イエス・キリストを信じて終わりじゃない!?―キリスト教(聖書)の救いの完成―

耳にしたことがある方もいらっしゃると思いますが、キリスト教の中心的な教えの一つとして「人類の救い」というものがあります。そして、その救いを得るために必要なことというのは

イエス・キリストを信じること

です。1でも、ここの話だけを聞いた方はまず間違いなく、

イエスを信じたら救われるということは、イエスを信じた後は特に何もする必要はなく(好き勝手に暮らして)ただ死を待つだけだよね!?

と思われると思います。が、実は、キリスト教というのはイエス・キリストを信じて終わりではなく、むしろ信じてからが始まりと言えるところがあります。

という訳で、今回は「イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか?」について考えたいと思います。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

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信じる者は救われる

「イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか?」を考える前に、まずはイエス・キリストを「信じる」とはどういうことかを簡潔に記しておきます。詳細は以下の記事を参照ください。

「信じる者は救われる」の語源はキリスト教(聖書)!?言葉の意味は?
「信じる者は救われる」という表現(ことわざ?)はよく聞きますが、その語源はイマイチはっきりしないようです。しかし、聖書の中には「信じる者は救われる」に近い言葉・表現が出てきます。今回はキリスト教(聖書)が教える「信じる者は救われる」の真意を紹介します。

キリスト教においてイエス・キリストを「信じる」というとき、それは

イエス・キリストに対して、罪の赦しと永遠の命を与えるために十字架で死んでよみがえった救い主であるという個人的な信頼を置くこと

を意味します。ここでとても大切なことは、イエス・キリストが罪の赦しと永遠の命を与えてくれる救い主であることを知識・認識として正しいと認めるだけでなく、

自分の個人的な救い主として心の底から信頼して付き従うこと

別の言い方をすると

それまでの自分中心だった(自分が人生の主であった)生き方から、神を中心とした(神を人生の主とする)生き方に改めること

です。これはつまり、キリスト教でイエス・キリストを信じるというときには、信頼関係と主従関係に基づく信仰が必要となってくるということができます。

イエス・キリストに対して信頼関係と主従関係に基づく信仰をもつとき、

私たちには罪の赦しと永遠の命が与えられ、罪がもたらす永遠の滅び(死)から救われる

と聖書は語ります。さらに、イエス・キリストを信じて救われた者には以下の三つの変化が伴います。

  • 新しく生まれる(新生、regeneration)
  • 神の前に義(正しい)と認められる(義認、justification)
  • 神の子とされる(養子、adoption)

詳しくは以下の記事をご覧ください。

イエス・キリストを信じると何が起こる・変わる?―キリスト教(聖書)の救いの意味―
実は、聖書(キリスト教)の語る「救い」には「罪の赦し」と「永遠の命」以外にも重要な側面があります。今回は「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか?」を考えつつ、聖書(キリスト教)の教える「救い」の意味について紹介します。

聖なる者とされる(聖化、sanctification)

さて、冒頭で「イエス・キリストを信じて終わりではなく、むしろ信じてからが始まりと言えるところがある」と書きました。

が、実は、そのように言える根拠が前節でみた「信じる」の言葉の意味に含まれていたのですが、お気づきになった方はいらっしゃったでしょうか?

イエス・キリストを信じて終わりではなく、むしろ信じてからが始まりだと言える根拠となるところ、それは、イエスを信じることの中には

それまでの自分中心だった(自分が人生の主であった)生き方から、神を中心とした(神を人生の主とする)生き方に改めること

が含まれているという部分。つまり、

イエスを信じる(信頼して付き従っていく)ことには、私たちの生き方を改めることが含まれている

のです。

イエスを信じてからが神を中心とした新しい人生の始まり

と言えることになります。

それならば、です。気になってくるのは、恐らく、

自分中心ではない神を中心とした生き方とは一体どのようなものか?

