キリスト教の礼拝とは?教会で何をする?―聖書が教える礼拝の意味・目的・方法―

キリスト教の教会のホームページや立て看板などを見ると、まず間違いなく目に飛び込んでくるのが「礼拝」という言葉。

日曜礼拝
主日礼拝
子供礼拝
ユース礼拝
クリスマス礼拝
イースター礼拝

などなど。

色んな種類の「礼拝」なるものがあるみたいだけど、何をしているんだろう?

そう思いながら、実際に教会に行って「礼拝」に出席してみても、その意味というか目的はやっぱり良く分からなかったという方は多いのではないでしょうか。

恐らくですが、長年教会の礼拝に出席している方でも「礼拝とは何か?」という問いにはなかなか答えられないのではないかと思います(私自身、牧師になるために真面目に勉強し始めるまで、きちんと答えられませんでした)。

という訳で、今回は「礼拝の意味・目的・方法」について紹介しようと思います。

「教会とは何か?」「教会はなぜ存在するのか?」といったことに興味のある方は下記の記事をご覧ください。

キリスト教の教会とは?どんなところ?何するの?―教会の性質と役割―
近年はキリスト教式の結婚式を挙げる人が多いので、クリスチャンでなくても教会に行ったことがある方は多いと思います。そしてきっと「教会って結婚式以外に何してるの?」と思われた方も多いはず。ということで今回は、「教会」とはどういうものか、その働き・役割・目的は何かを考えます。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

礼拝の意味

実際に教会に行って「礼拝」に参加してみると、そこで行われているのは大体、以下のようなことです(順不同)。

  • 歌(讃美歌)を歌う
  • 聖書を読む(朗読する)
  • 祈る(「主の祈り」や「使徒信条」を唱える)
  • 説教を聞く
  • 献金をする

これだけだと誰しも

礼拝って、讃美歌を歌ったり、祈ったり、聖書を読んだり、説教を聞いたり、献金することなのかな!?

と思うと思います。

もちろん、賛美歌を歌うこと、祈ること、聖書を読むこと、説教を聞くこと、献金することなどは全て礼拝を形作る大事な部分となっています。が、しかし、

ただ讃美歌を歌ったり、祈ったりするだけでは「礼拝」とは言えません。

では、

「礼拝」とは一体何か?

色々な説明(定義)の仕方はありますが、このブログ記事では以下の表現を採用して話を進めます。1

礼拝とは、主権者なる神が恵みと憐みによって御自身を現わしてくれたことに対して、神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちた人的行為を伴うもの

ここで、まず大事なのは順番です。上記の表現をかなり平たく言いかえるとすれば

礼拝とは、神がしてくださったことに対する人間なりの応答

と言えることが分かると思います。2 つまり、

まず神が人間に何かをする。それに対して、人間が何らかの応答をする。

という順序・パターンがあることが分かります。

ここで重要なことは、人間が神のことを少しでも知ることができる(神が自身を現わしてくれる)のは、あくまでも神の恵みと憐みによるということです。

というのは、

聖書の語る神は天地万物の造り主で全てを治める主権をもっているのに対して、人間は神に造られた存在に過ぎない

からです。

かなり強引なたとえですが、あるコーヒーカップが自分を作ってくれた人のことを知りたいと思ったところで、コーヒーカップの製造者がそのリクエスト・願いに答える義理・責任はないのと同じだといえます。

聖書を通して一貫している神と人との関係は、

  • 主導権をもっているのは神であって、
  • 人は神が起こしたアクションに対して応答する立場にある

というもの。3

ここまでの話を読むと、聖書の神はどこか遠い存在で、冷たく厳しく偉そうな印象を持つ方もいらっしゃるかもしれません。

聖書の神の凄いところは神(創造主)と人(被造物)の間にある大きな隔たりを自ら乗り越えようとする(人間と深い絆を築こうとする)ところ。

具体的には、人間には想像もできないほど素晴らしいモノを神が先に与えてくれているというところ。ですので、先に挙げた礼拝の順番・順序を補足すると

まず神が人間には想像もできないほど素晴らしいモノを先に与えてくれる。それに対して、人間が何らかの応答をする。

となります。このパターンは、天地万物が創造されたとき(聖書の一ページ目)からずっと繰り返されています。事実、

聖書の神は人間も含めた天地万物を造り、それぞれに果たすべき役割と機能を与えました。

この天地創造の中に「礼拝」の前半半分、「主権者なる神が恵みと憐みによって御自身を現わしてくれたこと(人間には想像もできないほど素晴らしいモノを先に与えてくれたこと)」が含まれています。

