なぜ日本でキリスト教が広まらないのか②:洗礼者(受洗者)の数が増えない理由

前回のブログ記事では、日本のキリスト教界における「1%の壁」の原因について考えました。

なぜ日本でキリスト教が広まらないのか①:キリスト教界の「1%の壁」とその原因
第二次大戦以降の約80年間、数多くのクリスチャンによる伝道・布教活動にもかかわらず、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことはありません。この「1%の壁」の原因は一体何なのか?なぜ日本ではクリスチャンが一定数以上、増えないのか?今回はこの疑問・問題について考えます。

詳細は上記ブログ記事に譲りますが、キリスト教界における「1%の壁」というのは、

第二次大戦以降の約80年間、数多くのクリスチャンによる伝道・布教活動にもかかわらず、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことがない

という事実を表す表現です。

この「1%の壁」の主な原因として、上記ブログ記事では以下の二つが考えられることを見ました。

  • 洗礼者(受洗者)の数が増えない
  • クリスチャンが教会に根付かない

これらの原因を更に深掘りすべく、今回および次回の二回に分けて、それぞれ

なぜ日本では洗礼者の数が増えないのか?
なぜ日本の教会にクリスチャンが根付かないのか?

について、プロテスタントの視点から大きく以下の三つの領域に分けて考えていきます。

  • 教会の体質に係る諸問題
  • 教会の指導者(牧師)に係る諸問題
  • 日本特有の伝統・文化に係る諸問題

なお、

一連のブログ記事は特定のキリスト教界の教派・教団・教会の宣教活動を非難・糾弾・批判する意図は一切ありません(私個人の牧師としての働きに対する反省は含みます)。

あくまでも、

キリスト教界に存在する「1%の壁」という現実に対して考え得る問題・課題を洗い出し、体系的に整理する

ことを目的としています。

全ての問題がある特定の教会・指導者に当てはまる訳ではありませんし、

ある問題が全ての教会・指導者に当てはまる訳でもありません。

また、

ブログ記事の内容はほぼ全て私独自の考えではなく、参考文献の内容を私なりに解釈して紹介したもの

となっています。

「1%の壁」に関する諸問題についての関連書籍を全て検証した訳ではありませんので、内容に偏りがあると感じる方がいらっしゃれば、参考書籍をご紹介いただけますと幸いです。

話の流れは以下の通り。

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教会の体質に係る諸問題


牧師中心主義な教会

日本において、

なぜ洗礼者(受洗者)の数が増えないのか?

について、「教会の体質」という視点から考えてみるとき、まず注目したいのが

教会における牧師の位置づけ

です。1

日本の教会は、良くも悪くも、「牧師が全て」

なところがあると個人的には感じています。

実際、ある人にどこの教会に行っているのかを尋ねると教会名(××教会)ではなく

○○先生(牧師)の教会

と答える人は少なくありません。

この答えの背景にあるのは、どこの教会に行っているかよりも、

誰が牧師を務めている教会に行っているかが重要

だという考え方です。

もちろん、牧師は教会の指導者的役割を担いますので、誰が牧師を務めているかは教会を選ぶときに重要な要素の一つとなります。

また、日本では一つの教会に複数の牧師がいることは例外的で、一つの教会には牧師が一人(または牧師夫婦が一組)だけというのが大多数です。

そのため、

教会=牧師(夫婦)

とみられても致し方ないところがあります。

しかし、誰が牧師をしているかを第一に考えて教会を選ぶ人の中には、その

牧師が何らかの理由(召天や異動)でその教会からいなくなると、その教会に通うのを止める人も一定数存在する

ように思います。

こうなると、極端な話、

その人は神様につながっているのではなく、人(牧師)とつながっているのではないか

と疑わしく思えてしまいます。

また、牧師を理由に教会を選ぶ人は、

良くも悪くも、その牧師に傾倒している

ところがあります。

その傾向が強くなると、その牧師の言うこと・教えることが絶対に正しく、それ以外の人の言うこと・教えることに耳を傾けようとしなくなってしまうといったことも起こりかねません。

そうなると、ある意味、

牧師が「神格化」され、神様ではなく牧師が崇拝される

ことになってしまいます。2

そのような牧師また教会の状況を客観的かつ冷静に見ることができる人は、その教会の一員になろうとはしない(洗礼を受けようとはしない)でしょう。

また仮に、その牧師に圧倒的なカリスマ性があって、その牧師によって多くの人が洗礼を受けるようになったとしても、その人の信仰は実際のところ、神様に対してではなく、その牧師に対するものかもしれません。