といったことだと思いますが、神を中心とした生き方について、聖書は以下のように答えます。

神が聖(せい)であるように、聖なる者でなければならない(参照:レビ記19章2節;ペテロの手紙第一1章16節)

ここで「神が聖であるように」と書きましたが、「聖(せい)」もしくは「神聖(しんせい)」という性質は、聖書において神独自の固有の性質といえるものです。2

このため、神に捧げられたモノや場所は「聖」なるものと呼ばれます(例:出エジプト記30章29節など)。

また、イエス・キリストを信じて神の民(子)とされた人々は「聖徒」もしくは「聖なる者」とも呼ばれます(例:コリント人への手紙第一1章2節など)。

ここで鋭い読者の方は、

ん?イエス・キリストを信じた人々が「聖なる者」と呼ばれるのだったら、特に何もしなくても「神が聖であるように、聖なる者となる生き方」は既に出来てるんじゃないか!?

と思われると思います。しかしながら、「神が聖であるように、聖なる者となること」と「神の民(子)とされて、聖なる者となること」は本質的に意味合いが異なります。

というのも、「神が聖であるように、聖なる者となること」は「神の望む生き方をすること」を意味するのに対して、「神の民(子)とされて、聖なる者となること」は「神に属する者とされること」を意味するからです。

さらに言うと、「神の望む生き方をすること」は、イエス・キリストを信じた人たちが一生かけて追い求めるべき目標であるのに対して、「神に属する者とされること」はイエス・キリストを信じた瞬間に実現されることでもあります。

ちょっとややこしくなってきたのでまとめると、

イエス・キリストを信じる人たちはもう既に「聖なる者(神に属する者)とされている」けれども、神が聖であるように「聖なる者となること(神の望む生き方をすること)」が求められている

と言えるでしょう。3

ちなみに、この「神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)こと」をキリスト教用語では「聖化(せいか、sanctification)」と呼びます。

ここで注意事項が三つあります。

まず一つ目の注意事項。

「神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)こと」は、先にも書きましたが、イエス・キリストを信じた人たちが一生かけて追い求めるべき目標です。

これはつまり、

生きている間に神のように聖なる者となれる人(100%完全に神の望む生き方ができる人)は存在しない

ことを意味します(参考:ヨハネの手紙第一1章8節)。4 これは視点を変えると

聖なる者となっている度合い(どこまで神の望む生き方ができているかどうか)は人それぞれ異なる

ということにもなります。5

しかしながら、イエスを信じて死んだ人はみな、神のように聖なる者とされます(参考:へブル人への手紙12章23節)。そうでなければ、聖なる神と共に過ごすことができないからです(参考:ヨハネの黙示録21章27節)。6

なお、私たちが生きている間の究極的な目標として目指すべき存在は神でありながら人の姿をとってこの世に来られたイエス・キリストです。

ですから、「神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)こと」は

「イエス・キリストのようになる・生きること」

と言い換えることができます(参考:ローマ人への手紙8章29節;コリント人への手紙第二3章18節)。7

しかし、「イエス・キリストのようになりなさい・生きなさい」と言われてもなかなかイメージがわいてこない人の方が多いと思います。そんな方のために(?)、イエス自身、次のようなことを言っている箇所があります。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。【ヨハネの福音書13章34節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉213頁8

つまり、

イエスが自分を愛してくれたように、自分の周りの人を愛すること、それが「イエス・キリストのようになる・生きること」の本質

だと言えます。9

が、もちろんここで、自分自身がイエスにどのように・どれほど愛されているかを知っておく必要があります。そのためには、聖書を学ぶこと、クリスチャンの友達と交流することなどが重要になります。

注意事項の二つ目。

「神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)こと」もしくは「イエス・キリストのようになる・生きること」というのは、人間の努力だけでは到底達成することができない目標です。

むしろ、

神とりわけ聖霊(神の霊)の働きによって、「聖なる者とされていく」もしくは「イエスのように変えられていく」

という方が正しい表現と言えます。事実、聖書には次のようにあります。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。【コリント人への手紙第二3章18節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉359頁

ここで「主(しゅ)」は「イエス」、「御霊(みたま)」は「聖霊」のことを指しています。ですから、

私たちイエス・キリストを信じる者はみな、聖霊の働きによって、イエスのように変えられていく

ということになります(比較:テサロニケ人への手紙第一5章23節;ガラテヤ人への手紙4章19節)。10

従って、イエスのように変えられるために、神(と聖霊)に全てを委ね依り頼むといったある種の受動的な姿勢が重要になってきます。11

ところがというか、残念ながら(?)というか、

私たち人間がただ神に全てを任せさえすれば、後は勝手に神(聖霊)が働いて、私たちが自然にイエスのようになる訳ではありません。

私たち人間の方もまた意識的に努めてイエスのようになろうとする能動的・積極的な姿勢が必要なのです。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成させるように努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ人への手紙2章12-13節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉396頁