また、神は人間に対して、神自身のかたちに創造した後、次のような役目を与えます。

生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。【創世記1章28節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉2頁4

「人が神自身のかたちに創造された」ということが具体的に何を意味するのかについては諸説ありますし、ここで詳しく説明することはできません。5 が、ある意味、

人は神の代理者として、自然が自然らしくあるために皆が協力しながら自然をケアする

こと、もう少し詳しく言うと、

人は神のように愛と正義をもって、私利私欲のために自然を搾取・破壊するのではなく、自然が本来持っている能力・姿が存分に表れ、自然の中に神の素晴らしさを見て取ることができるように皆が協力して自然をケアする

ことを神から託されたと言えます(もちろん、そのために必要なものは神から全て与えられた上で、です)。6

ここに「礼拝」の後半部分、「神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちた人的行為」の一例が示されていることになります。7

裏を返せば、

人間は神を「礼拝」するために創造された

と言えなくもありません。

礼拝の目的

前節では「礼拝とは何か(礼拝の意味)」について、特に聖書の教える「礼拝」の中に存在する以下の順序・パターンに注目しながら話を進めました。

まず神が人間には想像もできないほど素晴らしいモノを先に与えてくれる。それに対して、人間が何らかの応答をする。

そして、上記のパターンは天地創造の始めからずっと続いていて、ある意味、人間は神を「礼拝」するために創造されたとも言えることをみました。

では、

一体なぜ、何のために人間は神を礼拝する(ために創造された)のでしょうか?

それは、一言で言うならば、

神の栄光のため

です(参照:イザヤ書43章7節;エペソ人への手紙1章12節;コリント人への手紙第一10章31節)。8

この「栄光」という言葉は少しイメージが湧き難いかもしれませんが、日本語で「栄光」と訳されているヘブライ語の言葉(kâbôd)には「重み(weight)」や「価値・値打ち(worthiness)」という意味合いがあり、人に対して用いられる時には「財産(wealth)」「華麗さ(splendor)」「誉れ(honor)」とも訳されます。9

ですから、人が神を礼拝するのは

神が礼拝に値するお方だから

と言えます。でも「なぜ神が礼拝に値するのか?」というと、「礼拝」のパターンから分かるように

まず神が人間には想像もできないほど素晴らしいモノを先に与えてくれたから

です。なお、

礼拝に値するのは人やモノではなく、他の神々でもなく、ただ聖書の神だけ

だと聖書は語ります(出エジプト記20章3-5節)

礼拝の方法

前々節では聖書の教える「礼拝」を以下のように定義しました。

礼拝とは、主権者なる神が恵みと憐みによって御自身を現わしてくれたことに対して、神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちた人的行為を伴うもの

ここで鋭い読者の方は、

「神の思いにかなった従順な態度」をもって「敬意を表す敬虔に満ちた人的行為」を行わなければ、神を「礼拝」することにならない

ことに気付かれたと思います。

しかしながら、「神の思いにかなった従順な態度」または「敬意を表す敬虔に満ちた人的行為」と言われても抽象的過ぎてイマイチ、ピンとこない方がほとんどだと思いますので、今節ではもう少し具体的に「どのように礼拝すればよいのか?」について考えます。

礼拝の原則

礼拝の具体的な方法に関して、まず最初に聖書が教える「礼拝」の原則について紹介したいと思います。

聖書が教える「礼拝」の原則を知るためには、聖書の中で用いられている「礼拝」に関する言葉の意味を調べるのが一つの手段です。

聖書内に出てくる「礼拝」に関する言葉としては、大きく以下の三つが挙げられます。10

  • ひれ伏す・伏し拝む・拝む
  • 仕える
  • 恐れる・畏れる

最初の「ひれ伏す・伏し拝む・拝む」という意味をもつヘブル語の言葉(shâchâh)には神に対する屈服・服従・従順といった態度が表されています。11

この言葉は文脈によっては「(神を)礼拝する」とも訳されています(例:創世記22章5節;サムエル記第一1章3節)。12

この「ひれ伏す・伏し拝む・拝む」という意味をもつヘブル語(shâchâh)は「仕える」という意味をもつヘブル語(‛âbad)と一緒に出てくることがしばしばあります。