その牧師が教会からいなくなったり、その牧師の言動に不満を覚えるような出来事があったりすると、教会に通わなくなってしまうことも十分にあり得ます。3

いずれにせよ、

「牧師が全て」な教会は、牧師に依存してしまう信徒が多くなる

傾向があります。

それ故に、

牧師が「神格化」されやすく、集う信徒の信仰は神様に対してではなく牧師に対するものとなってしまう

可能性を含んでいます。

このような「牧師中心主義的な教会」のもう一つの特徴は、

牧師以外の人々があらゆる面で受け身的

だということです。4

教会全体に染み渡った受け身的な態度は伝道(布教)・牧会の面で色濃く現れます。

それは

伝道・牧会は牧師の仕事だから、信徒はただ黙ってみていればよい

という態度です。

このような、牧師一人(もしくは牧師夫婦一組)に依存する伝道・牧会体制では、教会はある程度以上、決して大きくなれません。

一人(一組)で伝道・牧会できる範囲(人数)には物理的・時間的な制約がある

からです。

事実、日本のプロテスタント教会において、一教師(牧師や宣教師)当たりの信徒数が約64.5人なのは、信徒の教師に対する依存度(もしくは教会の牧師中心度)の高さを表していると言えます。5

他方、カトリックでは一教師(司教や司祭など)当たりの信徒数が約338.5人となっているのは、教師だけでなく教会全体で組織的に伝道・牧会していることを反映しているように思います。6

牧師が何でもする教会(信徒が何もしない教会)は、牧師が元気なときは良いですが、

牧師が疲れを覚えてくると立ち行かなくなってしまいます。

特に牧師は孤独な職業です。

信徒の相談にのることはあっても、自らの問題を信徒に相談することはまずありません。

一旦、牧師が疲れを覚え、ストレスに押しつぶされ、燃え尽きてしまうようなことがあれば、牧師に依存している教会は立ち直りようがありません。

日本の教会全体を覆う疲労感や閉塞感の原因の一つには、このような「牧師中心的な」教会の体質があるように思います。7

牧師・宣教師だけでなく、信徒も含めた教会全体が伝道・牧会をする

ようになれば、日本の教会はもっと活気にあふれ、洗礼者の数も増えていくでしょうし、教会員の数がある特定の牧師に進退に大きく依存することもなくなるのではないかと個人的には考えます。

自己中心的な教会

日本の教会の体質の一つして、教会自体の自己中心性を挙げることができます。8

ここでいう「教会自体の自己中心性」というのは、

教会が自分の教会もしくは教団・教派のことだけを考えて、他の教会もしくは教団・教派とあまり協力しようとしない傾向

を指します。

日本には教会(および教会員)の数の少ない教団・教派が多数存在していますが、それは

各教団・教派・教会がそれぞれに独立して活動することを好む

結果だと思われます。9

ただでさえクリスチャン人口が少なく、教会に集う信徒数も少ないプロテスタント教会が、その地域の必要に単独で答えていくことは不可能です。

とりわけ、現代の社会は多様性が重んじられる社会です。

多種多様な社会のニーズに一つの教団・教派・教会で答えることは到底できません。

教団・教派を超えた宣教協力がこれまで以上に求められる時代だと言えます。

日本にある数多くのプロテスタントの教団・教派がお互いの長所を生かし合い、短所を補い合い、現代の地域社会の必要に答えていく

ことで、キリスト教界全体の受洗者の数は増えていくのではないかと思います。10

知識中心主義な教会

江戸時代の末期に日本が開国してから日本で初めてプロテスタントのクリスチャンとなった人の多くは武士階級だったと言われています。11

武士階級は当時の特権階級でした。

そのため、

最初の日本のプロテスタント教会は特権階級が集まる教会

となりました。

それは即ち、一般大衆からすれば「敷居の高い」教会でもありました。12

現代においても、教会というのはどこか一般人とは異なる清らかで高貴な「聖人」が集まる場所といったイメージがあるのは、この歴史的な経緯が関係しているかもしれません。

また、武士階級は知識階級でもありましたから、

教会は学びの場所(牧師が信徒に教える場所)

となっていきます。13

そのことは英語のchurchを日本語で「教会」、即ち「教える会」と訳したことや牧師を「先生」と呼ぶことにも表れています。

牧師が語る聖書のメッセージ(英語でsermon)も「説教」、つまりは「教えを説く」と訳されています。

教会に集う人たちが特権階級かつ知識層ということで、

牧師の説教は単純で分かりやすいものよりも難しいものの方が好まれる

ようになります。14

結果、

教会は学校のようになってしまいます。

実際、日本の教会はかつて「学生の教会」または「議論する教会」と呼ばれ、多くの学生が集まっていました(最近は、学生はもちろん、若い世代の人々をほとんど見かけなくなっています)。15

彼らの多くは学生時代には熱心に聖書を学び、洗礼も受けますが、大学を卒業して社会人となったり、結婚して家族ができたりすると教会に来なくなり、「卒業信者」と揶揄されたりします。16