これはパウロという人物がピリピという場所に住んでいたクリスチャンに宛てた手紙の一部です。ここで、パウロはピリピのクリスチャンに「(神に対して)恐れおののいて自分の救いを達成させるように努めなさい。」と勧めています。

ここでいう「救いを達成させる」というのは「イエスのようになる(神のように聖なる者となる)」こととも理解できます(比較:ピリピ人への手紙2章15-16節)。12

ですからパウロは「イエスのようになるように努力しなさい」と勧めていることになります(比較:へブル人への手紙12章14節;コリント人への手紙第二7章1節;ヨハネの手紙第一3章3節)。

しかし、ここで注目すべきは、その後に続く「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」という言葉でしょう。

というのも、確かに人間の側でイエスのようになるように努力する部分はあります。

しかし、そのための意欲や意思・志といったものも神から与えられるものであって、最終的に「事を行わせてくださる(救いを達成させてくださる。イエスのように変えてくださる)」のは神であると言っているからです。13

このため、少し回りくどい言い方になりますが、

聖なる者となる(イエスのようになる)ためには、神に全てを委ねて信頼するだけでなく、人間の側にも聖なる者となろうとする(イエスのようになろうとする)努力が必要だけれども、そのために必要な助けも神が与えてくれる

ということになります。14

最後となる三つ目の注意事項。

というよりも、これは最後の念押しといった方が良いかもしれないことですが、今節で紹介している「神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)こと」もしくは「イエス・キリストのようになる・生きること」というのは、あくまでも

イエスを信じて既に救われた人が自分を救ってくれた神に対する感謝と喜びを表す一つの手段として目指すもの

です。

「神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)」もしくは「イエス・キリストのようになる・生きる」ことを完全に達成しないと救われない訳では決してありません

そもそも、最初の注意事項でも触れましたが、生きている間にこの目標を完全に達成できる人は誰一人いません。

ですから、この目標を達成しないと救われないのであれば、誰一人救われないということになってしまいます。ご注意ください。

栄光のからだに変えられる(栄化、glorification)

「イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか?」について、前節では以下のことをみました。

  • イエスを信じてからが神を中心とした新しい人生の始まり
  • 新しい人生の究極的な目標は、神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)こと、即ち、イエスのようになる・生きること

上記の二つ目については、あくまでも「人生の究極的な目標」であって、

生きている間に神のように聖なる者となれる人(100%完全に神の望む生き方ができる人)は存在しない

ことも紹介しました。でも、ここで

なるほど、結局のところ、究極的な目標は達成されないんだな

とするのは早すぎます。というのも、

この究極的な目標が達成されて初めて聖書の語る「救い」が完成される

からです。言い方を変えると、

イエスのようになる・生きることができるようにならなければ、人類の救いは完成されていない

のです。でも、恐らくここで

ん?どういうこと?イエスを信じて救われれば、それで救いは完成なんじゃないの!?

と思われる方がほとんどだと思います。確かに、

イエス・キリストに対して、罪の赦しと永遠の命を与えるために十字架で死んでよみがえった救い主であるという個人的な信頼を置くとき、私たちには罪の赦しと永遠の命を与えられ、罪がもたらす永遠の滅び(死)から救われる

と聖書は語ります。しかしながら、罪が赦され、永遠の命が与えられ、永遠の滅びから救われることになっても、まだそれらは完全には実現されていない状態なのです。

たとえるなら、大学などで卒業に必要な全ての単位を取得して、卒業論文も提出し、卒論発表も終わって、卒業は確定しているけれども、卒業証書はまだもらっていない状態と言えるかもしれません。

イエスを信じることで罪は赦され、永遠の命も与えられ、永遠の滅びから救われることは確定しているけれども、この世で生きている人は皆、死んでいきます。永遠の命を与えられているはずなのにもかかわらず、です。

えっ、でも、永遠の命って、肉体が滅んでも霊魂が永遠に生きるってことでしょ!?

