「復活が与える確信」:2019年11月10日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

今日の聖書個所には「死者の復活」のことを聞いて有り得ない馬鹿げた話だとあざ笑った者もいれば(32節)、その話をきっかけにクリスチャンになった人もいた(34節)ことが記されています。言うなれば、

「死者の復活」特に「イエス様が十字架で死んで葬られた後によみがえられたこと」を信じられるかどうかがクリスチャンになるかどうかの分かれ目

ということになります。

今日はキリスト教にとって、

なぜ「死者(イエス様)の復活」がそれほどまでに重要なのか?

について一緒に考えたいと思います。

知らずに拝んでいるもの

今日の聖書個所でパウロはアテネの至るところにある偶像をみて憤慨し、ユダヤ人たちや多くの人々と論じ合うようになります(16-17節)。

その結果、彼は「アレオパゴス」と呼ばれるアテネの議会において、イエス様と復活についての福音を詳しく説明する機会を与えられました(18-21節)。

そこでパウロはまず「アテネの人たちが知らずに拝んでいるもの」が天地万物の造り主であると宣言します(24節)。1

そして、天地万物の造り主である神は

  • 万物に命を与えるお方(25節)
  • 人間が神を探し求めれば見出すことができる存在 (26-27節)
  • 偶像とは全く異なるもの

だとパウロは説明します(28-29節)。

悔い改めを求める神

それからパウロは、天地万物の造り主である唯一まことの神の代わりに偶像を作り、その偶像にいけにえや供え物を捧げ、崇め奉ってきた人々に対して、悔い改めるように神が命じておられると語ります(30節)。

現代の日本人は「無宗教」で、宗教は何も信じていないと言う人が多いように思います。しかしながら、日本人の多くは新年には初詣に行って「神様」に対して「家内安全」「必勝祈願」「合格祈願」といった願い事をします。

また、お盆やお彼岸にはご先祖様の供養のために墓参りをします。そうしないと先祖の霊が報われずバチが当たるからといった理由です。

中には「目に見えない何か」ではなく、実際に目に見えるお金や人の力・ご利益にすがることもあるかもしれません。が、いずれにしても、

自分たちの願いや望みのために何かの力・ご利益にすがる

というのは誰もがすることだと思います。

この意味で、2000年前のアテネの人々であれ現代に生きる日本人であれ、

人は皆、自分たちの願いや望みのために何かの力・ご利益にすがる存在

だと言えると思います。そのような人間に対して、天地万物の造り主なる神は悔い改めるように命じておられると聖書は語ります。

「悔い改める」というのは、

自分たちの利益のために何かを利用するという生き方から、天地万物の造り主である神様のために神様から自分に与えられた力・才能を利用するという生き方への方向転換

を意味します。自分(人間)中心から神様中心への方向転換が求められています。

イエスの復活が与える確証

でも、

なぜ自分(人間)中心から神様中心への方向転換が必要なのでしょうか?

それは、

神様がイエス様にこの世を裁く権威を与え、この世を正しく裁く日が決められているから。そして、その確証として、神様がイエス様を死者の中から復活させた

とパウロは主張します(31節)。

聖書は、

イエス・キリストが十字架で死んで葬られ、三日目によみがえって多くの人に現われた

と記します(コリントの信徒への手紙一15章3-6節)。人間の常識で考えて到底起こり得ないことが起こったと言うのです。

そして、それによって、多くの人がイエス様こそ本物の救い主(メシア)であり神の子であると信じるようになり、殉教する者もいました。

イエス様の復活は、イエス様が確かに神の子であることの証拠・確証を与えるもの

です(ローマの信徒への手紙1章4節)。

イエス様はただ死んでよみがえられただけではありません。復活した後は天に上げられ、神様と等しい権威・権力が与えられています(エフェソの信徒への手紙1章20-21節)。ですから、

イエス様の復活は、イエス様にこの世を裁く権威が与えられていることの確証を与えるもの

です。

また、神様がイエス様によってこの世を正しく裁く日には、

  • 自分(人間)中心に生きてイエス様を信じることのなかった人々は永遠の破滅という刑罰を受け(テサロニケの信徒への手紙二1章9節)
  • イエス様を信じて神様中心の生活をしようと方向転換した人々は永遠の命にあずかる(マタイによる福音書25章46節)

と聖書は記します。この「永遠の命にあずかる」というのは、

イエス様が復活した時にもっていた死ぬことのない「栄光ある体」でよみがえり、新しい天地で神様と共に死も悲しみも嘆きも労苦もない生活を送る

ことを意味します(フィリピの信徒への手紙3章21節;ヨハネの黙示録21章1-4節;比較:コリントの信徒への手紙一15章51-54節)。言うなれば、

イエス様の復活は、死ぬことのない(罪のない)身体で神様と永遠に過ごす「永遠の命」が本当に存在することの確証を与えてくれるもの

でもあるのです。

結論

イエス様が死んで復活したことによって、イエス様はただの人間ではなく子なる神であることが示されました。

その

子なる神が私たちの身代わりとなって十字架で死んでよみがえったことを信じ、それまでの自分(人間)中心の生き方から神様中心の生き方へと方向転換するとき、私たちには「永遠の命」が与えられます。

そして、

神様がイエス様によってこの世を正しく裁く日が来るとき、イエス様を信じる者はイエス様と同じ復活のからだをもってよみがえり、新しい天地で神様と共に死も悲しみも嘆きも労苦もない生活を送る

ことが約束されています。

それら全ての確証を与えてくれるのがイエス様の復活です。

今一度、

子なる神イエス様が私たちに永遠の命を与えるため、私たちの身代わりとなって十字架で死んでよみがられた

ことを覚えたいと思います。そして、

自分の生活を振り返り、自分(人間)のためではなく神様のために、聖霊の力・助けにすがりながら、神様から与えられた力・才能をより一層用いていくことができるように祈り求めましょう。

参考文献および注釈

  • Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
  • Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.
  1. 特に断らない限り、聖句の引用は新共同訳聖書によります。
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