「卒業信者」と呼ばれる人たちにとってキリスト教はある意味で、

若いときに興味惹かれる外国の思想(青年時代の理想)の一つ

に過ぎなかったのかもしれません。

そのため、

実生活の問題・課題に対して、問題・課題を一見、キリスト教よりも上手に解決してくれる思想・考え方に出会うと、そちらの方に流されてしまう

訳です。

いずれにしても、

知識偏重型で実生活の問題・課題からかけ離れた教えに魅力を感じて教会に来る人は決して多くない

と思われますから、洗礼を受ける人の数が多くない(増えない)のも納得ができます。17

また、仮にそのような限られた人の中から洗礼を受ける人がいたとしても、その理解のほとんどは観念的・理想的なものに留まっているのでないかと思われます。

一旦、

実生活の問題・課題に直面すると、それらの問題・課題に対して有効な解答・解決を与えてくれないキリスト教(教会)から離れていく

人がいたとしても不思議ではありません。

求められているのは

一般大衆の生活(現実)に根差したキリスト教理解かつ実践

だと感じるのは私一人ではないと思います。18

専門用語が乱立する教会

教会に何度か足を運んだことのある方は経験があると思いますが、教会では

「罪(つみ)」

「罪人(つみびと)」

「贖(あがな)い」

「贖罪(しょくざい)」

「救い」

「交わり」

「献身」

「奉仕」

といった、普段の生活ではまず聞くことのない言葉をたくさん耳にします。

加えて、キリスト教において重要な

「神」

「愛」

「罪」

といった概念は、日本社会で一般的に認識されている概念とは大きく意味合いが異なるものばかりです。

もちろん、

仏教や神道などにも日常生活ではまず耳にすることのない宗教的専門用語はありますし、

一般的な理解とは意味合いの言葉が用いられている場合もあります。

このため、

専門用語(訳語)の問題はキリスト教に限った話ではありません。

しかしながら、

初めて教会に来られた方やキリスト教についてよく知らない方に対して気配りや配慮を一切することなく、

これらの専門用語を教会内の当たり前の共通言語として用いるのであれば、

「敷居」はどんどん高くなるばかり

です。

教会内においても身内だけに分かる言葉(宗教用語)で話すのでなく、

誰が聞いても分かる言葉(日常生活用語)で話すように心がける

必要があるのではないかと思います。19

「神の国」を語らない教会

日本のプロテスタント教会の中には、先にも見たように、知識偏重型でキリスト教を観念的に理解することを好む傾向のある教会が存在します。

このことは、世の中の社会問題(現実)にあまり関心を示さず、教会が大きくなることに注力してきた戦前、戦中のキリスト教界の歴史とも重なります20

しかしながら、

聖書の神様は、教会がこの世の中の社会問題(現実)を無視して、教会内に沢山の人が集まることだけに注力することを決して望んではおられません。

というのも、イエス様は「主の祈り」(マタイによる福音書6章9-13節)において、

天だけでなくこの地の上にも「神の国」が来るように祈ることを勧められておられる

からです(マタイによる福音書6章10節)。

しかもイエス様はただ弟子たちに神の国がこの地の上に来るように祈ることだけを勧めた訳ではありません。

イエス様は実際に「神の国」がこの地の上に来るように、

人々から悪霊を追い出し、

病をいやし、

当時の社会において行き場のない人や虐げられている人、いわゆる「社会的弱者」と進んで関係を築き、

彼らの「友」となられました(例:マタイによる福音書4章23-24節; 9章9-13節)。

教会内に多くの人が集い、神様を礼拝することはもちろん大切なことです。

と同時に、

教会に集う人々(クリスチャンたち)がこの地の上に「神の国」が来ることを祈りつつ、実際にこの世の社会のひずみや歪みを是正するために行動を起こす

ことも求められています。21

日本の教会では「神の国」について、あまり語られてこなかった

ようです。

その理由の一つは恐らく、

日本の教会が戦時中、「神国日本」を掲げる日本の軍国主義との衝突を避けようとした

からではないかと思われます。22

戦後においても、「神国日本」という伝統的な考え方との対立・衝突を避けようとする意識がどこかで働き、「神の国」に関する神学が発展しなかったのかもしれません。23

なお、日本のプロテスタントの中で最も信徒数の多い日本基督教団の中には「教会派」と「社会派」の対立が存在しています。24

「教会派」は社会問題の解決よりも教会が大きくなることを主目的に置きますので、内向き志向で自己閉鎖的になりがちです。

「社会派」は教会が大きくなることよりも社会問題の解決に重きを置きますので、外向き志向ではありますが、特定のイデオロギーと結びつきやすい傾向があります。

現代社会は多様性が重視される社会、多様な価値観・考え方を尊重することが求められる社会

となっています。また

社会問題や環境問題に関心のある若者が増えてきている

と言われています。25

このため、

社会問題や環境問題にあまり関心を示さず、内向きで自己閉鎖的な教会に魅力を感じる人は少ない

ように思います。

と同時に、

特定のイデオロギーと結びつき他の価値観・考え方を認めない教会に対して好意・共感を覚える人も少ない

のではないかとも思います。

問題は「教会派」と「社会派」のどちらが正しい・優れているかではありません。26

「神の国」が神様によってもたらされるときが来るまで、この世において教会が「神の国」の在り方を語り、「神の国」の到来を祈り求め、「神の国」を広げていく

ことではないかと思います。27

アイデンティティを見失う(日本社会に迎合する)教会


日本におけるクリスチャンは圧倒的少数派です。

