「あり得ない話」:2024年12月22日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2024年12月22日(日)
  • 場所:さいたま国際キリスト教会
  • 説教タイトル・テーマ:「あり得ない話」
  • 聖書個所:ルカによる福音書2章8-21節1
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導入

メリークリスマス!

今日はこのようにして、皆さんで私たちの救い主であるイエス様の誕生を覚え、礼拝できる幸いに感謝します。

さて、

「救い主」と聞いたとき、皆さんは何を思い浮かべますか?

「救い主」と聞くと、ある人は、自分が困ったときやピンチになったときに助けてくれる「正義の味方」、「ヒーロー」を思い浮かべるかもしれません。

また、「救い主」と言われても、イマイチよく分からないという方もいらっしゃるかもしれません。

今日はこの個所を通して、

聖書の神様がどのようなお方か?

また

聖書の語る「救い主」がどのようなお方か?

を共に学んでいきたいと思います。

あり得ない愛の話

まず今日の個所の始め、ルカによる福音書2章8節には羊飼いたちが出て来ています。

ここに出て来る

「羊飼い」という職業は、その当時、王様や貴族のように身分の高い人たちが就く仕事ではありませんでした。

人間的な常識で考えると、

神様のように絶対的な権威・権力をもったお方がご自分の子供の誕生を最初に知らせるのは、この世の権力者たち

ではないかと考えると思います。

けれども、

天地万物を造られ、あらゆるものを支配しておられる絶対的な権力者である神様がご自分の愛する我が子イエス様の誕生をまず初めに知らせたのは、身分が低く貧しい羊飼いたち

でした。この私たちの常識では「あり得ない話」は、

お金持ちかどうか身分が高いかどうかに関係なく、この世の全ての人々を大切に思っておられる神様の「あり得ない愛の話」

だとも言えます。

あり得ない救いの話

羊飼いたちが野宿を死ながら、夜通し羊の群れの番をしていると天使が現れ、

救い主がダビデの町(ベツレヘム)で生まれた

ことを告げました(ルカによる福音書2章10-11節;参考:ルカによる福音書2章4節;サムエル記上17章12節)。

そして天使は、

ベツレヘムで生まれた救い主こそが主メシア

であると告げています。ここの「救い主」「主」は旧約聖書では主に

神様ご自身を指す言葉

として登場します。

また、「メシア」またはギリシア語で「キリスト」という言葉は元々、「油注がれた者」を意味し、神様によって特別な使命を授かった人のことを指しました。その「メシア(キリスト)」という言葉が、イエス様の時代には、

この世に救いをもたらすという特別な使命を授かったダビデ王の子孫

を指す言葉として使われるようになっていました(比較:ルカによる福音書1章31-35, 69節)。

従って、イエス様が救い主であり、主であり、またメシアでもあるということは、

イエス様がこの世を救う神その人であり、この世を救うという特別な使命をもって、ダビデ王の子孫としてこの世に来られた

ということを表していると言えます。

天地万物の創造主である神様が、自らが造った創造物の姿を取って、この世を救うためにこの世にお生まれになった。

これもまた私たちの常識で考えると「あり得ない話」と言えます。でもこの「あり得ない救の話」こそ、天使の語る

全ての民に与えられる大きな喜び

でした。

あり得ない誕生の話

天地万物の創造主である神様が、自らが造った創造物の姿を取って、この世を救うためにこの世にお生まれになったとき、

最初に選んだ寝床は飼い葉おけ

であったと聖書は語ります(ルカによる福音書2章12節)。

神様は全知全能で絶対的な主権をもったお方です。

ですから、

王様の子供として生まれることもできた

と思います。

けれども、

神様が選んだのは名もない町の貧しく若い二人の夫婦の子供として生まれる

ことでした。その結果、

救い主なる神様は生まれて直ぐに家畜の餌箱である飼い葉おけに寝かされる

こととなりました。

これもまた私たち人間の常識や理性で考えると「あり得ない誕生の話」です。

でも

なぜ神様はご自分の最初の寝床として飼い葉おけを選ばれたのでしょうか?

