イエス・キリストを信じると何が起こる・変わる?―キリスト教(聖書)の救いの意味―

少し前に以下の記事で聖書(キリスト教)が教える「信じる者は救われる」の意味について紹介しました。

「信じる者は救われる」の語源はキリスト教(聖書)!?言葉の意味は?
「信じる者は救われる」という表現(ことわざ?)はよく聞きますが、その語源はイマイチはっきりしないようです。しかし、聖書の中には「信じる者は救われる」に近い言葉・表現が出てきます。今回はキリスト教(聖書)が教える「信じる者は救われる」の真意を紹介します。

そこでの「まとめ」から引用すると、聖書(キリスト教)が教える「信じる者は救われる」の意味とは下記になります。

イエス・キリストに対して、罪の赦しと永遠の命を与えるために十字架で死んでよみがえった救い主であるという個人的な信頼を置く者は、
罪の赦しと永遠の命を与えられ、私たちの罪がもたらす永遠の滅び(死)から救われる

上記の表現から、「罪の赦し」「永遠の命」がキリスト教の語る「救い」の中心メッセージであろうことが何となく見て取れると思います。

でも実は、聖書(キリスト教)の語る「救い」には「罪の赦し」と「永遠の命」以外にも重要な側面があります。

それらは以下の二つの問いに対する答えとして理解することができます。1

  • イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか?
  • イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか?

という訳で、今回は一つ目の問い「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか?」について考えます。

二つ目の問い「イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか?」については、下記の記事で取り上げています。ご興味のある方はご覧ください。

イエス・キリストを信じて終わりじゃない!?―キリスト教(聖書)の救いの完成―
「イエス・キリストを信じる者は救われる」と聞くと「イエスを信じたら全てが終わりで、後はただ死を待つだけ」という気がしてしまいます。でも実は、イエスを信じてからが始まりなのです。今回は「イエスを信じた後はどうする・どうなる?」について考えます。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

新しく生まれる(新生、regeneration)

イエス・キリストを信じて救われた者は「新しく生まれた者」であると聖書は語ります。2

あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。… あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。【ペテロの手紙 第一1章21、23節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉466頁3

これはイエスの弟子の一人ペテロが書いた手紙の一部です。

この中の「あなたがた」というのは「キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者」、言い換えるならば「イエスが罪の赦しと永遠の命を与えるために十字架で死んでよみがえったことを通して、イエスをよみがえらせた神を信じるようになった者」となります。4

ここで鋭い読者の方は、

ん?「イエス」を信じる者じゃなくて、「神」を信じる者なの?

と思われると思います。しかし、これには聖書の神がもつ「三位一体」の性質が関わっていて話が込み入ってきますので、ここでは深く立ち入りません。

ただ、神を信じることもイエスを信じることも根っこの部分では同じだと思っていただければと思います。5

ここで重要な個所は、その後の「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによる」というところ。

「朽ちる種」は「男性の精子」の比喩的表現で、新しく生まれる前の、いずれは死に行く肉体を生み出すもの。対して、「朽ちない種」というのは「生きた、いつまでも残る、神のことば」を表します。従って、

朽ちることのない神の言葉(聖書)を受け入れ、イエス・神を信じた者は新しく生まれた者

ということになります。6

それにしても、

そもそも、なぜ新しく生まれる必要があるのか?

それは、

神の思いや望み、目的などに相対することを行った(罪を犯した)ことで、人はみな死んでいく定めにあった

からです(参考:エペソ人への手紙2章1-3節)。7

そして、

滅びゆく状態にあった人間を回復する(創造されたときの状態に戻す)ことができるのは、人間を創造した神だけ

なのです。

ある意味、

全ての人間は罪を犯したため、造り主である神によって根本的に全く新しい者へと造り変えられる必要があった

と言えます。

ですから、「新しく生まれる」ことと同じ意味をもつ表現として、聖書には以下のようなものも出てきます。8

  • 「神によって生まれた」(ヨハネの福音書1章13節)
  • 「御霊(みたま、即ち神の霊)によって生まれた」(ヨハネの福音書3章6節)
  • 「新しく造られた」(コリント人への手紙第二5章17節)
  • 「聖霊(神の霊)による再生」(テトスへの手紙3章5節)

