「まことの救い主」:2022年12月11日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

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導入

今日からアドベント(待降節)の三週目が始まります。

アドベント・キャンドルに灯した三本目のろうそくは「羊飼いのろうそく」と呼ばれ、救い主が生まれたという天使の知らせ聞いて、生まれたばかりのイエス様を探しに出かけた羊飼いたちの話にちなんだものです。

今日はこの羊飼いたちの話を通して、

聖書の神様がどのようなお方であるか?

を見ていきたいと思います。

主権者なる神

イエス様がお生まれになったとき、ローマ帝国の皇帝アウグストゥスは住民登録をするようにという勅令を出していました(ルカによる福音書2章1節)。

イエス様の両親ヨセフとマリアはこの勅令に従って、住民登録をするために出身地のベツレヘムを訪れていました(2章3-4節)。

そこで、妊娠していたマリアがイエス様を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせたとルカは記します(2章6-7節)。

救い主イエス様がベツレヘムで産まれると言うのは、旧約聖書の預言(ミカ書5章1節)の成就ですから、

神様は時の皇帝をも用いてご自分の計画を果たすことのできる絶対的な主権者

であることが分かります。

慈しみ深い神

ルカによる福音書2章7節によると、

イエス様が飼い葉おけに寝かされたのは「宿屋」に彼らの泊まる所がなかったから

です。

聖書協会共同訳ではここの「宿屋」に脚注があり、別訳で「客間」となっています。

これは最近の聖書学者の見解を反映したものだと思われます。

「宿屋」ではなく「客間」と訳するのが正しいとする理由は幾つかあります。

その理由の一つとして、

ヨセフはベツレヘムの出身ですから、宿屋に泊まろうとするよりも親戚や友人を尋ねる方がより自然

ですし、

当時のパレスチナ地方の住居には客間の他に家畜用のスペースがあった

ことが挙げられます。また、

聖書の中にも「馬小屋」に泊まったとは書かれていません

から、ヨセフとマリアは馬小屋ではなく親戚もしくは知人の家の中の家畜用のスペースに泊まったと考えるのは聖書的にみても無理な解釈ではありません。

ヨセフとマリアは親戚もしくは友人の家を訪れたけれども、客間に泊まるスペースがなかったために家畜用のスペースで寝泊まりした

となると、私たちのイエス様誕生に対するイメージはかなり変わってくるかもしれません。けれども、

全世界を救う神の御子イエス様が王宮や貴族の家ではなく、ごくごく普通の家庭の家畜用のスペースで生まれ、そこにあった飼い葉おけに寝かされた

ことは驚くべき出来事であるのに変わりありません。

神様はおごり高ぶる者や権力者の見方ではなく、貧しく身分の低い人に慈しみをもたらすお方

だということが分かります(参照:ルカによる福音書1章50-54節)。

誠実な神

今日の聖書個所では

御使いが羊飼いたちにイエス様の誕生を告げ知らせています。

羊飼いという職業は貧しく、社会的地位も決して高くありません。

にもかかわらず神様は、そんな羊飼いたちを顧みられ、彼らに御使いを遣わして救い主の誕生を告げ知らせました(ルカによる福音書2章9-10節;比較:ルカによる福音書4章18節)。このとき天使は、

