キリスト教(聖書)の神はどんな神?②ー救い主なる神の性質ー

今回のテーマは前回に引き続き「キリスト教(聖書)の神はどんな神?」です。

前回は数多くある神の側面の中でも「造り主なる神」に焦点をあてました。そして、神以外には何も存在していない「無」の状態から、(人間はもちろん、時間や空間、天使や悪霊も含めた)天地万物を造り出した神の性質をみました。

キリスト教(聖書)の神はどんな神?①ー造り主なる神の性質ー
「キリスト教の神も『八百万の神』の中の一人でしょ!?」と思われている方に「キリスト教(聖書)の神はどんな神?」と題して贈る三回シリーズの第一弾。一回目は天地万物を創造した「造り主なる神」の性質に焦点をあてます。

前回の内容をみると、全体としては恐らく、創造主なる神と被造物なる人間(天地万物)の違いが強調され、神と人とは非常にかけ離れた関係にあるという印象を受けた人が多かったかもしれません。

確かに、創造主と被造物の間には決して乗り越えることのできない壁が存在します。しかし、キリスト教(聖書)の神は、神自らがその壁を越えて人(イエス)となって、この世に来られたのです。

ここに聖書の語る「救い」があります。

キリスト教(聖書)の神は被造物と遠くかけ離れた存在であると同時に、被造物に非常に近い存在でもある

のです。という訳で、今回は人間と非常に近い存在でもある「救い主なる神」の性質に注目します。1

次回に扱う「裁き主なる神」の性質に興味のある方は下記をご覧ください。

キリスト教(聖書)の神はどんな神?③ー裁き主なる神の性質ー
「キリスト教の神も『八百万の神』の中の一人でしょ!?」と思われている方に「キリスト教(聖書)の神はどんな神?」と題して贈る三回シリーズの最終回。今回は世の終わりの時に全てを正しく裁く「裁き主なる神」の性質について。これまでの総まとめもします。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

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救い主なる神の内在性(immanence)

キリスト教(聖書)の神は「無」から天地万物を造り出した後、天地万物をそのままの成り行きに任せ、天の高みから見物する神ではありません。2

むしろ、

キリスト教(聖書)の神は天地万物を造った直後から積極的に被造物(特に人)に関わっている

様子が聖書には記されています。

神は自身のかたちに男と女を創造した後、彼らを祝福しておっしゃいます。

生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。【創世記1章28節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉2頁

そして、神は人に食物として大地の植物を与えます(1章29節)。つまり、

人間の生活に必要なものを全て与え、魚や鳥や大地の生き物を支配するように命じた

訳です。

さらに、神は人を「エデンの園」に置き、そこを耕し守らせ(創世記2章15節)、人が一つだけしてはならないことを定めます。それは

エデンの園にある「善悪の知識の木」の実を食べてはならない

ということ(創世記2章17節)。

しかしながら、人(アダムとエバ)は「善悪の知識の木」の実を食べてはならないという神の言い付けを守ることができず、エデンの園を追放されてしまいます(創世記3章)。

これが人が犯した最初の「罪(神の望まないことをすること)」

この罪のため、神と人との関係性は壊れ(創世記3章7-10節;比較:2章25節)、全ての人は死ぬ定めとなってしまいます(創世記2章17節;3章22-24節;比較:ローマ人への手紙5章12節)。

ここまでの話は聖書を開いてホンの数ページの間に書かれている話ですが、人はエデンの園という理想郷から一気に絶望のどん底に落ちてしまう訳です。

が、しかし、です。

キリスト教(聖書)の神は、人が神の望まないことをしてしまった結果、人との関係が壊れたままとなり、人が死んでいくのを良しとはされなかった

のです。一言でいえば、

キリスト教(聖書)の神は罪を犯した人間を見捨てておけなかった

と言えるでしょう。それが故にキリスト教(聖書)の神は人と「契約(covenant)」を結びます。その契約の中心となるのは以下に記される神の約束。3

わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。【出エジプト記6章7節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉107頁

この約束は聖書の至る所で繰り返し語られています(例:創世記17章7-8節;出エジプト記29章45節;レビ記26章12節;エレミヤ記7章23節;11章4節;24章7節;30章22節)。

キリスト教(聖書)の神は天地万物を「無」から造り出しただけでなく、被造物である人間の神となり、人間が神の民となることができる

というのは、神が造られたものの中では人間にだけ与えられた特権とも呼べる凄いこと。これだけでも十分だと思ってしまいますが、実は、それだけでなく

キリスト教の神は人々のただ中に住まわれるお方

でもあります (参照:出エジプト記25章8節;列王記第一6章13節)。4

そして、神は聖書の中の登場人物に何度となく「私があなたとともにいる」と語りかけます(例:創世記26章24節;28章15節;出エジプト記3章12節)。

この

「神が私たちとともにおられる」

ということをその身をもって表したのが他でもない子なる神イエスです。

イエスの母マリアが聖霊(神の霊)によって身ごもった時、天使がマリアの夫ヨセフの夢に現れて言いました。

このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」【マタイの福音書1章22-23節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉2頁