ここで大事なことは、

神以外に人間(被造物)を新しく生まれさせることのできる存在はいない

ということ(聖霊もしくは御霊もまた三位一体の神です)。

裏を返せば、人間の努力や才能や意識によって「新しく生まれる」ことはできないということですので、仏教などでいうところの「悟りを開く」とは異なります。

また、神の被造物を「創造されたときの状態に戻す(再創造)」という意味において、

イエスが再びやってくる世の終わり(最後の審判のとき)には、人間だけではなくこの世の全てが新しく造り変えられる

とも聖書は語ります(参照:マタイの福音書19章28節;ヨハネの黙示録21章1-5節;ローマ人への手紙8章19-22節など)。9

この他にも「新しく生まれる」ことに関して特筆すべき事柄として、以下のようなものが挙げられます。10

  • 人間の生まれ持った性質・性向の大変革を伴うもの(特に、自分のことではなく神のことを優先しようとする思いが生じるようになる)
  • 人生で一度だけ、瞬間的に起こる出来事(何度も繰り返して、断続的には起こらない)
  • 新しく生まれてからが成長の始まり(新しく生まれて終わりではない)
  • 超自然的で神秘的な現象(いつ、どのように起こる・起こったかといった詳しいことは分からないが、実際に起こったかどうかはその人にもたらされる変化によって判断することができる)

神の前に義(正しい)と認められる(義認、justification)

冒頭で「信じる者は救われる」の意味を以下のように紹介しました。

イエス・キリストに対して、罪の赦しと永遠の命を与えるために十字架で死んでよみがえった救い主であるという個人的な信頼を置く者は、
罪の赦しと永遠の命を与えられ、私たちの罪がもたらす永遠の滅び(死)から救われる

ここに、イエスを信じる者には「罪の赦し」が与えられるとあります。

「罪」というのは「神の望みや思いと相対すること」、簡単に言ってしまえば、「神に対して行った悪いこと」のことです。11

ですから、イエスを信じると「神に対して行った悪いことが全て帳消しにされる」ことになります。

これに加えて、イエスを信じる者は神の前に「義(正しい)」と認められると聖書は語ります(参考:ローマ人への手紙3章22-26節;4章23-25節など)。12

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。【ガラテヤ人への手紙2章16節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉376頁

これはパウロという人物がガラテヤ地方(小アジア中央部)に住んでいるクリスチャンたちに宛てた手紙の一節です。

「義」というのは、簡単に言えば、「罪」の反対語のようなもの。つまり、「神の望みや思い、目的に従う・かなうこと」と言えます。具体的に言えば、神の定めた掟や律法を全て守り行うことです。13

しかし、上記の聖書個所でパウロは律法を行うことで義とは認められないといっています。なぜかというと、人間は100%完全に律法を守り行うことができないから。

人間は自分の努力や行いによっては神の前に「義」と認められる(律法を全て守り行う)ことができない存在

なのです。14

言うなれば、「人はみな罪人」であり、罪の罰を受けて当然な存在です。15

その罪の罰を免れるためには「罪の赦し」が必要となってくる訳ですが、その「罪の赦し」を与えるために、イエス・キリストが私たちの罪を身代わりに背負って、十字架にかかり、死んでよみがえられたと聖書は語ります。

そして、

イエスを私たちの救い主として信じ信頼し、イエス・神に付き従っていこうとするとき、神は私たちの罪を赦すだけでなく、律法を完全に守り行った存在とみなしてくれる(義と認めてくれる)

という訳です。

ここで、いくら強調してもし過ぎないであろうことは、

神の前で義と認められるのは私たち人間の努力や行いによるものではなく、あくまでもイエス・キリストを信じる信仰による

ということ。と聞くと、中には、

でも、「信じる」という行為も「行い」なんじゃないの!?

と思われる方がいらっしゃるかもしれません。確かに、捉えよう(定義の仕方)によっては、信じることも動作・行為の一つに入れることができるかもしれません。

しかし、キリスト教(聖書)において、「神の前に義と認められるのは人間の努力や行いによらない」というときの「行い」は「神の力や助けに頼ることなく、純粋に人間の能力・力だけで成し遂げた行い」という意味で使われています。

他方、イエス・キリストを「信じる」という言葉には、「自分の努力・能力・力だけでは罪を犯さない生活を送れない(自分の行いによっては自分を救えない)ことを認め、イエスこそが救い主であると信じ信頼する」ことが含まれています。

これはつまり、

キリスト教(聖書)においては「信じる」という行為を「行い」の中に含めることはできない

ことを意味します。16

あくまでも、

イエス・キリストを信じる信仰によって、神の恵みによって、私たちは神の前に義と認められる

のです(参照:ローマ人への手紙3章22-24節)。

ここで

注意事項が一つ。

恐らくですが、「イエスを信じる信仰によって神の前で義(正しい)と認められる」と聞くと、

それじゃあ、イエスを信じた後は自分の好き勝手に何でもやっても大丈夫(赦される、義とされる)ってことだよね!?