生まれたばかりの赤子が救い主であり、主であり、メシアである

と語っています(2章11節)。

「主」という言葉は聖書全体を通して神様を表す言葉

として使われていて、ルカによる福音書1章の中だけでも何度も登場しています(例:1章6, 9, 11, 15, 16, 25節)。このため、2章11節では

イエス様が神様に等しい存在である

ことがほのめかされています(比較:1章17, 43, 76節; 20章41-44節)。

「メシア」はヘブル語の言葉で、ギリシア語では「キリスト」と訳されます。その文字通りの意味は「油注がれた者」です。

ユダヤ人の間では王、預言者、祭司を任命するときに油を注ぐのが慣例となっていました。

ルカの福音書において

「メシア」はイスラエルの王ダビデの子孫としてこの世を永遠に治める王

という意味合いで用いられています(参考:ルカによる福音書1章32-33, 69節;比較:ルカによる福音書20章41-44節)。

イスラエルの王ダビデの子孫がこの世を永遠に治める王となるというのは、神様がダビデ王に告げた預言の一つです(サムエル記下7章12-13節)。

この預言がなされたのは紀元前1000年頃ですから、

1000年もの時を経て神様はその言葉を実現された

ことになります。

神様はその言葉・約束を必ず果たす誠実なお方

です。

救い主なる神

(旧約)聖書の中では多くの場合、

人々を救う存在として描かれるのは神様

です(申命記20章4節;ヨシュア記22章22節;詩編24編5節; 25編5節; イザヤ書25章9節)。

ルカによる福音書の中でも神様ご自身が「救い主」であると記されています(ルカによる福音書1章47節)。このことから、ルカは

イエス様が神様に等しい存在である

と示唆していることが分かります。

さらにルカによる福音書1章68-79節に記されているザカリアという人物の預言には、

神様ご自身が神様の民を訪れ、彼らを贖い、彼らの敵から彼らを救い出し、罪の赦しを与え、平和の道へ導く

ことが記されています。

神ご自身が人々の間に住まわれ、人々を贖い、敵から救い、罪を赦し、平和へと導く。

そして

遠い昔にダビデに約束していた預言の通りに、この世を永遠に治める。

そのために、

子なる神イエス様がこの地にお生まれになった

訳です。

結論

神様は時の皇帝をも用いてご自分の計画を果たすことのできる絶対的な主権者

また

社会的に蔑まれている人々を顧みてくださる慈しみ深いお方

です。その

神様はご自分のおっしゃった言葉・預言を必ず実行する誠実なお方

でもあります。そして、その

預言を実現すべく、人々を贖い、敵から救い、罪を赦し、平和へと導き、この世を永遠に治めるメシアまた救い主として、子なる神イエス様がこの地にお生まれになりました。

なお、イエス様が産まれた当時のローマ帝国においては

ローマ皇帝アウグストゥスは神または神の子であり、救い主であり、平和をもたらす者である

とされていました。そんな状況にあってルカは

イエス様こそがまことの神の子であり、救い主であり、平和をもたらす者である

と言わんとしていると解釈することができます。

今の日本にはもちろん、ローマ皇帝アウグストゥスのような人物はいません。

けれども、

皆さんの人生の中で聖書の神様以外に「神」または「神々」のような存在になっているモノ・ヒトはいないでしょうか?
困ったときに神様以上に頼りにする存在、また不安や恐れの中にあって神様以上に心に平和・平安・安らぎを与えてくれる存在はいないでしょうか?

ある人にとっては

お金がそのような存在かもしれません。

また親友や恋人、家族かもしれません。

もしくは、自分自身が「神」となっているかもしれません。

もちろん、お金は大事です。

親友や恋人、家族も大事です。

自分自身の思いや願いも、もちろん大事です。

しかしながら、

そのようなモノやヒトを神様以上に大事にしたり、頼ったりするのであれば、それらはあなたの「偶像」となってしまっている

と言えます。

神様はそのような「偶像礼拝」を喜んでおられません。

神様以外のモノ・ヒトは全て有限で一時的なものです。真の意味の信頼感や安心を与えてはくれません。

対して、

聖書の神様は無限で永遠に存在しておられるお方
この世に存在する全てを用いてご自分の計画を成し遂げていくことのできる絶対的な主権者

です。その

言葉には嘘偽りがなく、おっしゃったことは必ず果たす誠実なお方

です。

慈しみ深い神様はあなたのことを誰よりも気にかけ、いつもあなたに寄り添ってくださっています。

時には物事が期待していた通りに進まず、神様に裏切られたように感じることがあるかもしれません。

けれども、後になって振り返ってみると、

神様は神様の視点から見て、その人の最善を備えてくださるお方

だと分かります(ローマの信徒への手紙8章28節)。

神様があなたを見捨てたり、見限ったり、裏切ることは決してありません。
神様の愛からあなたを引き離すものは何もない

からです(ローマの信徒への手紙8章39節)。

一時的な現象や出来事に囚われることなく

長期的な視点で物事・人生をみるとき、聖書の神様以上に頼りになる存在は他にいません。

世の中がどれほど揺れ動くことがあったとしても、

聖書の神様は決して揺らぐことなく着実かつ確実にそのご計画を実現しておられます。

そのことが今日の聖書個所に出て来るまことの救い主イエス様の誕生にはっきりと示されています。

今の世の中も良いこともあれば悪いこともあります。

私たちの人生も楽あれば苦あり、苦あればまた楽ありの人生です。

でも、

たとえ何が起こったとしても、慈しみ深い神様は今も昔も、またこれからも決して変わることなく、絶対的な主権をもって、その救いの計画を着実かつ確実に実現しておられます。
その神様に全幅の信頼を置きながら、まことの救い主であるイエス様と共に日々、神様の思い・願いを第一にして歩み続けることができますように。

参考文献および注釈

  • Bock, Darrell L. Luke 1:1-9:50. Baker Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Baker Bk House, 1994.
  • Edwards, James R. The Gospel According to Luke. Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2015.
  • France, R. T. Luke. Teach the Text Commentary Series. Grand Rapids, Mich.: Baker Books, 2013.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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