100人集まって、その中の一人がクリスチャンであればよい方

です。このため、

教会自体が知らず知らずのうちに世の中に迎合していく

ことがあったとしても不思議ではありません。

しかしながら、

教会において「神の国」についてもっと語られるようになれば、日本社会に迎合しようとする流れ(プレッシャー)にある程度の歯止めがかけられる

のではないかとも思います。

というのも、「神の国」がどういうものかを考える・語るときには必然的に

神様とはどういうお方か

神様と私たちクリスチャンとの関係はどのようなものか

教会(クリスチャン)とはどういう存在なのか

といった事柄に向き合うことになりますし、そうすることで、

私たちクリスチャンの存在そのもの(Being)に目を向ける

ようになるからです。

私たちクリスチャンの存在そのもの(Being)について目を向け続けている限り、少なくとも、

クリスチャンの存在(Being)と相容れない世の中の流れに知らないうちに流されるようなことはなくなる

と思います。

反対に、教会の中で

教会を大きくする(受洗者を増やす)にはどうすればよいか

教会が地域に社会貢献するにはどうすればよいか

クリスチャンとしてどう生きるべきか

といった

方法論(Doing)ばかりが語られるようになってしまうと、自分たちのアイデンティティ(Being)を見失う

ことになりかねません。

仮に教会(クリスチャン)がそのアイデンティティを失ってしまうならば、その教会は例えば、

神様中心ではなく人間中心な教会
物質主義的で律法主義的な教会

となってしまいます。28

そうなると、そのような教会と世の中の他の組織・団体との間に大した違いはなくなりますので、教会でわざわざ洗礼を受けようとする人は少なくなるのではないかと思います。

大切なのは

BeingとDoingのバランスを取る

ことです。

「神の国」を語ることは、そのバランスを保つための一助を与えてくれる

ように思います。

「異教」の雰囲気が漂う教会

前項で考えたのは、圧倒的少数派であるが故に周りの社会(世の中)に流されてしまう教会の場合でした。

しかしながら、日本のキリスト教会の中には

圧倒的少数派であるにも関わらず(あるが故に?)、その中に閉じこもり、日本的なものを否定・拒絶してしまう教会

もあります。

その一因としては、

外国から来た宣教師たちが日本的な文化・慣習を「異教」として否定・拒絶してしまった

ということが挙げられます。29

とはいえ、これは

宣教師たちだけの責任ではありません。

というのも、特に戦前戦後は、キリスト教に限らず、「外国に追いつけ追い越せと」いう雰囲気で、

外国の文化・慣習を新しくて善いものとし、日本的なものを古くて悪いものと決めつける傾向が少なからずあった

ことは否めないからです。

そのような雰囲気の中で、

日本的な文化を真っ向から否定・拒絶し、欧米の文化に根差したキリスト教こそが正統・真理だとする風潮が生まれてきた

と考えられます。

その結果、例えばですが、

日本の昔ながらの住居(和室)に集まって礼拝するときでさえ、畳の上に椅子を並べて礼拝するということが当然

とされてきました。

聖書の中に「礼拝するときは椅子に座らなければならない」という規定・律法はないにもかかわらず、です。

言うなれば、良くも悪くも、日本のキリスト教には

欧米の文化に根差したキリスト教をそのまま「移植」しようとしてきた

経緯があるように思います。

そのために、日本的な文化・慣習を否定・排除し、可能な限り、欧米人がやっている通りのことを日本で再現しようとしてきた訳です。

とはいえ、日本的なものを完全に消し去ることはできませんし、外国でやっている通りのことを完全に再現することもできません。

結果、

教会の中には日本でも外国でもない、ちょっと変わった「異質」な空間、「異教的な違和感」

が醸成されるようになりました。

日本的な文化・慣習を「異教」として否定・拒絶してきたために

一般的な(圧倒的多数のクリスチャンではない)日本人からはかえって「異質」「異教」として見られるようになってしまった

訳ですから、非常に皮肉な出来事だと言えます。

もちろん、「そのような異質・異教的な雰囲気が好き」という方はいらっしゃるとは思いますが、やはり多くの日本人にとっては少し馴染み切れない雰囲気なようにも思います。

その意味でも、日本に必要なのは欧米の文化に根差したキリスト教ではなく、

聖書に記される真理(この真理も当時の文化背景に基づいて表現されています)を日本の文化背景の中で再解釈し、日本の文化・慣習に無理のない形で適用・展開していく

ことではないかと思います。30

そうしていく中で、

聖書の真理に基づいた新しい日本的な文化・慣習が生まれていく

ことを期待します(そのためには日本のクリスチャン人口が相当数を占める必要がありそうですけど…)。

教会の指導者(牧師)に係る諸問題


前節では教会の体質に係る諸問題という視点から日本の教会に洗礼者の数が増えない理由について考えました。

今節では教会の指導者(特に牧師)に係る諸問題という視点から日本の教会に洗礼者が増えない理由を考えます。

なお、ここに挙げる諸問題は

特定の指導者(牧師)を指すものではなく、あくまでも日本のキリスト教界全般にみられるであろう諸問題

としてご理解ください。

特定の個人(または教団・教派・教会)を非難・糾弾・批判する意図は一切ありません(個人的な反省は含みます)。

未成熟な人格

牧師も人の子、イエス様を信じる信仰によって、その罪が赦された罪人に過ぎません。31

とはいえ、聖書には教会の指導者(長老、監督、執事・奉仕者など)は人格・性格的にも非難されるところのない人であるべきと記されています(テトスへの手紙1章6-9節;テモテへの手紙一3章1-13節)。