と思いたくなる(私のような)方がいらっしゃるのではないかと思います。

しかしながら、非情に残念なこと(?)ですが、

イエスを信じて義と認められたからといって、その後は自分の好き勝手に何でもやり放題な人生を送ってよい訳ではありません。

むしろ反対に、

神の恵みによってしか救われようがなかった罪深い自分を救ってくれた神・イエスに感謝しつつ、神の喜ばれるように生きる(これ以上、罪を犯さないように生きる)ことを求められています。

というのも、そもそものところ、元々の「信じる」ということの中には、

イエスを自分の主(しゅ)として信頼して付き従うこと、つまりは「それまでの自分中心だった(自分が人生の主であった)生き方から、神様を中心とした(神様を人生の主とする)生き方に改める」こと

が含まれているからです。17

別の言い方をすれば、

本当にイエスを信じているかどうかは、その後の(自分中心ではなく神を中心とした)態度・考え方・行為に自然と表れてくるはず

と言えます。18

この意味において、ヤコブという人物は次のようにかなり厳しい言葉を記しています。19

からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。【ヤコブの手紙2章26節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉461頁

神の子とされる(養子、adoption)

前節、前々節において、イエス・キリストを信じて罪の赦しと永遠の命を与えられ、罪がもたらす永遠の滅び(死)から救われた者は

  • 新しく生まれた者
  • 神の前に義(正しい)と認められた者

であることをみました。今節ではさらに、イエス・キリストを信じて救われた者は

  • 神の子とされた者

でもあることをみていきます。

ヨハネの福音書1章12節に次のように書いてあります。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる特権をお与えになった。【ヨハネの福音書1章12節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉175頁

「この方」というのはイエス・キリストのことですので、イエス・キリストを信じた人々には神の子供となる特権が与えられると言っていることになります(比較:ガラテヤ人への手紙3章26節;4章1-7節;ローマ人への手紙8章14-17節)。

「神の子供とされる」というのは、前節、前々節でみてきた「新しく生まれる」ことと「神の前に義(正しい)とされる」ことと本質的に異なります。20

  • 新しく生まれたというのは、造り主なる神によってもたらされる、イエス・キリストを信じた者の内面的な変化を表します。
  • 神の前に義とされたというのは、裁き主なる神に対する、イエス・キリストを信じた者の法的な立場・状態を表します。
  • 神の子供とされたというのは、父なる神との間における、イエス・キリストを信じた者がもつ特権を表します。

ですから、実際には有り得ない話ですが、「新しく生まれてはいるけど神の子供とはされていない」または「神の前に義(正しい)とされているけど神の子供とはされていない」ということも理屈の上では可能です。21

なお、「神の子」という表現そのものは、イエスがこの世に生まれる前に書かれた旧約聖書にも出てきます。旧約聖書で「神の子」と呼ばれる存在は以下になります。22

  • 天使たち(ヨブ記1章6節)
  • イスラエル民族(申命記14章1節)
  • イスラエルの王(サムエル記 第二7章14節;詩篇89篇26-27節)
  • イスラエルの祭司たち(マラキ書1章6節)

上記から分かることは、旧約聖書において、(天使たちはさておき)人間の中で「神の子」と呼ばれたのはイスラエル民族(王と祭司を含む)だけだったということ。

これはエジプトで奴隷状態にあったイスラエル民族を救い出した後に、神が彼らと結んだ契約に基づいています。その契約の主な内容は

神がイスラエル民族の神となり、イスラエル民族は神の民となる

というもの(参照:申命記29章13節;サムエル記第二7章24節)。23

しかしながら、イスラエル民族は自分たちを救ってくれた神に従うことをせず、自ら神と結んだ契約を破棄してしまいます。

にもかかわらず、神はイスラエル民族を見捨てることなく、彼らと新しい契約を結ぼうとします(参照:エレミヤ書31章31-34節;エゼキエル書36章16-32節)。

そして、この新しい契約の仲介役となるのが他でもないイエス・キリストであり、契約の対象はイスラエル民族だけでなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われた全ての人々となったのです(参照:へブル人への手紙8章6-13節)。

