礼拝説教の要旨です。
導入
世の中ではようやく新型コロナに対する不安や恐れが和らいできたように感じます。
しかしながら、今度はコロナ後の「新常態(ニューノーマル)」に対する不安や恐れが現れてきているように思います。
コロナが落ち着いてきたからといって、生活の全てがコロナ前の状態にすんなりと戻る訳ではありません。
コロナ前では「当たり前」だったことが、当たり前とはみなされなくなってきます。
皆が
ことがこれまで以上に求められてくるように思います。
今日の聖書個所を通して、
について、共に学んでいきましょう。
伝統を覆す出来事
今日の個所に出て来る「ヨハネ」はヨハネによる福音書を書いたヨハネではありません。
彼は俗に「バプテスマ(洗礼者)のヨハネ」と呼ばれる人物で、当時のユダヤ人たちに洗礼(バプテスマ)を授けていました。
この洗礼は人々に罪の赦しを得させる「悔い改めの洗礼」でした(ルカによる福音書3章3節)。
罪の赦しを得るために悔い改める(神様に立ち帰る)こと自体は目新しいことではありません(参考:申命記30章1-3節;列王記上8章46-51節;ヨエル書2章12-14節)。
バプテスマのヨハネが注目されたのは、この
点にあります。というのも、
からです。つまり、異教徒ではなくユダヤ人に対して洗礼を授けるというのは、当時のユダヤ人たちにとっては非常に目新しい、伝統を覆す出来事だったことになります。
ですから、多くのユダヤ人たちがヨハネから洗礼を受けている様子を見て、
と考える人が出てきても不思議ではありません。
予想を覆す答え
そこでエルサレムの宗教指導者たちはバプテスマのヨハネのもとに人を遣わし、彼が一体何者なのかを尋ねさせました(ヨハネによる福音書1章19節)。
するとヨハネは、自分はメシア(救い主)でもエリヤでも「あの預言者」でもないと答えます(20-21節)。
その上で、自分は主の道を整えるために荒れ野で叫ぶ者の声であると宣言します(23節)。
この答えは、質問をした人たちの予想を覆す答えだったと思われます。
このため彼らは続けて「ではなぜあなたはユダヤ人たちに洗礼を授けるのか」と尋ねています(25節)。
その問いかけに対してヨハネはきちんと答えることなく、自分よりもはるかに優れた方が既に彼らの中におられるとだけ答えます(26-27節)。
この一連のやり取りの中にメシア、エリヤ、そして「あの預言者」という人物が出てきています。
バプテスマのヨハネがメシアでないことは自明だと思いますので、エリヤと「あの預言者」について少し説明します。
内容が前後しますが、まずは「あの預言者」について。
この個所に出て来る「預言者」というのは恐らく、申命記18章15節に出て来る「モーセのような預言者」だと思われます。
しかしながら、使徒言行録3章22節でペトロは、この
と語っています。
ですので、確かにヨハネは申命記18章15節に出て来る「あの預言者」ではありません。
通説を覆す解釈
一方、エリヤに関しては、
とマタイによる福音書17章12-13節に記されています。
では
その理由は恐らく、
からではないかと考えられます。
バプテスマのヨハネ自身が考えるエリヤの役割・働きというのは、ヨハネによる福音書1章23節にあるように、
です(比較:ルカによる福音書1章16-17節)。
対して、当時のユダヤ人たちはエリヤに対してもっとメシア的な役割・働きを期待していたと考えられます(参考:マラキ書3章23節 [新改訳は4章5節]。
従って、エリヤはメシアが来られる道を整えるだけの役割・働きを担うというのは当時の通説を覆す解釈となります。
このように、エリヤに対する当時のユダヤ人たちの理解が自分自身の理解と異なっていたため、バプテスマのヨハネはヨハネによる福音書1章22節で「私はあなたたちの考えるようなエリヤではない」と答えたと考えることができます。
結論
今日の聖書個所には、
を見て取ることができます。
神様から遣わされたバプテスマのヨハネはそれまでの伝統を覆し、異教徒にではなくユダヤ人たちに対して洗礼を施していました。
その出来事を目のあたりにして、人々は救い主(メシア)によってもたらされる新しい時代の到来を期待し、ヨハネこそメシア的な役割・働きを担った人物だと予想しました。
けれども、ヨハネの答えは人々の予想を覆すものでした。
彼は、自分はメシア的な役割・働きではなく、メシアが来られる道を整える役割・働きを担った者だと公言したのです。
当時の人々にとって、メシアが来られる道を整える役割・働きを担う人物が存在するというのは馴染みのない、通説を覆す聖書解釈でした。
世の中の伝統や通説、人々の予想を覆す神様の御業はイエス様の十字架と復活による救いの御業に最もよく顕されています。
イエス様の時代、誰一人として救い主が十字架で死んでよみがえるとは予想・期待していませんでした。
旧約聖書に精通していて、救い主のことを誰よりも理解していたはずの律法学者たちや祭司長でさえ、伝統的な解釈や通説に縛られ、救い主なるイエス様を受け入れることができませんでした。
このことは、
を教えてくれます。
新型コロナ禍が落ち着いてきた今の世の中は、これまで「当たり前」だった伝統や習慣、通説が当たり前でなくなりつつあります。
今まで以上に、皆が自分の頭で考え、意思決定や状況判断をすることが求められるときとなっています。
そのような状況にあって、
と思います。
神様の思いや考えは私たち人間の思いや考えをはるかに超えたものです。
私たち人間には神様の思いや考えを完全に理解することはできません。
ここで大事なのは
です。
神様の前だけでなく、自分の周りの兄弟姉妹の前にもへりくだって、お互いにお互いを自分より優れたものだと考える(フィリピの信徒への手紙2章3節)。
自分の理解や考えがひょっとしたら間違っていて、相手の方が正しいかもしれないと考える。
自分の思いや考えを一旦、脇に置いて、伝統や習慣、通説や慣例ではなく、神様の御声に耳を傾ける。
このように、
ようになります。
へりくだって神様の御声に耳を傾けるというのは、教会全体だけでなく個々人の生活においても重要なことですが非常に難しいことでもあります。
たとえクリスチャンになった後だとしても、誰もが自分の思いや考えを神様の思いや考えよりも優先させてしまう自己中心的な性質を少なからずもっているからです。
もちろん、その自己中心的な度合いは聖霊の働きによって少しずつ少なくなってはいきます。
でも、この世に生きている間に完全に取り除かれる訳ではありません。
必要があります。
もし自分の思いや考えを一旦、脇に置いて、神様の御声に耳を傾けられていない・傾けたくないと思うことがあるのであれば今一度、
イエス様の十字架に顕されている
神様の愛はあなたの思いや考えを覆すほどに大きく、あなたを温かく包み込んでいます。
神様の偉大な御手はあなたの思いや考えを覆すほどに大きく、着実かつ確実にその御旨を実現していかれます。
参考文献および注釈
- Burge, Gary M. John. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2000.
- Carson, D. A. The Gospel according to John. Reprint edition. The Pillar New Testament Commentary. Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
- Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary. Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003.
- Michaels, J Ramsey. The Gospel of John. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2010.