そして、その二つの言葉が現れるときはほとんどの場合、「聖書の神ではない他の神々を拝んで仕えてはならない」という文脈になっています(例:出エジプト記20章5節;申命記4章9節など)。13

しかしながら、この「仕える」という意味をもつヘブル語(‛âbad)は、聖書の神がイスラエル人に求めていることの中にも登場します。

イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。【申命記10章12-13節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉333頁

これはモーセという人物がイスラエル民族に語った言葉の一節です。

ここの最後の方に「心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え」るように神が求めているとあります。ここの「仕える」という言葉に‛âbadが用いられています(比較:ヨシュア記24章14節)。

従って、聖書の神以外の他の神々を拝んで仕えるのではなく、

人間には想像もできないほど素晴らしいモノを既に与えてくれている(聖書の)神にひれ伏し仕えること

それが「神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちた人的行為」の一つのかたちだといえます。

なお、‛âbadには基本的に「他者(通常は高位の人)の利益のために働く」という意味があり、神に対して用いられたときには「儀礼的行為によって神から託された務めを果たす」または単純に「神の思いにかなった生き方をする」という意味をもつときがあります。14

また、‛âbadの名詞形で‛ebedという言葉には「召使」「しもべ・奴隷」「労働者」といった意味があります。15

そして、この言葉が聖書の中で「主(神)のしもべ」として用いられるとき、その肩書は取るに足らない地位・役割に対して用いられるのではなく、むしろ神の使者として遣わされる重要人物を指しています(例:モーセ[ヨシュア記1章1節];ヨシュア[ヨシュア記24章29節];ダビデ[サムエル記第二7章8節]など)。16

このことから、聖書において、神に仕えることはとても重要なこととみなされていることが分かります。

「礼拝」に関する聖書内の言葉として、最後に考えるのは「恐れる・畏れる」という言葉(ヘブル語でyârê')。

このヘブル語の言葉(yârê')は、「恐れる・畏れる」対象との関係性に応じて、「恐怖心」からくる「恐れ」もしくは「畏敬、敬意、信頼」を伴う「畏れ」という異なる意味合いをもちます。17

yârê'が「恐れ」を意味するのは、例えば、実態が良く分からないもの(敵の軍隊、動物、死、時には聖書の神自身)に直面した時に感じる「恐れ」を表すときです。

対して、お互いの関係が良いときには、身分・立場の低い人が高い人に対してもつ「畏敬、敬意、尊敬」を表します。

ですから、

神の恵みによって神の民とされた人々が神に対してもつ感情(yârê')は(文脈にもよりますが)「恐れ」よりも「畏れ」

とする方が理解しやすいと思います。18

そして、このyârê'という言葉が前述の聖書個所(申命記10章12-13節)の一番最初に「あなたの神、主を恐れ」(新改訳2017)として出てきています(「聖書協会共同訳」では「あなたの神、主を畏れ」と訳されています)。

この聖書箇所(申命記10章12-13節)のように、聖書では「神を恐れる(yârê')」ことと「神に仕える(‛âbad)」ことが二つ同時に出てくることがしばしばあります (例:申命記6章13節;ヨシュア記24章14節;サムエル記第一12章24節)。

これはつまり、

人間には想像もできないほど素晴らしいモノを既に与えてくれている(聖書の)神を恐れ(畏れ)つつ、従順な態度で(神の前にひれ伏し)神に仕える

ことが大事であることを意味しています。

以上のことをまとめると、人が神を「礼拝」するために欠かせないもの(原則)は、

私たち人間の神に対する「畏敬、尊敬、敬意」と「従順さ」、そしてそれらの態度に裏打ちされた「行い」

といえます。

礼拝と律法

前項では人が神を「礼拝」するために欠かせないもの(原則)は、

私たち人間の神に対する「畏敬、尊敬、敬意」と「従順さ」、そしてそれらの態度に裏打ちされた「行い」

ということを見ました。が、ここで

神に対する「畏敬、尊敬、敬意」と「従順さ」に裏打ちされた「行い」とは具体的に何か?