別の言い方をすれば、聖書全体を通して、

神との契約の下にいる者は、それが古い契約(旧約)であれ新しい契約(新約)であれ、神の子供とされる

ことになります。

従って、聖書の神を同じ「父」とするという意味において、イエス・キリストを信じて神の子とされた者は、イスラエル民族の信仰の父と呼ばれるアブラハムの子孫ということができます(ガラテヤ人への手紙3章26-29節)。

ちなみに、イエスも「神の(御)子」(ルカの福音書1章32節;ヨハネの福音書1章34節;ローマ人への手紙8章3節;ヨハネの手紙第一5章20節)と呼ばれます。

しかしながら、イエスは「神のひとり子」(ヨハネの福音書3章16節)であり、天地万物が創造される前から既に神の「御子」でした(コロサイ人への手紙1章15節)。

ですから、ある意味、養子縁組のようなかたちで、イエスを信じる信仰によって「神の子」とされた私たち人間(エペソ人への手紙1章5節)と比べると、イエスが「神の子」であることの意味合いは全く異なります(比較:ヨハネの福音書20章17節)。24

最後に、イエス・キリストを信じて神の子とされた者にもたらされる恩恵を以下に挙げておきます。25

  • 造り主なる神を自分たちの「父」として、親しい関係を築き、大胆に祈り求めることができる(マタイの福音書6章9-13節;エペソ人への手紙3章12節など)
  • 天にいる父なる神が、神の子たちにとって必要なもの・良いもの(自分が欲しいものとは限らない)を与えてくれる(マタイの福音書6章31-33節;ルカの福音書11章13節;ピリピ人への手紙4章19節)
  • 神の子として、天にある朽ちることのない資産を受け継ぐ「相続人」となる(ローマ人への手紙8章17節;ペテロの手紙1章4節;エペソ人への手紙3章6節など)
  • 父なる神の御霊(みたま)である聖霊によって、神の喜ばれる生き方ができるように導かれる(ローマ人への手紙8章5-14節)
  • 父なる神からの訓練を受け成長する(へブル人への手紙12章4-12節;参考:箴言3章11-12節)
  • 神の子として、神の御子イエス・キリストと苦しみ・苦難と栄光をともにする(ローマ人への手紙8章17節;比較:ルカの福音書24章26節)
  • イエスを信じて神の子とされた他の人たちとは「神の家族」となる(エペソ人への手紙2章17-19節)
  • 神に罪を赦され、壊れていた神との絆が回復したこと(神との和解が成立したこと)が、神の子とされることで、より深く実感できるようになる
  • 神に赦され愛されている神の子らしく、「神に倣う者」となることを求められる(エペソ人への手紙4章25節―5章1節)

まとめ

今回は「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか?」について考えました。

イエス・キリストに対して、罪の赦しと永遠の命を与えるために十字架で死んでよみがえった救い主であるという個人的な信頼を置く者は、
罪の赦しと永遠の命を与えられ、私たちの罪がもたらす永遠の滅び(死)から救われる

と同時に、大きく以下の三つのことが起きる・変わることをみました。

  •  新しく生まれる(新生、regeneration)
  • 神の前に義(正しい)と認められる(義認、justification)
  • 神の子とされる(養子、adoption)

初めの「新しく生まれる」というのは、

神に対して罪を犯したが故に滅びゆく状態にあった人間を創造時の状態に戻すため、根本的に全く新しい者へと造り変えられる

ことを意味します。特徴・特記事項としては、以下のような事柄が挙げられます。

  • 新しく生まれさせることができるのは天地万物の創造主である神ただ一人(人間の努力や才能で「新しく生まれる」ことは不可能)
  • イエスが再びやってくる世の終わり(最後の審判のとき)には、人間だけではなくこの世の全てが新しく造り変えられる(参照:マタイの福音書19章28節;ヨハネの黙示録21章1-5節;ローマ人への手紙8章19-22節など)
  • 人間の生まれ持った性質・性向の大変革を伴うもの(特に、自分のことではなく神のことを優先しようとする思いが生じるようになる)
  • 人生で一度だけ、瞬間的に起こる出来事(何度も繰り返して、断続的には起こらない)
  • 新しく生まれてからが成長の始まり(新しく生まれて終わりではない)
  • 超自然的で神秘的な現象(いつ、どのように起こる・起こったかといった詳しいことは分からないが、実際に起こったかどうかはその人にもたらされる変化によって判断することができる)