そのため、

牧師になりたいからといって誰でもすぐに牧師になれる訳ではありません。

それぞれの教団・教派・教会において、何らかの審査・選考・試験があるところがほとんどです(単立の教会の中にはこのような審査・選考・試験のないところもあります)。

ただ、その審査・選考・試験も人間が行うものですから完全・完璧な訳ではありません。

そもそものところ、

人格・性格的に誰からも非難されるところのないというのは正直、かなり難しい条件

とも言えます。

実際問題、

教会には様々な状況・環境、立場、年齢の人がいらっしゃいますから、考え方や感じ方も千差万別

です。

その中には

牧師(指導者)の対応に不満を感じる人もいらっしゃいます。

牧師(指導者)の考え方や言動に疑問を覚える人もいらっしゃいます。

牧師(指導者)の何気ない一言に傷つく方もいらっしゃいます。

ある意味、

人間関係で何らかの問題が起きるのは避けられない

ことだと言えます(イエス様も万人から好かれた訳ではありません)。

問題が起きないようにするのも大事ですが、それよりも大切なことは、このような

不満や疑問、心の傷を負った人ときちんと話し合って、不満や疑問を解消できるかどうか、心の傷を少しでも回復に至らせることができるかどうか

だと思います。

その過程においては

当事者同士の人格・性格的な成熟度(例えば、冷静さ、思慮深さ、柔和さ、寛容さ、冷静さ、自制心の有無など)が試されます。

人が牧師(指導者)に「つまずき」、教会を離れるとき、その大きな原因の一つには間違いなく、

牧師(指導者)が人格・性格的に成熟していない

ことがあると言えます(私自身への自戒の言葉でもあります)。

不十分な聖書理解と実践神学

現代においては日本に限らず、牧師になろうとする人はどこかの神学校に行って専門的な教育・訓練を受けるのが一般的です。

しかしながら、

神学校にも色々な特色や強調点の違いがあります。

学問的なこと(神学)に重点を置くところもあれば、実践的なこと(伝道、牧会)を強調するところもあります。

学問的なことに重点を置く神学校を卒業して牧師になった人はどうしても「頭でっかち」になる傾向があります(私自身はこのタイプです)。

そのため、やることなすことが

現実の問題に対応できず、空回りしてしまう

ことが多いと思います。

そのような牧師(指導者)に振り回されることで、教会や牧師(指導者)に対して不平・不満・疑問をもつようになる人々が出て来ても不思議ではありません。

反対に、実践的なことに重点を置く神学校を卒業して牧師になった人は色々なノウハウ(方法論)を知っていますから、一見、非常に頼りがいがあります。

けれども、そのノウハウ(方法論)の裏付けとなる聖書の真理(神学)を当の牧師がしっかりと理解していなければ、その方法論が想定してしない不測の事態が起きた時には対応しきれなくなりますから、

その実践は表面的なもので終わってしまいます。

また、そのノウハウ(方法論)が本当に聖書の真理(神学)に根差したものであるかを絶えず吟味しなければ、

教会全体が世的な価値観・考え方に支配される

ようにもなりかねません。

大事なことは

学問的な知見と実践的な手法をバランスよく体得する

ことだと思います。

とはいえ、これは一朝一夕でできることではありません。

現実問題、

神学校の間の限られた期間内で学問と実践のどちらもバランスよく体得することは難しい

のではないかと個人的には感じます。32

理想としては、

神学校の間は学問的なことに重点を置き、卒業後にどこかの教会で研修生や伝道師(見習い牧師)として実践的な経験を積む

のが良いのではないかと思います。

とはいえ、牧師の数が不足している現在の日本のキリスト教界では、神学校卒業後に(知識・経験共に不十分なまま)直ぐに牧師として働き始めざるを得ない場合がほとんどというのが実情だと言えます。