と思われる方は少なくないと思います。

ある意味、そんな方のために与えられているのが聖書に記される「律法」です。

日本の神道や仏教においても、宗教儀式(葬式など)における所作や作法は細かく決められていると思います(お参りのときに神前・仏前の前で何度手をたたくかなど)。

そうしないと、神道の神や仏教の仏に失礼があるから、そして失礼があると罰(バチ)があたるからです。

古代社会における宗教儀式でも所作・作法は細かく定められていました。確かに、それらは面倒くさいと感じてしまうものかもしれませんが、神々の前に出るためには必要不可欠なものであって、細かく決められていないと逆に困ってしまう類のものでもあります。

それと似たような意味で、旧約聖書にも「律法」と呼ばれる掟や戒めがたくさん記されています。

現代の私たちの感覚では「律法」「法律」「校則」「マナー」と聞くと、どことなく不自由さを感じてしまうと思います。

しかし、

古代の(敬虔な)イスラエル人たちにとって、「律法」は重荷ではなく、神が人に何を望んでいるか(神に対する「畏敬、尊敬、敬意」と「従順さ」に裏打ちされた「行い」とは何か)を指し示すもの、神から与えられた恵み(祝福)

とも言えるものでした。19

しかも、です。

先の「礼拝」のパターンにもれることなく、

神はイスラエル人たちに律法を与える前にまず恵みと憐みによって御自身を現わして (人間には想像もできないほど素晴らしいモノを先に与えて)います。

それが一体何かと言うと・・・

エジプトにおける奴隷状態からの解放

という出来事です(参照:出エジプト記1—14章)。

ですから神は、イスラエル人たちに律法を与えようとする直前、以下にあるように、「人間には想像もできないほど素晴らしいモノを先に与えていること(エジプトにおける奴隷状態から解放したこと)」を思い起こさせています。

わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。【出エジプト記20章2節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉134頁

律法の中に記されている様々な儀式的な決まりや倫理道徳的な戒めは全て、

エジプトにおける奴隷状態から解放してくれた神を「礼拝」するための具体的な方法を指し示してくれる

ものなのです。

礼拝とイエス・キリスト

前項では「礼拝」と旧約聖書内の律法の関係をみました。特に、律法に記されている様々な儀式的な決まりや倫理道徳的な戒めは全て、

エジプトにおける奴隷状態から解放してくれた神を「礼拝」するための具体的な方法を指し示してくれる

ものであると書きました。でも実は、

クリスチャンたちは旧約聖書内の律法に記されている掟や決まりの多く(とりわけ宗教的儀式・儀礼に関するもの)を守っていません。
えっ、それじゃあ、クリスチャンたちは神を「礼拝」していることにはならないんじゃないの!?

と思われると思います。

確かに、クリスチャンたちは旧約聖書内の律法の多く(とりわけ宗教的儀式・儀礼に関するもの)を守っていません。が、それにはもちろんきちんとした理由があり、その理由はイエス・キリストと深い関係があります。

実際、旧約聖書内には神にいけにえを捧げる方法(律法)が細かく記されています。なぜいけにえを捧げるかというと、神に対して犯した罪を赦してもらうためです。20

しかし、

クリスチャンは誰一人していけにえを捧げません。

その理由は、

イエス・キリストが人類の罪を赦す究極のいけにえとして十字架にかかって死んでくれたため、いけにえを捧げる必要がなくなったから

です(参照:へブル人への手紙9章11-12節)。

この記事では「なぜ罪の赦しとしていけにえを捧げたのか」、および「なぜイエス・キリストが究極的ないけにえといえるのか」についての詳細は記しませんが、興味のある方は下記ブログを参照ください。

イエス・キリストはなぜ死んだのか?③―十字架のキリスト教的理由・意味―
「なぜイエス・キリストは十字架で死んだのか」について考える三部作シリーズの三つ目。無実の罪を背負わされ十字架刑に処されたイエス。しかしそれは、神が自らの「正義」と「愛」を追求したが故の結果だと聖書は語ります。その意味するところは一体何かをひも解きます。

端的に言えば、イエスが現れるまでは、神に対して犯した罪を赦してもらうためには、心から神に立ち返り、罪の内容に応じたいけにえを捧げる必要がありました。

しかし、イエスが十字架で死んでよみがえられた後は、神に対して犯した罪を赦してもらうためには、心から神に立ち帰り、イエスが自分の罪の代償として十字架で死んだことを信じ、神が望まれる生き方をしようとすることが求められるようになりました。