と思われる方は多いと思いますが、

聖書が語る永遠の命というのは、霊魂の不滅のことではなく、死ぬことのない肉体をもって永遠に生きること

を意味しています。15

これは、ほとんどの日本人が思い描くであろう極楽浄土(天国?)のようなところで、霊魂が幸せに暮らすのとも異なっています。

そして、死ぬことのない肉体をもって生きるという意味において、永遠の命はまだ誰にも与えられていません。ただ一人を除いては…。

では、この世においてただ一人、死ぬことのない肉体をもって生きている人物というのが誰かというと、それはイエス・キリストです(参考:コリント人への手紙第一15章20節)。

Resurrection By Marco Basaiti - Web Gallery of Art:   Image  Info about artwork, Public Domain, Link

イエスは十字架刑で死んで墓に葬られますが、三日目によみがえりました(復活しました)。そのときのイエスの身体は、死ぬ前の身体と共通する部分もありましたが、異なる部分もありました(参照:ルカの福音書24章36-43節)。16

この肉体は朽ちることがなく永遠に生きることができる身体で、「栄光に輝くからだ」(ピリピ人への手紙3章21節)とも呼ばれています。

この復活したイエスがもっている朽ちることのない「栄光に輝くからだ」をもって、イエスを信じる者たちがよみがえるときが来る

と聖書は語ります(コリント人への手紙第一15章52-55節)。

そのときがいつかというと、

イエスが再びこの世にやってきて最後の審判をくだす世の終わりのとき

です(参考:ヨハネの福音書6章39-40節;マタイの福音書25章31-46節)。17

そして、イエスが再びこの世にやってきたときに「栄光に輝くからだ」に変えられることをキリスト教用語で「栄化(えいか、glorification)」と呼びます。18

ここで、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、復活したイエスと同じ姿に変えられるときというのは、イエスを信じる者が完全にイエスのようになった状態とも言えます。

従って、前節で紹介した「聖化」は「栄化」によって完成するということができます。

なお、この終わりのときには人間以外の被造物も「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」ると聖書は語ります(ローマ人への手紙8章21節;比較:ヨハネの黙示録21章1-5節)。

イエスが再びこの世にやって来る世の終わりに、イエスを信じる者は朽ちることのない肉体をもってよみがえり、新しい天地で神と共に永遠に生きるようになる。

これが聖書の教える救いの完成形であり、その時の状態が聖書に次のように記されています。19

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。【ヨハネの黙示録21章3-4節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉516頁

まとめ

今回は「イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか?」について考えました。その中で分かったことをまとめると以下の通り。

  • イエスを信じて終わりではなく、信じてからが神を中心とした新しい人生の始まり
  • 新しい人生の究極的な目標(達成は不可能)は、神が聖であるように聖なる者となる(神の望む生き方をする)こと、即ち、イエスのようになる・生きること
  • 聖なる者となる(イエスのようになる)ためには、神に全てを委ねて依り頼む受動的な態度が必要(神とりわけ聖霊の働きによって、「聖なる者とされていく」もしくは「イエスのように変えられていく」)
  • と同時に、人間の側にも聖なる者となろうとする(イエスのようになろうとする)能動的・積極的な努力も必要(そのために必要な助けも神が与えてくれる)
  • 聖なる者となる(イエスのようになる)ことは、イエスを信じて既に救われた人が自分を救ってくれた神に対する感謝と喜びを表す一つの手段
  • イエスが再びこの世にやってきて最後の審判をくだす世の終わりのときには、イエスを信じる者たちは朽ちることのない「栄光に輝くからだ」をもってよみがえる(完全にイエスのようになる)
  • この終わりのときには人間以外の被造物も新しくされ、イエスを信じる者たちは新しい天地で神と共に永遠に生きる

これまで、何回かにわたって「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか」および「イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか」を紹介してきました。

「信じる者は救われる」の語源はキリスト教(聖書)!?言葉の意味は?
「信じる者は救われる」という表現(ことわざ?)はよく聞きますが、その語源はイマイチはっきりしないようです。しかし、聖書の中には「信じる者は救われる」に近い言葉・表現が出てきます。今回はキリスト教(聖書)が教える「信じる者は救われる」の真意を紹介します。
イエス・キリストを信じると何が起こる・変わる?―キリスト教(聖書)の救いの意味―
実は、聖書(キリスト教)の語る「救い」には「罪の赦し」と「永遠の命」以外にも重要な側面があります。今回は「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか?」を考えつつ、聖書(キリスト教)の教える「救い」の意味について紹介します。

