「神を試す人々」:2022年7月31日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。

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導入

ここ最近の説教ではイスラエル民族がエジプトを出てからの旅路を見ています。

特に出エジプト記15章22節--17章7節には三つの出来事が記されていて、そのいずれの出来事においてもイスラエル民族はモーセ(神様)に不平を漏らしています

始めの出来事が記されている出エジプト記15章22-27節と今日の聖書個所(17章1-7節)では飲み水が無いことに対しての不平不満(15章24節; 17章2節)、16章では食べ物に関する不満です(16章2-3節)。

そのいずれの場合も

神様は不平不満を漏らす人々に罰を与えることなく、超自然的な方法で彼らの問題を解決してくださっています。

この三つの出来事がそれぞれいつ起きたのかについてみてみると、イスラエル民族はエジプト軍の全滅という奇跡を目撃してから1週間足らずで飲み水がないと不満を漏らします(15章22節)。

そこから三週間ほど経つと今度は食べ物がないと不平を言い(16章1節;比較:民数記33章3節)、さらにそれから1か月半のうちにまた飲み水がないとモーセに訴えかけています(出エジプト記17章1節)。

このような神の民イスラエル民族の姿をみていると恐らくは誰もが

神様が一緒にいれば大丈夫、神様さえ信じていれば何とかなる、ということがまだ分からないのかな、この人たちは…

と思いたくなるのではないでしょうか。

しかしながら、私たちはこのイスラエル民族を手放しで非難・批判することはできません。

私たちもまた彼らと同じように、神様に対して不平不満を漏らしたり、神様を試したりすることがないとは言えない

からです。大切なことは、

彼らの立場に自分を置き換えて考えてみること

だと思います。今日の聖書個所を通して特に、

なぜ私たちは神様を試すのか?

について考えながら、

神様とはどのようなお方か、また神様は私たちのどのように生きて欲しいと願っていらっしゃるか

を探りたいと思います。

神を試す人々

今日の聖書個所には神様を試そうとする人々の姿が描かれています。

とりわけ出エジプト記17章2節と17章7節をみると、

イスラエルの民は神様が彼らの間におられるのかどうかを試した

ことが分かります。

けれども、イスラエル民族は自分たちを導いている雲の柱と火の柱(参照:出エジプト記13章21-22節)を見ることによって、神様が自分たちと一緒にいることをいつでも確かめることができました

にもかかわらず、彼らは神様が自分たちの間におられるかどうかを試した訳ですから、それはただ神様が自分たちと一緒にいてくれるかというよりも、

神様が自分たちの要求・願いを聞いてくれるかどうかを試した

ということになります(比較:17章2節)。

なお、今日の個所の出来事を踏まえてモーセは後に申命記6章16節で、

マサで試したように、神様が自分たちの要求・願いを聞いてくれるかどうかを試してはならない

と言っています。

神を試す人々理由

イエス様はこの申命記6章16節の言葉を用いて悪魔の誘惑の言葉を退けておられます(マタイによる福音書4章5-7節)。

マタイによる福音書4章6節で悪魔は聖書を引用しながら、「お前が神の子であるなら、神殿から飛び降りて証明して見せろ」と言っています。

するとイエス様は「神様を試してはならない」とも書いてあると答えます(マタイによる福音書4章7節)。

このイエス様と悪魔とのやり取り、および今日の聖書個所の出来事を通して、私たちが神様を試す理由の幾つかを知ることができます。

第一に、

私たちが神様を試すのは現状に満足していないから

だと言えます。

イスラエル民族の場合は、神様が自分たちを導いてくださっているにもかかわらず、自分たちに十分な食料が与えられていないことに満足していませんでした。

だから、彼らは神様が自分たちの必要を満たしてくださるお方かどうかを試した訳です。

イエス様の場合、自分が「神の子」であるという現状(事実)はイエス様が誰よりもご存知です。誰からの承認も必要ありませんし、神殿から飛び降りて試す必要もありませんでした。