そして、ここにもまた、これまでの「礼拝」のパターンが見て取れます。

というのも「礼拝」のパターンの前半部分にあたる「主権者なる神が恵みと憐みによって御自身を現わしてくれたこと(人間には想像もできないほど素晴らしいモノを神が既に与えてくれたこと)」が

イエス・キリストが人類の罪を赦す究極のいけにえとして十字架にかかって死んでくれたこと

であり、後半部分の「神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちた人的行為」というのが

心から神に立ち帰り、イエスが自分の罪の代償として十字架で死んだことを信じ、神が望まれる生き方をしようとすること

となるからです。

イエスが現れる前には「礼拝」の一部としていけにえを捧げることが含まれていましたが、イエスが十字架で死んでよみがえった後には、いけにえを捧げる代わりに、イエスを信じ従おうとする信仰が「礼拝」の重要な要素となっています。

なお、

イエスが現れる前と後でも、律法の中の倫理道徳的な部分の重要性は変わりません。

イエス自身、律法の重要性は認めていますし(マタイの福音書5章17-20節)、律法の中で最も重要な戒めとして「神を愛すること」と「人を愛すること」を挙げています(マタイの福音書22章36-40節;比較:ヨハネの福音書13章34節)。

そしてここでも、先に見た「礼拝」の原則が重要になってきます。

ただ義務感や私利私欲(自己実現)のために「神が望まれる生き方」をするのではなく、

神に対する「畏敬、尊敬、敬意」と「従順さ」に基づいて、神と人を愛することができるかどうか

が問われるからです。

この意味で、

「礼拝」というのは日曜日のある特定の時間に教会で行うものではなく、私たちの生き方そのもので行うもの

であることが分かります。

聖書は勧めています。

ですから、兄弟たち、私(パウロ)は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。【ローマ人への手紙12章1節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉317頁

まとめ

今回のテーマは「礼拝の意味・目的・方法」についてでした。

「礼拝とは何か?(礼拝の意味)」については、色々な説明(定義)の仕方がありますが、この記事では以下の表現を用いました。

礼拝とは、主権者なる神が恵みと憐みによって御自身を現わしてくれたことに対して、神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちた人的行為を伴うもの

別の言い方をすると

礼拝とは、人間には想像もできないほど素晴らしいモノを既に与えてくれている(聖書の)神を恐れ(畏れ)つつ、従順な態度で(神の前にひれ伏し)神に仕えること

とも言えます(参考:申命記10章12-13節など)。

人が神を礼拝する目的

神の栄光のため

です(参照:イザヤ書43章7節;エペソ人への手紙1章12節;コリント人への手紙第一10章31節)。そして、

礼拝に値するのは人やモノではなく、他の神々でもなく、ただ聖書の神だけ

だと聖書は語ります(出エジプト記20章3-5節)

また、人が神を「礼拝」するために欠かせないもの(原則)は、

私たち人間の神に対する「畏敬、尊敬、敬意」と「従順さ」、そしてそれらの態度に裏打ちされた「行い」

であることもみました。その行いの内容を具体的に示してくれるものが聖書に記される「律法」なのですが、イエス・キリストの登場(十字架による死と復活)によって、律法の多く(とりわけ宗教的儀式・儀礼に関するもの)がその意味・意義を失ってしまいました。

その理由は、

イエス・キリストが人類の罪を赦す究極のいけにえとして十字架にかかって死んでくれたため、いけにえを捧げる必要がなくなった

からです(参照:へブル人への手紙9章11-12節)。

しかしながら、律法の中の倫理道徳的な部分の重要性は変わらず(マタイの福音書5章17-20節)、義務感や私利私欲(自己実現)のために神が望まれる生き方をするのではなく、

神に対する「畏敬、尊敬、敬意」と「従順さ」に基づいて、神と人を愛することができるかどうか

が問われています(マタイの福音書22章36-40節;比較:ヨハネの福音書13章34節)。

この意味で、

私たちの生き方そのもので神を礼拝する

と言うことができます(ローマ人への手紙12章1節)。

この生き方の中にはもちろん、皆で集まって礼拝することも含まれます。が、ただ日曜日に教会に行って、讃美歌を歌ったり、祈ったり、献金したりするだけでは「礼拝」とは言えません。