未確立な教会観・教会論


神学校では聖書神学や組織神学、実践神学などなど色々なことを学びます。

その中でも特に組織神学の分野には「教会論」というものがあります。

一言で言えば、「教会とは何か?」について聖書を基に論じる学問分野です。

個人的には、その中で、前節で挙げたような

現在の日本のキリスト教会の体質に係る諸問題を取り上げて、どのような教会形成を目指すべきか、教会の本来あるべき姿は何かといったことが議論されれば素晴らしい

と思うのです。

が、実際のところは

神学校において(私の通った神学校でもそうでしたが)、「教会論」に対してそれほどの時間が割かれることは少ない

のではないかと思います。

また、現実問題として、

いざ牧師として働き出すようになると、目の前に次から次へと現れてくる問題に対処することに精一杯

になってしまいます。

結果、「教会とは本来どうあるべきか」といったことをしっかりと考える暇もなく、日々の働きに追われてしまうようになります。

つまりは、

牧師の中に確固たる教会観・教会論が形成されないまま、教会での働きを続ける

ことになります。33

言うまでもないことですが、教会内外で日々、生じる様々な問題に対応することは重要なことです。

牧師の中に確固たる教会観・教会論が形成されていなくても、多くの問題に対処することはできるとも思います。

が、しかし、

それらの問題の中に先に挙げたような教会の体質に起因するものがあるとすれば、教会の体質そのものが変わらなければ根本的な問題解決には至りません。

遅かれ早かれ、同じような問題が再発してしまいます。

根本的な問題解決が成されるためには、

(神学校などで)教会の本来あるべき姿がもう少し議論され、それが指導者たちの間で共有され、キリスト教界に浸透していくことが必要

ではないかと思います。

難解な(実践に乏しく知識偏重な)説教

前節の「知識中心主義な教会」でも取り上げましたが、日本においてプロテスタントは知識階級(武士階級)を中心に広がっていきました。

それに伴い、教会は学びの場所(牧師が信徒に教える場所)となり、

牧師の説教は単純で分かりやすいものよりも難しいものの方が好まれる

傾向が出てきました。

日常生活においてクリスチャンとして生きるときに役立つ実践的な知識・知恵よりも観念的・抽象的な知識・知恵が語られる教会が多くなってきた訳です。34

しかしながら、前々項「不十分な聖書理解と実践神学」でもみたように、

実践的な知識・知恵も観念的・抽象的な知識・知恵もどちらも重要

です。どちらか一方にだけ偏ってしまうと、それはそれで問題が生まれてきます。

特に

観念的・抽象的な話ばかりだと、まだキリスト教に馴染みのない人はなかなか理解できません。

またクリスチャンとして長く生活していても、実生活とあまり関係のない話(説教)ばかりを聞いていては

本当の意味で信仰に生きた生活をすることは難しくなってきます。35

極端な話、神様・イエス様・聖書のことを考えるのは日曜日に教会に来た時だけという「日曜クリスチャン」となってしまいます。

説教の中で聖書の真理を解き明かすだけでなく、解き明かした真理を土台として日々、どう生きる必要があるかまで具体的に指し示すことが必要

ではないかと思います。36

日本特有の伝統・文化に係る諸問題


これまでは日本の教会に洗礼者の数が増えない理由について、

  • 教会の体質
  • 教会の指導者(特に牧師)

という教会内部に係る諸問題という視点から考えてきました。

最後に、

  • 日本特有の伝統・文化

という教会外部に係る諸問題という視点から日本の教会に洗礼者が増えない理由をみていきます。

日本のナショナリズム(日本至上主義)

古屋氏が指摘する「二十年周期説」によると、

日本のキリスト教史は明治維新以降の1868年から1985年まで、約二十年の周期で「国際主義(Internationalism)」と「国粋主義(Nationalism)」の時代交代を繰り返している

と考えることができます。37

「国際主義」の時代は、日本がキリスト教に限らず海外のものを積極的に取り入れようとする時代

で、キリスト教の布教にとっては追い風となる「良い時代」です。

反対に

「国粋主義」の時代は国際主義の反動として、キリスト教を含む海外のものが排除・軽視され、日本的なものが重んじられる時代

で、キリスト教の布教にとっては向かい風で「悪い時代」と言えます。

こうした「国粋主義」と呼べるものは、見方を変えると

「島国的劣等感」

「西洋コンプレックス」

「『和』を重んじる文化」

「和魂洋才」

といった表現をもって現れることもあります。38

いずれにしても、

日本人もしくは日本全体に根付いていると思われる日本至上主義的な考え方・世界観

が日本でなかなか洗礼者が増えないことの一つの大きな理由となっているのではないかと思います。39

 「宗教」に対する否定的なイメージ

これは日本のいわゆる伝統・文化とは(まだ)言えないところがありますが、ここ20-30年のニュースを振り返ってみると

1995年の「地下鉄サリン事件」

2022年の「安倍元首相襲撃事件」

などをきっかけにして、

キリスト教に限らず、宗教全般に対する否定的なイメージが広がっている

ように感じます。

特に最近は「宗教二世」の問題も取り沙汰されています。40

また、NHK放送文化研究所の調査では、

「宗教は平和より争いをもたらすことの方が多い」と思う人が1998年、2008年、2018年でそれぞれ52%、42%、42%を占め、そう思わない人(それぞれ11%、17%、13%)を大幅に上回っている