また、

私たちが神様を試すのは神様のことを信じ切れていないから

とも言えます。

イスラエル民族は明らかに

神様が自分たちに必要なものを必要なときに与えてくださる

ことを信じ切れていませんでした(比較:マタイによる福音書6章33節)。

さらに言えば、

神様が仮に必要なものを必要なときに与えてくださらず、自分たちの命を落とすことになるとしても、そこには神様の深淵なるご計画・御心がある

ということも信じ切れていませんでした(比較:ダニエル書3章17-18節;マタイによる福音書26章39節)。

それ故に彼らは、神様が本当に自分たちの飲み水を与えてくださるかどうかを試したのです。

イエス様の場合は、神様がイエス様を神様の時に神様の方法で助けてくださることを信じていました。

ですから、自分からあえて危険な状態を作り出して神様が本当に助けてくれるかを試す必要はありませんでした。

もう一つ、

私たちが神様を試すのは神様を自分の思い通りに動かしたいという欲求があるから

というのも忘れてはいけません。これは、

自分が神になりたいという欲求・欲望の裏返し

とも言えます。

このような「自分が神になりたい」「神様よりも自分を優先したい」という欲望・欲求は人間の罪深さの根源の一つとも言えます(比較:創世記3章1-6節)。

イスラエル民族の場合、彼らは神様が飲み物を与えてくださるタイミングを待つことができず、自分たちが望むタイミングで神様が飲み物を与えてくれるかどうかを試した訳です。

自分自身が神となり、神様のタイミングよりも自分たちのタイミングを優先しようとしている

姿を見て取れます。

対してイエス様は、神殿から飛び降りるという自分のタイミングにあわせて神様が助けてくれるように仕向けることはなさいません。

あくまでも

神様のタイミング、神様の方法を優先し、たとえ自分が死ぬことになったとしても神様の御心がなることを優先する

お方です(参考:マタイによる福音書26章39節)。

結論

私たちが神様を試そうとするとき、そこには少なくとも三つの事柄が関わっています。それらは、

  • 現状に満足していない
  • 神様を信じ切れていない
  • 神様を自分の思い通りに動かしたい(自分が神になりたい)という欲求がある

というもの。これら三つの事柄は互いに深くかかわっていますので、明確に分けることはできません。

自分が神になりたい。

全てを思いのままに操りたい。

欲しいものを欲しい時に欲しいだけ手に入れたい。

そのような欲求が満たされなければ、現状に満足できず、神様を試したくなります。

自分の無力さを認め、

イエス様の十字架と復活を信じることなしでは救いの道はないと信じ、

神様に全てを委ねて神様を信頼して歩もうとするならば、

神様を自分の思い通りに動かしたいという思いは起こりようがありません。

神様は自分に必要なものを神様のタイミングと方法で必ず与えてくださると信じて(委ねて)いれば、

今、自分が持っているモノ、自分に与えられているモノに満足することができます(比較:フィリピの信徒への手紙4章10-13節)。

あなたが今、満足していないコトは何でしょうか。
信じ切れていないコトは何でしょうか。

欲望・欲求をもつことは自然なことです。

神様に対して疑いや不平不満を感じることもあると思います(参考:ハバクク書1:2-4, 12-17)。

しかし、その思いが強くなり過ぎて、

イスラエル民族がマサで試したように、神様が自分たちの要求・願いを聞いてくれるかどうかを試そうとすると危険

です。

自分の持っていないモノ・コトではなく、既に与えられているモノ・コトに目を向けてみてください。
神様はもう既にあなたにとって最も必要なものを与えてくださっています。

それは、

あなたの造り主であり、あなたを誰よりも愛して止まない神様の子供とされるという祝福

です。そして、その祝福は

イエス様を救い主と信じることによって、神様の一方的な恵みによって与えられる

ものです。

あなたは天地万物の造り主である神様にとって、命に代えても惜しくないほどにかけがえのない存在、

他の人と取り換えることのできない唯一無二の存在です。

あなたの代わりとなれる人はいません。
神様はあなたのありのままを愛し、受け入れ、あなたを用いて、その偉大な救いの計画を実現しようとされておられる

のです。その道は決して楽なものではありません。

苦難や困難があります。

絶望や悲嘆に暮れることもあるでしょう。

自暴自棄になり、生きることさえ苦しくなる・どうでもよくなることもあるでしょう。

でも、

何があったとしても、

どんなときでも、

神様・イエス様はあなたと共におられます。

その姿は目には見えないかもしれません。

けれども、

聖書を通して、友人・知人を通して、自然を通して、様々なモノや出来事を通して、神様はその存在を明らかにしようとされておられます。

それもまた、あなたを愛しておられるから、あなたとの関係をより深いものにしたいと願っておられるからです。

その

神様の愛に気付かされ、神様に全てを委ね、イエス様と共に日々、歩み続けることができますように。

参考文献および注釈

  • Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
  • Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
  • Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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