それらの行為の中に

神に対する「畏敬、尊敬、敬意」や「従順さ」が表れているかどうか

が大切です。そのためにも、まずは私たち一人一人が

人間には想像もできないほど素晴らしいモノを神が既に与えてくれている

ことに気付くことができますように。

参考文献および注釈

  • Block, D. I. “WORSHIP.” Edited by Mark J Boda and J. Gordon McConville. Dictionary of the Old Testament: Prophets. Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012.
  • Block, Daniel I. For the Glory of God: Recovering a Biblical Theology of Worship. Reprint edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2014.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  • Marshall, I. H. “WORSHIP.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, J. I. Packer, and D. J. Wiseman. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
  • Mathews, K A. Genesis 1-11:26. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 1996.
  • McConnell, W. “WORSHIP.” Edited by Tremper Longman and Peter Enns. Dictionary of the Old Testament: Wisdom, Poetry & Writings. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2008.
  • Nixon, R. E. “GLORY.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, J. I. Packer, and D. J. Wiseman. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
  • PETERSON, D. G. “WORSHIP.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  • Wenham, Gordon J. Genesis 1-15. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1987.
  1. Daniel I. Block, For the Glory of God: Recovering a Biblical Theology of Worship, Reprint edition. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2014) Kindle Locations 728-729.
  2. 詳細な説明は、例えば、下記も参照。I. H. Marshall, “WORSHIP,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 1250.
  3. なお、聖書には「人が神に従うならば神がその人を祝福してくれる(良いことで報いてくれる)」という約束が記されている箇所があります(例:申命記28章1-14節)ので、人が起こしたアクション(神に従う)に対して神が応答する(祝福する)立場にあるように思えるかもしれません。しかし、そもそものところ、まず神がそのような約束を与えるというアクションをとっていますし、その約束の内容自体、神の恵みと憐みによるものです。人間に問われているのは、神から与えられた約束に対してどのように応答するかです。
  4. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
  5. 興味のある方は、例えば、下記参考文献の「創世記1章26節」の注解を参照。Gordon J. Wenham, Genesis 1-15, Word Biblical Commentary (Waco, Tex.: Word Bks, 1987).
  6. ちなみに、メソポタミアの天地創造において、人間は神々の必要を満たすために造られますが、聖書では人間の必要を満たす(人間に必要なものを予めエデンの園に備えてから人間を造られた)神の姿が描かれています。詳細な説明は下記を参照。K A. Mathews, Genesis 1-11:26, The New American Commentary (Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 1996), 91–95.
  7. 詳細な説明は下記を参照。Block, For the Glory of God, Kindle Locations 1265-1295.
  8. 詳細は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 1003–1005; 440–442.
  9. R. E. Nixon, “GLORY,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 415. なお、へブル語のkâbôdに相当するギリシャ語の言葉はdoxaで、人間の「栄華(honor)」を表すこともあります(マタイの福音書4章8節など)が、ほとんどは神の「栄光(glory)」という意味で用いられています。
  10. 詳細は下記を参照。D. G. PETERSON, “WORSHIP,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 856–857; W. McConnell, “WORSHIP,” ed. Tremper Longman and Peter Enns, Dictionary of the Old Testament: Wisdom, Poetry & Writings (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2008), 930–931.
  11. PETERSON, “WORSHIP,” 856.
  12. この箇所の聖書の日本語訳は「新改訳2017」および「聖書協会共同訳」によります。
  13. D. I. Block, “WORSHIP,” ed. Mark J Boda and J. Gordon McConville, Dictionary of the Old Testament: Prophets (Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012), 869.
  14. Ibid.
  15. McConnell, “WORSHIP,” 930.
  16. Block, For the Glory of God, Kindle Locations 602-605.
  17. 詳細な説明は下記を参照。Block, “WORSHIP,” 868.
  18. 日本語訳の「新改訳2017」で「恐れ」と訳されているところが「聖書協会共同訳」では「畏れ」と訳されている箇所があります(例:申命記6章13節;10章12節;ヨシュア記24章14節など)。
  19. 詳細な説明は下記を参照。Block, For the Glory of God, Kindle Locations 1446-1453.
  20. キリスト教における「罪」とは何かについて、興味のある方は下記ブログをご覧ください。「人はみな罪人?キリスト教(聖書)の教える罪とは?―罪の定義と本質―」
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告