そうです。41

さらには、築地本願寺が2023年2月に実施した「宗教や仏教に関する意識調査」によると、

ここ最近で「宗教」への不信感が高まった人は全体の39.7%に達し、「宗教」に対して「マインドコントロール」「胡散臭い」「怖い」「お金」といった否定的なイメージ

が挙げられています。42

こうした

日本における昨今の宗教全般に対する否定的なイメージ

がキリスト教の広がりを妨げる一つの要因となっていると考えることができると思います。

が、これを逆に

キリスト教と他の「宗教」との差異を明確にするチャンス

と捉えるならば、キリスト教が広がるきっかけになり得るとも思います。

まとめ

今回はキリスト教界における「1%の壁」の主な原因の一つと考えられる

洗礼者(受洗者)の数が増えない

ことについて、教会の体質、教会の指導者(牧師)、そして日本特有の伝統・文化という三つの視点から考えました。

結果、以下のような諸問題が複雑に絡み合っていると言えます。

  • 教会の体質に係る諸問題
    • 牧師中心主義な教会
    • 自己中心的な教会
    • 知識中心主義な教会
    • 専門用語が乱立する教会
    • 「神の国」を語らない教会
    • アイデンティティを見失う(日本社会に迎合する)教会
    • 「異教」の雰囲気が漂う教会
  •  教会の指導者(牧師)に係る諸問題
    • 未成熟な人格
    • 不十分な聖書理解と実践神学
    • 未確立な教会観・教会論
    • 難解な(実践に乏しく知識偏重な)説教
  • 日本特有の伝統・文化に係る諸問題
    • 日本のナショナリズム(日本至上主義)
    • 「宗教」に対する否定的なイメージ

なお、冒頭でも述べましたが、

今回(そして次回)のブログ記事は特定のキリスト教界の教派・教団・教会の宣教活動を非難・糾弾・批判する意図は一切ありません。
私自身の牧師・伝道師としての経験を振り返ってみても、できていない部分が多々あります。

このため、この記事の内容は自分自身の働きに対する反省の意味合いが強いものとなっています。

と同時に、

多くの牧師・宣教師の方々にとっては既に分かり切ったこと

でもあると思います。

事実、

ここに書いてあるようなことは散々考え、議論して、状況を改善するために色々と試したけれども上手くいかなかった

という経験をお持ちの方も多数いらっしゃると思います。

そのような経験をお持ちの方の多くは、つまるところ、

全てを益としてくださる神様に委ねつつ、自分にできること・任せられていることを地道にやるしかない

と感じていらっしゃるのではないかと思いますし、個人的にもそう思います。

とはいえ、それでも、

現状のキリスト教界の諸問題を洗い出し、体系的に整理することには意義がある

と信じて、このブログ記事を書いています。

…と、かなり言い訳がましくなってしまいましたが、次回は

クリスチャンが教会に根付かない

ことについて、今回同様、教会の体質、教会の指導者(特に牧師)、そして日本特有の伝統・文化に係る諸問題という三つに加え、本人に係る諸問題という視点も交えて考えます。