その理由は幾つか考えられますが、一つ確かなことは、

イエス様が飼い葉おけに寝ておられたから、そのしるしのおかげで羊飼いたちはイエス様と出会うことができた

ということです。

とはいえ、そもそものところ、

羊飼いたちは天使の言葉を信じて行動に移す

必要がありました。

羊飼いたちは天使の言葉を信じて行動を起こしたからこそ、救い主なるイエス様を探し当てることができた

訳です。ここには

身分や行いに関係なく、信仰さえあれば誰でも神様・イエス様と近しい関係を築くことができる

ことが暗に示されています。

結論

神様がご自分の愛する子イエス様の誕生を初めに知らせたのは身分の低く貧しい羊飼いたちでした。

神様にとってはお金持ちかどうか、身分が高いかどうかは関係ありません。

神様はこの世の全ての人々を等しく愛しておられる

お方です。

また、聖書の語る

「救い主」イエス様は神様ご自身

でもあります。その

救い主なる神様自らがこの世を救うため、ダビデ王の子孫としてこの世にお生まれになりました。

しかも、生まれたばかりの乳飲み子は宮殿のベッドの上ではなく、

家畜の餌箱である飼い葉おけに寝かされました。

それは

信仰さえあれば誰でも神様・イエス様に出会うことができる

ようにするためでした。

ここで改めて質問です。

「救い主」と聞いて皆さんが思い浮かべる人は、生まれたばかりのときに家畜の餌箱である飼い葉おけに寝かされるような人でしょうか?

救い主なる神様が家畜の餌箱である飼い葉おけに寝かされるというのは

イエス様が大きくなってから経験する苦難・困難を暗に示そうとしている

とも考えられます。

実際、イエス様は大きくなって「救い主」としての活動を始められた後、

最終的には十字架に架けられて死んでしまいました。

当時の人たちにとって、彼らを救うはずの「救い主」が十字架にかかって処刑されるというのは、絶対に「あり得ない話」でした。

しかしながら、

救い主なるイエス様が十字架にかかって死ぬことこそが、私たちが救われるためには必要不可欠

であったと聖書は語ります。では、

なぜ私たちが救われるために「救い主」が十字架にかかって死ぬ必要があったのでしょうか?

それは、聖書の語る

「救い」とは「私たちが犯した罪に対する罰から救われる」こと

を意味しているからです。ここでいう「私たちが犯した罪に対する罰」というのは、裁判などによって定められる刑罰のことではなく、

「聖書の神様に対して私たちが犯した罪に対する罰」

のことです。それにはもちろん、世間一般的に言われる悪いことや犯罪は全て含まれます(比較:出エジプト記20章13-17節)。

これらに加えて、実際に行動に起こさなくても、

心の中で悪いことを思い浮かべるだけでも神様の前には「罪」

とされます(比較:ローマの信徒への手紙1章29-31節;ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節)。

そう考えると、

聖書の神様に対して「罪」を犯したことがない人は一人もいない

と思います。

しかも、話はここで終わりません。

その罪がどのようなものであれ、

罪に対する罰は全て「死」

であると聖書は語ります(ローマの信徒への手紙6章23節;ヘブライ人への手紙9章22節)。

自分が神様に対して犯した罪は自分の命をもって償う

必要があるという訳です。

しかしながら、

命は一つしかありませんから、一回でも罪を犯すとそこで命は終わってしまいます。

そのため神様は、罪を犯した人が自分の命をもって償う代わりに、動物を殺していけにえとして捧げるように命じられました。

つまり、

私たちが神様に対して罪を犯した場合、私たちの身代わりに命を捧げる存在(いけにえ)が必要

になるということになります(レビ記17章11節)。この

私たちの身代わりに命を捧げる存在(いけにえ)として、救い主であり神様ご自身でもあるイエス様が十字架で死なれ、私たちの犯した罪の罰から私たちを救ってくださった

のだと聖書は語ります(ヘブライ人への手紙9章12, 26節;マタイによる福音書20章28節)。

と言われても、です。

神様が自分を救うために自分の身代わりとして死んでくれるなんて、そんなの都合が良すぎてあり得ない話

と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

自分の命に代えても惜しくないほどに、この世の人々を愛する神様がいる

というのもまた、私たちの常識からすれば「あり得ない話」かもしれません。

しかし、

聖書の神様は私たちの常識を超えた「あり得ない神様」

と言えます。

聖書には人間の常識や理性、期待や想像をはるかに超えた「あり得ない話」がちりばめられています。

でもそれは裏を返せば、

聖書の物語は人間の想像力で作り上げたフィクション(創作物)ではない

とも言えると思います。

常識を超えた「あり得ない話」を思いつくのは、これまた常識を超えた「あり得ない神様」だけ

と言えるからです。

イエス様の誕生をお祝いする今日この日、今一度、

私たち人間の常識や理性、期待や想像をはるかに超えた「あり得ない神様」による「あり得ない救い」の御業を思い起こしてください。

そして、その

偉大なる主の御名をほめたたえ、心からの賛美を捧げてください。

「あり得ない話」を通して働かれる私たちの主に、全ての栄光がありますように。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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