上記の内容から分かることの一つとして、

一口に「救われる」「救い」と言っても、その内容は非常に多岐にわたった奥深いもの

だということが言えると思います。

また、この世にあって私たちは辛いことや悲しいこと、不合理なことや理不尽なことを経験します。しかし、

最終的には最後の審判によって正しい裁きがなされ、イエス・キリストを信じる者は朽ちない身体をもって新しい天地で神と共に永遠に生きることができる

と聖書は語るのです。

ここに希望があります。

なお、聖書の語る救いが完成する「世の終わり(終末)」について、興味のある方は下記の記事をご覧ください。

世の終わりは既に始まっている!?―キリスト教(聖書)の語る終末とイエスの再臨―
「1999年の7の月に恐怖の大王が来るだろう」という「ノストラダムスの大予言」からはや20年。未だ人類滅亡の時は来ていません。今回は、誰もが気になる「世の終わり(終末)」について、イエスが再びやって来る(再臨する)と語る聖書(キリスト教)の教えを紹介します。

参考文献および注釈

  • Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
  • Fee, Gordon D. Paul’s Letter to the Philippians. Eighth Impression edition. New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1995.
  • Frame, John M. Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology. Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006.
  • Garland, David E. Second Corinthians. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 2000.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  1. 詳細は下記のブログを参照ください。「『信じる者は救われる』の語源はキリスト教(聖書)!?言葉の意味は?」
  2. 神のもつ「神聖さ(holiness)」に関して、興味のある方は下記の記事を参照ください。「キリスト教(聖書)の神はどんな神?③―裁き主なる神の性質―:3.裁き主なる神の神聖さ(holiness)」
  3. 詳細な説明は下記を参照。John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 213–215.
  4. 一生かけても神のように聖なる者にはなれないことについて、詳しい説明は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 750–753.
  5. 詳しい説明は下記を参照。ibid., 748–749.
  6. ただし、肉体も含めて聖なる者とされるためには、イエスの再臨時にもたらされる「復活のからだ」を待つ必要があります(参考:コリント人への手紙第一15章42-56節)。ibid., 749.
  7. 詳細な説明は下記を参照。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 899.
  8. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
  9. では、「具体的にどのように愛すればよいのか?」については、正直、ケースバイケースとなりますが、「自分の利益を犠牲にしてでも他人の最善を考え、行動すること」が一つの具体的な指針となると思います(比較:ヨハネの福音書15章13節;ピリピ人への手紙2章3-8節)。
  10. 詳細な解説については、例えば、下記を参照。David E. Garland, Second Corinthians, The New American Commentary (Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 2000), 198–202.
  11. 神(と聖霊)によってイエスのように変えられることに関して、詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 753–754.
  12. 詳しい説明は、例えば、下記参考文献の「ピリピ人への手紙2章12節」の注解を参照。Gordon D. Fee, Paul’s Letter to the Philippians, Eighth Impression edition., New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1995).
  13. 詳しい説明は、例えば、下記参考文献の「ピリピ人への手紙2章13節」の注解を参照。ibid.
  14. 聖なる者となる(イエスのようになる)ために人間が果たすべき役割に関して、興味のある方は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 754–756.
  15. 詳しくは下記の記事を参照ください。「イエス・キリストはなぜ復活した(よみがえった)のか?ーイエス復活の意味ー:3. 復活と人々の救い」
  16. 聖書の語る「復活」について、詳しくは下記の記事を参照ください。「死んだイエス・キリストはよみがえった(復活した)のか?①―復活の特徴・性質―」 「イエス・キリストはなぜ復活した(よみがえった)のか?ーイエス復活の意味ー」
  17. 聖書の語る「世の終わり(終末)」について、興味のある方は下記の記事をご覧ください。「世の終わりは既に始まっている!?―キリスト教(聖書)の語る終末とイエスの再臨―」
  18. 詳細は下記を参照。Frame, Salvation Belongs to the Lord, 231–232.
  19. 詳細は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 924–928; Grudem, Systematic Theology, 828–839.
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