ちなみに、「新しく生まれる」と同じ意味をもった表現として、以下のようなものがあります。

  • 「神によって生まれた」(ヨハネの福音書1章13節)
  • 「御霊(みたま、即ち神の霊)によって生まれた」(ヨハネの福音書3章6節)
  • 「新しく造られた」(コリント人への手紙第二5章17節)
  • 「聖霊(神の霊)による再生」(テトスへの手紙3章5節)

次に「神の前に義(正しい)とされる」というのは、

イエスを私たちの救い主として信じ信頼し、イエス・神に付き従っていこうとするとき、神は私たちの罪を赦すだけでなく、律法を完全に守り行った存在とみなしてくれる(義と認めてくれる)

ことを意味します。

なお、神の前で義と認められるのは

私たち人間の努力や行いによるものではなく、あくまでもイエス・キリストを信じる信仰によるもの。

そして、

イエスを信じて義と認められたからといって、その後は自分の好き勝手に何でもやり放題な人生を送ってよい訳ではありません。

というのは、

本当にイエスを信じているかどうかは、その後の(自分中心ではなく神を中心とした)態度・考え方・行為に自然と表れてくるはず

だからです。

最後の三つ目、「神の子とされる」というのは、

父なる神との間における、イエス・キリストを信じた者がもつ特権

です。従って、前出の「新しく生まれる」「神の前に義とされる」とは以下の点で本質的に異なります。

  • 新しく生まれたというのは、造り主なる神によってもたらされる、イエス・キリストを信じた者の内面的な変化
  • 神の前に義とされたというのは、裁き主なる神に対する、イエス・キリストを信じた者の法的な立場・状態

「神の子とされる」ことに関する特記事項は以下の通りです。

  • 神との間の契約関係(仲介者はイエス・キリスト)が土台にある(ガラテヤ人への手紙3章26-29節)
  • イエスが「神の(御)子」と呼ばれることとは本質的な意味合いが異なる(ヨハネの福音書3章16節;20章17節;コロサイ人への手紙1章15節)
  • 造り主なる神を自分たちの「父」として、親しい関係を築き、大胆に祈り求めることができる(マタイの福音書6章9-13節;エペソ人への手紙3章12節など)
  • 天にいる父なる神が、神の子たちにとって必要なもの・良いもの(自分が欲しいものとは限らない)を与えてくれる(マタイの福音書6章31-33節;ルカの福音書11章13節;ピリピ人への手紙4章19節)
  • 神の子として、天にある朽ちることのない資産を受け継ぐ「相続人」となる(ローマ人への手紙8章17節;ペテロの手紙1章4節;エペソ人への手紙3章6節など)
  • 父なる神の御霊(みたま)である聖霊によって、神の喜ばれる生き方ができるように導かれる(ローマ人への手紙8章5-14節)
  • 父なる神からの訓練を受け成長する(へブル人への手紙12章4-12節;参考:箴言3章11-12節)
  • 神の子として、神の御子イエス・キリストと苦しみ・苦難と栄光をともにする(ローマ人への手紙8章17節;比較:ルカの福音書24章26節)
  • イエスを信じて神の子とされた他の人たちと「神の家族」として付き合うことができる(エペソ人への手紙2章17-19節)
  • 神に罪を赦され、壊れていた神との絆が回復したこと(神との和解が成立したこと)が、神の子とされることで、より深く実感できるようになる
  • 神に赦され愛されている神の子らしく、「神に倣う者」となることを求められる(エペソ人への手紙4章25節―5章1節)

以上で「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか?」についての紹介はひとまず終了します。

次回は下記の記事で「イエス・キリストを信じた後はどうする・どうなるのか?」について考えます。

イエス・キリストを信じて終わりじゃない!?―キリスト教(聖書)の救いの完成―
「イエス・キリストを信じる者は救われる」と聞くと「イエスを信じたら全てが終わりで、後はただ死を待つだけ」という気がしてしまいます。でも実は、イエスを信じてからが始まりなのです。今回は「イエスを信じた後はどうする・どうなる?」について考えます。

