「人の決断を通して働かれる神」:2019年10月20日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

私たちは生きる上で大小様々な選択・決断をしています。今日の聖書個所に記されている時代においても、今日の私たちと同じように人々は数多くの選択・決断をしながら生活をしていました。今日は

神様が私たちの決断を通してどのように働かれるか、また神様はどのようなお方なのか

を共に学びたいと思います。

人の決断を用いて自分の栄光を表す神

今日の話はパウロがバルナバに一つの提案をすることから始まっています。その提案とは、

彼らが以前に福音を宣べ伝えた町々を訪問して、人々の様子を見てこよう

というもの(15章36節)。

これらの町々でパウロとバルナバは福音を宣べ伝え、多くの人々がイエス様を信じるようになりましたが、ユダヤ人たちの反対・迫害もありました(13:50; 14:4-5, 19)。このため、彼らをもう一度を訪問して様子を見てこようとした訳です。

バルナバは町々を訪問するというパウロの提案自体には賛成します。けれども、誰を連れていくかについては二人の意見が分かれました。

結果、

パウロとバルナバはそれぞれ異なる決断をした

と聖書は記しています(39-41節)。しかし、神様は彼らの異なる決断を用いて教会を力づけ、御自分の栄光を表されました(41節;16章5節)。

ここで大事なことは、

パウロとバルナバは教会を力づけ、より多くの人々を神様のもとに導こうとする目的においては一つでしたが、その目的達成の手段・方法に関する選択・決断が異なっていた

ということです。

私たちの人生においても、

お互いの共通の目的が神様の御心にかなったものであれば、その目的達成のための手段・方法に関して合意が得られないとしても、神様はそれぞれの選択・決断を用いて御自分の栄光を表されます。

この意味で、神様の御心にそった共通の目標・ビジョンをもつことはとても大事だと思います。

決断ごとに異なる結果をもたらす神

神様は異なる多くの選択・決断を用いて御自分の栄光を表すことができます。しかし、全ての選択・決断が同じ結果をもたらす訳ではありません。従って、

より良い結果を得るため、私たちは神様の知恵を求める

必要があります。

キリストの教会として、私たちには福音を宣べ伝え、人々をイエス様の弟子とするという共通の目標があります(マタイによる福音書28章18-20節)。

しかし、その目標達成のための方法はそれぞれの状況によって異なります。ですから、教会全体として、

どのようにして周りの人々に福音を伝えることができるかについて話し合う

ことが重要です。

また、もっと個人的な問題として、私たち一人一人は心と精神と思いを尽くして神様を愛し(マタイによる福音書22章37節)、自分のように隣人を愛する(マタイによる福音書22章39節)という共通の目標をもっています。

一言で言えば、イエス様のようになるという目標です。しかし、

イエス様のようになるには具体的にどうすればよいかというと、その方法は人それぞれですから、絶えず聖霊の助けを祈り求めたい

と思います。

聖霊によって決断を導く神

今日の個所で驚かれたであろうことの一つは、

パウロたちがある特定の地域において御言葉を語ることを聖霊によって禁じられた

ことだと思います。その地域とはアジア州(16章6節)とビティニア州(16章7節)です。

地図をご覧いただくと、彼らはピシディア州のアンティオキアを出発した後、南西(アジア州)に下ることも北方(ビティニア州)に上がることもできず、トロアスに向けてほぼ直進していったことが分かります。

そしてトロアスにおいてパウロは「マケドニア州に来て私たちを助けてほしい」と願う男の幻を見ます(9節)。それからすぐにパウロたちはマケドニアへ向けて出発します(10節)。

この一連の流れを考えると、

神様はパウロたち一行を一刻も早くマケドニアに送りたくて、聖霊を用いて彼らの決断を導いていった

ように思えます。

今日、私たちは神様からの言葉を聞いたり、幻を見たりすることはあまりないかもしれません。しかし、今日においても私たちが聖霊の働きを感じることはあると思います。

例えば、色々試しても一向に状況が良くならなかったにもかかわらず、少しやり方(方向性)を変えると一気に話が進みだしたという体験はないでしょうか。

それはまるで誰か・何かに道を遮られていて、その状況を乗り越えるためには自分の考えや態度を変えざるを得ないような感覚です。

結論

私たちが神様の御心にかなった共通の目標をもっているとき、神様は私たちの選択・決断を用いて御自分の栄光を表されます。

しかし、それぞれの選択・決断がもたらす結果は必ずしも同じではありませんので、神様の知恵と助けを祈り求めることが大切です。

また、

聖霊は様々なかたちで私たちの意思決定を導かれます。

時には、預言や幻を通して語りかけることがあるかもしれません。

もしくは人生におけるあらゆる道(可能性)をただ一つを除いて全て閉じるという方法で私たちの選択・決断を促すことがあるかもしれません。

ただし、どのような選択・決断をするにしても、あくまでその選択・決断の責任は私たち自身にあります。聖霊や神様を責めることはできません。

神様と私たちの選択・決断について考えるとき、忘れてはならないことがあります。それは、

神様は私たちの選択・決断がどんなものであれ、それら全てを用いて救いの御業を成していかれる

ことです。

たとえ私たちが神様の目から見て「悪い」こと、神様が望まないことを選択・決断したとしても、神様はそれらを用いて善い業をなすことができるのです。

その典型的な例がイエス様の十字架と復活による救いの御業です。

イエス様の弟子たちは誰一人としてイエス様が十字架刑に架けられるとは思っていませんでした。ですから、イエス様が捕らえられたとき、彼らは皆イエス様を見捨てて逃げ出してしまいます。それは彼らの身勝手な決断であって、神様の望んでいた決断ではありませんでした。

イエス様に敵対していた人たちもそれぞれの自己中心的な決断によって、イエス様を十字架につけました。

でも、彼らのそのような身勝手で自己中心的な決断をもってしても神様の計画が台無しにされることはありませんでした。それどころか、

神様はそのような「悪い」決断を通して働かれ、救いの御業を成し遂げられた

のです。が、だからといって、

私たちが自分の好き勝手な選択・決断をしてよい訳ではありません。

神と人を愛すること、イエス様のようになること、これがクリスチャンとしての究極的な目標です。その目標達成を目指す過程において、私たちは数えきれないほどの過ち(罪)を犯します。

でも、決して忘れないでください。

神様は私たちが完全ではないこと、弱い存在であることをご存知です。神様は私たちの良いところはもちろん、悪いところも全てご存知の上で、私たちをありのままで愛してくださっている

のです。ですから、神様の目から見て「悪い」こと、神様が望んでいないことを選択・決断することを必要以上に恐れないでください。

どんな選択・決断をしたとしても、その内容によって神様があなたを見捨てたり、嫌いになることはありません。
あなたがどんな決断をしようとも、イエス様はいつもあなたと共にいて、あなたを助け導いてくださいます。
そんな神様のゆるぎない愛に感謝しながら、それぞれに置かれた状況の中で神様が最も喜んでくださるであろう選択・決断ができるように、聖霊の知恵と助けを祈り求めていきましょう。

参考文献および注釈

  • Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
  • Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.
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