ご興味がある方は是非、ご覧ください。

今回(そして次回)のブログ記事の内容を通して、

より多くの人たちが日本のキリスト教界における問題・課題を(再)認識し、現状打破に向けて何らかのアクションを起こすきっかけを掴む

ことができれば至福の喜びです。

参考文献および注釈

  1. この項の内容については主に下記を参照。古屋安雄, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教 (Tōkyō: 教文館, 2009), 37–41.
  2. 古屋氏はこの現象を「内なる天皇制」と呼んでいる。古屋, 40–41.
  3. ここには次回のブログ記事で考える「クリスチャンが教会に根付かない」理由の一つを見て取ることができる。
  4. 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 37–39; 古屋安雄, 日本のキリスト教, 再 (教文館, 2003), 201–2.
  5. 東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, ed., FCCブックレットNo.12 データブック2023『神の国の広がりと深化のために』 (東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 2023), 35.
  6. 東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 35.
  7. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか : 共同研究 (東京: いのちのことば社, 2012), 14.
  8. 古屋, 日本のキリスト教, 202–3.
  9. 2020年時点で日本には190のプロテスタントの教団・教派、グループが存在し、その内の約半数(91教団)は所属教会数が10以下である。また教会数が上位50の教団・教派に全体の80%以上の教会が属している。東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, FCCブックレットNo.12 データブック2023『神の国の広がりと深化のために』, 47, 51.
  10. 2009年9月の「第5回伝道会議」において、竿代師が同じような趣旨の提言をしている。東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 172.
  11. 古屋安雄, 宣教師―招かれざる客か? (教文館, 2011), 30–31.
  12. 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 34.
  13. 詳細な説明は下記を参照。古屋, 35–37; 古屋安雄 and 大木英夫, 日本の神学 (東京: ヨルダン社, 1989), 215–16; 古屋, 日本のキリスト教, 200–201.
  14. 対照的に、現代の日本の教会では説教の難しさに問題を感じる人が多くなっていると思われる。研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 17.
  15. 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 35–36.
  16. 古屋, 18, 37.
  17. 古屋氏は、最近の若者は特に観念的な理解よりも経験的な理解を好む傾向があると指摘している。古屋安雄, キリスト教新時代へのきざし: 1パーセントの壁を超えて (カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所, 2013), 92–93.
  18. 古屋氏と大木氏は大衆向けの伝道によって「せめて十パーセント」のクリスチャン人口を目指すように提言している。古屋 and 大木, 日本の神学, 217–20; 「正しい教理」だけでなく「正しい実践」も必要であることについて、興味のある人は下記を参照。古屋, キリスト教新時代へのきざし, 93–97.
  19. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 18; 櫻井圀郎, 「異教としてのキリスト教」からの脱却 (東京: リバイバル新聞社, 2004), 100–101.
  20. 日本にプロテスタントが伝わった直後は教会も社会福祉活動に熱心だった。けれども、その後の日本政府の思想的弾圧などによって、次第に社会問題を扱わなくなり、軍国主義と衝突しない弁証法神学(特に神の超越性に重きを置き、文化や社会倫理を語らない初期のバルト神学)に傾倒するようになっていった。この辺りの歴史的な経緯について、興味のある人は下記を参照。古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 21–25, 151–55; 古屋, キリスト教新時代へのきざし, 39–40; 古屋安雄, 神の国とキリスト教 (教文館, 2007), 170–71.
  21. 神の国と教会の関係について、興味のある人は例えば下記を参照。古屋, 神の国とキリスト教, 138–42.
  22. 古屋, 18–19.
  23. 古屋, 171.
  24. 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 21–29; 古屋, 神の国とキリスト教, 168–71.
  25. “Z世代とは何歳から?年齢や由来、X・Y世代との違いをわかりやすく解説,” 識学総研, August 8, 2023, https://souken.shikigaku.jp/15750/; “α世代とは?Z世代・ミレニアル世代との違いや重視する価値観、働き方について解説,” 識学総研, August 2, 2023, https://souken.shikigaku.jp/29605/.
  26. 古屋氏は、「社会派」が誕生したのは「神の国」を語らない教会に対する反動で、その「社会派」に対抗する形で「教会派」が生まれたと見ている。その見方に従えば、両者の対立解消のカギは、教会が存在するのは教会のためでも社会のためでもなく、神の国のためであることを認識できるかにあると言える。古屋, 神の国とキリスト教, 141–42, 168–71, 251.
  27. 古屋, 140–42, 181–82.
  28. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 12–13.
  29. 櫻井, 「異教としてのキリスト教」からの脱却, 4–5, 18–20, 50–52, 61–63, 149–51; 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 23–24.
  30. 櫻井氏はこれまでの「否定の伝道」から「肯定の伝道」へと宣教の方針を転換して「日本人のキリスト教」を目指す必要があること、また「日本という場の神学」、「日本人のための神学」、「日本語の神学」が必要であることを指摘している。櫻井, 「異教としてのキリスト教」からの脱却, 123, 139, 166–67.
  31. 今項の詳細な説明は下記を参照。研究会Fグループ, 16–17.
  32. 研究会Fグループ, 16–18.
  33. 研究会Fグループ, 18.
  34. 研究会Fグループ, 17.
  35. 隅谷氏はこの状況を、牧師が二階で準備した説教を信徒が一階で聞くという「二階建ての教会」になぞらえています。隅谷三喜男, 日本の信徒の「神学」 (日本キリスト教団出版局, 2004), 216–18.
  36. 古屋氏および隅谷氏は「日本の信徒の神学」の必要性を説いている。古屋, キリスト教新時代へのきざし, 86–88.
  37. 詳細は下記を参照。古屋 and 大木, 日本の神学, 101–15.
  38. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 21–27.
  39. 古屋 and 大木, 日本の神学, 215; 日本人もしくは日本全体に根付いていると思われる世界観について、山本(イザヤ・ベンダサン)氏は「日本教」という概念を提唱している。「日本教」に関する詳細は下記を参照。ベンダサンイザヤ, 日本人とユダヤ人 (角川書店, 1971); 浅見定雄, にせユダヤ人と日本人 (朝日新聞社, 1986); 宇佐神正明, “「日本教」の吟味,” 福音主義神学 19 (1988): 27–49.
  40. “イミダス 新・時事用語「宗教2世問題」(イミダス編),” 情報・知識&オピニオン imidas, accessed November 20, 2023, https://imidas.jp/newjijiword/?article_id=l-91-055-22-11-g241.
  41. 小林利行, “日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか,” 60, accessed November 20, 2023, https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf.
  42. 築地本願寺, “最近『宗教』に対して不信感が高まった」と10~40代女性の5割が回答。実際のお寺との接点はますます希薄化していることが浮き彫りに!,” 1–2, accessed November 20, 2023, https://tsukijihongwanji.jp/wtkjp/wp-content/uploads/2023/03/3e7523588e552793ae280606adc4be9a.pdf. なお、同調査によると、「仏教」に対するイメージは「宗教」に対するそれよりも悪くない。
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