参考文献および注釈

  • CIAMPA, R. E. “ADOPTION.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  • Davids, Peter H. The First Epistle of Peter. 2nd edition. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
  • Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
  • Frame, John M. Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology. Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006.
  • GOLDSWORTHY, G. “REGENERATION.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  • McGrath, A. E. “Justification.” Edited by Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid. Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993.
  • Schreiner, Thomas R. 1, 2 Peter, Jude. The New American Commentary. Nashville, Tenn: Holman Reference, 2003.
  1. 「罪の赦しと永遠の命を与えられる」というのは、下記の一つ目の問い「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わるのか?」の答えとなります。
  2. キリスト教の学者(教団・教派)の間では、信仰と新生の順番(イエスを信じた後に新しく生まれるか、もしくは新しく生まれた後にイエスを信じるのか)に関する意見の違いがあります。この記事ではその順序には深くこだわることなく、「新しく生まれる」ことをキリスト教の教える「救い」の一部として考えます。信仰と新生の順番について、興味のある方は下記を参照ください。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 863–864; Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 702–704.
  3. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
  4. 詳細な説明については、例えば、下記参考文献の「ペテロの手紙 第一1章21節」の注解を参照。Peter H. Davids, The First Epistle of Peter, 2nd edition., The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990).
  5. 聖書(キリスト教)の神がもつ三位一体の性質について、興味のある方は下記のブログ記事を参照ください。「キリスト教(聖書)の三位一体説とは何か?聖書には書いてない!?矛盾してる?」
  6. 詳細な説明については、例えば、下記を参照。Thomas R. Schreiner, 1, 2 Peter, Jude, The New American Commentary (Nashville, Tenn: Holman Reference, 2003), 94–95.
  7. 「罪」についての詳細は下記のブログを参照ください。「人はみな罪人?キリスト教(聖書)の教える罪とは?―罪の定義と本質―」
  8. 詳細は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 873.
  9. 詳細は下記を参照。G. GOLDSWORTHY, “REGENERATION,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 720–721. 聖書の語る「世の終わり(終末)」について、興味のある方は下記の記事をご覧ください。「世の終わりは既に始まっている!?―キリスト教(聖書)の語る終末とイエスの再臨―」
  10. 詳細は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 873–875.
  11. 「罪」についての詳細は下記のブログを参照ください。「人はみな罪人?キリスト教(聖書)の教える罪とは?―罪の定義と本質―」
  12. 詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 722–735.
  13. 神の「義」と人の「罪」の関係について、興味のある方は、例えば、下記の記事を参照ください。「キリスト教(聖書)の神はどんな神?③―裁き主なる神の性質―:1.裁き主なる神の義(righteousness)」
  14. 人間のもつ罪深い性質について、興味のある方は下記の記事を参照ください。「なぜ人は罪を犯す?生まれながらに罪人?原罪とは何?―罪の原因―」
  15. 罪を犯した結果(罰)について、興味のある方は下記の記事を参照ください。「罪に程度や大小の違いはある?赦されない罪は?―罪の種類と結果―」
  16. 「信仰」と「行い」の関係に関連して、Grudemはなぜ「愛」や「喜び」や「満足」や「謙遜」ではなく「信仰」によって義と認められるのかという興味深い考察をしています。Grudem, Systematic Theology, 730–731.
  17. 詳しい説明は下記の記事を参照ください。「「信じる者は救われる」の語源はキリスト教(聖書)!?言葉の意味は?:2.「信じる者は救われる」の「信じる」の意味」
  18. 信仰と行いの関係に関して、興味のある方は下記を参照。A. E. McGrath, “Justification,” ed. Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid (Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993), 521–522; Erickson, Christian Theology, 890; John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 204–205.
  19. 詳しい解説は、例えば、下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 731–732.
  20. 詳細な説明は下記を参照。Frame, Salvation Belongs to the Lord, 207.
  21. 詳細な説明は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 738–739.
  22. 詳細は下記を参照。Frame, Salvation Belongs to the Lord, 134.
  23. 旧約聖書における契約関係に基づいた神とイスラエル民族の父子関係について、興味のある方は下記を参照。R. E. CIAMPA, “ADOPTION,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 376–377.
  24. 詳細は下記を参照。Frame, Salvation Belongs to the Lord, 134; Grudem, Systematic Theology, 737–738.
  25. 詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 739–742; Frame, Salvation Belongs to the Lord, 208–210; Erickson, Christian Theology, 893–895.
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告