照:へブル人への手紙9章11-15節;比較:出エジプト記24章5-8節)
- 十字架上で死んだイエスのからだを象徴している一つのパンをその場に集う人々(クリスチャンたち)が分け合って食べるという行為によって、クリスチャンたちが一つのからだであること、即ち、教会内の人々の一致を象徴している(参考:コリント人への手紙第一10章15-17節)
- イエスが行うようにと命じた(主催した)聖餐式においてクリスチャンたちが皆一緒にパンを食べ杯を飲むという行為によって、イエスが再びこの世にやって来たときにクリスチャンたちが神と共に楽しむ大宴会を象徴している(比較:コリント人への手紙第一11章26節)
と言えます。具体的に言えば、聖餐式に参加することで、
そして
が大事だといえます(比較:ヨハネの福音書6章53-58節)。それによって、
ことが期待されます。
まとめ
今回のテーマ「キリスト教(プロテスタント)の聖餐式の意味と目的」を通して分かったことをまとめると以下になります。
そもそものところ、キリスト教で聖餐式を執り行う理由は、
でした(ルカの福音書22章19節;コリント人への手紙第一11章24-25節)。
聖餐式のもつ象徴的意味としては以下のようなものがあります。
- 聖餐式のパンは、人々の罪のきよめのささげ物として、十字架上で死んでいくイエスのからだを象徴している(参照:へブル人への手紙10章5-10節)
- 聖餐式の杯は、十字架上で流されるイエスの血(死)によって、神と人との間に新しい契約が結ばれたことを象徴している(参照:へブル人への手紙9章11-15節;比較:出エジプト記24章5-8節)
- 十字架上で死んだイエスのからだを象徴している一つのパンをその場に集う人々(クリスチャンたち)が分け合って食べるという行為によって、クリスチャンたちが一つのからだであること、即ち、教会内の人々の一致を象徴している(参考:コリント人への手紙第一10章15-17節)
- イエスが行うようにと命じた(主催した)聖餐式においてクリスチャンたちが皆一緒にパンを食べ杯を飲むという行為によって、イエスが再びこの世にやって来る(再臨)ときにクリスチャンたちが神と共に楽しむ大宴会を象徴している(比較:コリント人への手紙第一11章26節)
そして、上記のような象徴的意味を思い起こすことが聖餐式を執り行う最も大切な目的です。
具体的に言えば、聖餐式に参加することで、
そして
が大事だといえます(比較:ヨハネの福音書6章53-58節)。
言うなれば、
です。
あくまでも聖餐式を通して、
神・イエスに対する感謝と喜びに満たされ、
神・イエスに対する愛と信仰が新たにされる
ようになることが大切です。
参考文献および注釈
- Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
- Frame, John M. Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology. Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006.
- Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
- Marshall, I. H. “LORD’S SUPPER.” Edited by Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid. Dictionary of Paul and His Letters: A Compendium of Contemporary Biblical Scholarship. Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993.
- MARTIN, R. P. “LORD’S SUPPER, THE.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, and J. I. Packer. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
- Stewart., R. A. “PASSOVER.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, and J. I. Packer. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
- 聖餐式は教派によっては、「聖体礼儀」、「聖体拝領」、「主の晩餐」、「聖晩餐式」とも呼ばれます。
- 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
- 聖餐式がイエスの命令に従う形でキリスト教の創成期から行われてきたであろうことに関する詳細な説明は、例えば下記を参照。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 1036–1037.
- この最後の晩餐が過越を祝う食事と同じものであったかどうかは学者の間でも意見が分かれています(比較:ヨハネの福音書18章28節)。しかしながら、イエス自身が過越の祭りの意味・意義を意識しながら最後の晩餐を取ったことは間違いないと思われます(参考:ルカの福音書22章15節)。最後の晩餐と過越の食事との関連性について、興味のある方は下記を参照。R. P. MARTIN, “LORD’S SUPPER, THE,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 696–697.
- イエスの時代の過越の食事の詳細について、興味のある方は下記を参照。R. A. Stewart., “PASSOVER,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 822–823.
- I. H. Marshall, “LORD’S SUPPER,” ed. Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid, Dictionary of Paul and His Letters: A Compendium of Contemporary Biblical Scholarship (Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993), 570.
- 詳細は下記を参照。MARTIN, “LORD’S SUPPER, THE,” 698; なお、聖餐式のパンと杯が何を表すかについてはキリスト教の教派によって大きく意見が異なります。この記事ではルター派を除く大方のプロテスタントが支持する見解を紹介しています。教派間の見解の違いについて、興味のある方は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 991–996.
- 詳細な説明は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 1038.
- ユダヤ文化における食事の意味から考える聖餐式の意味について、詳細な説明は下記を参照。John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 284–286.
- 聖餐式のもつ過去、現在、未来の出来事に関する側面について、詳しい説明は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 1037; Frame, Salvation Belongs to the Lord, 286.