ここで「インマヌエル」という名前は「神が私たちとともにおられる」を意味します。ですから、この箇所で天使は、

これから産まれてくるイエスは「神が私たちとともにおられる」ことを人々に示す人物になる

と言っていることになります。

イエスがこの世に生まれる時だけでなく、イエスがこの世を去ろうとしている時(十字架刑で死んで葬られ、三日目によみがえった後)にも、イエスは「神(イエス)が私たちとともにおられる」ことを弟子たちに告げています。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。【マタイの福音書28章20節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉64頁

キリスト教(聖書)の神が被造物と積極的に関わろうとし、(契約に基づいて)人々のただ中に住み、人々といつも共にいてくださることを専門用語で神の「内在性(immanence)」と呼びます。

救い主なる神の愛(love)

前節において、キリスト教(聖書)の神は罪を犯した人間を見捨てておけなかったが故に人と「契約」を結んだことをみました。

世間一般の日本人にとって「契約」というと、スマホや保険の契約書や会社との雇用契約などを浮かべると思います。

が、聖書が書かれた時代の人々にとって「契約」というのは、国と国同士が結ぶ契約(主に宗主国が従属国と結ぶ契約)の方が馴染み深いものでした。

実際、聖書に記されている神と人との「契約」の内容は、当時の国同士の契約が交わした契約と比べて、その文章の構成が非常に似ていることが分かっています。当時の国同士の契約の文章構成とは以下のようなもの。5

  1. 宗主国の王の名前
  2. 歴史的経緯を記した序文
  3. 法律・規則
    1. 基本的な掟(契約を忠実に守ること)
    2. 詳細な掟(総則と細則、忠実に契約を守ることを定めた掟など)
  4. 処罰の内容
    1. 従順には祝福
    2. 不従順には呪い
  5. 契約の施行について

聖書が書かれた当時の国同士で結ばれた契約と聖書に記された契約とを比べたとき、特筆すべき点は二つ

一つ目は、

「1.宗主国の王の名前」として、キリスト教(聖書)の神の名前が記されている

ということ。

聖書(出エジプト記20章以降)に記される「契約」は次のような冒頭で始まります。

わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。【出エジプト記20章2節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉134頁

ここの最後に「主である」とあります。実はこの「主」という単語は神の固有名詞(個人名)を指していて、原語のヘブル語のアルファベット表記ではYahōwāh、英語表記で “YHWH (Yahweh)”、片仮名では「ヤハウェ」または「ヤーウェ」となります。

しかしながら、ユダヤ人たちは神の個人名を口に出すのは恐れ多いということで、Yahōwāhの代わりに’adōnāy(「我が主」)という言葉を使っていました。そして今日においてもその慣例に倣い、日本語では「主」、英語では「LORD」(LORDは全て大文字)と訳されることになっています。6

神が自らの個人名を名乗るということは、その契約が個人的な関係に基づいている

ことを意味します。7

実際、キリスト教(聖書)の神と人との個人的な関係は花婿と花嫁の関係にたとえられるほど近しいもの(参照:イザヤ書61章10節)。


ですから、人々が契約を破って神から離れてしまうこと(特に他の神々を礼拝すること)は「淫行」や「姦通」という表現を用いて表されています(参照:エレミヤ書3章6-10節)。8

聖書の契約について、二つ目に特筆すべきことは

「3.法律・規則」を与える前に、キリスト教の神は人々を救い出している

ということ。

実際、前述の「出エジプト記20章2節」にもあるように、神は契約を結ぶ前に、エジプトの地で奴隷状態にあったイスラエル民族をモーセという人物を通して導き出しています

神がイスラエル民族を奴隷状態から救い出した理由は、イスラエル民族が神の目に適う特別なことをしたからではありません。

彼らがしたことと言えば、エジプト人の奴隷として重労働に「うめき、泣き叫んだ」こと(出エジプト記2章23節)。

その彼らの嘆きを聞いた神は、彼らの先祖(アブラハム、イサク、ヤコブ)と結んだ契約を思い起こし、彼らを救い出すことを決断されたのです(出エジプト記2章24-25節)。

つまり、

一方的な神の愛と恵みと憐れみによって救い出された

訳です。従って、本質的に

聖書における律法や掟といった決まり事は、現状の苦しみから救い出してもらうために守るものではなく、もう既に苦しみから救い出された人々が救われた感謝の意を表すために守るもの

と言えます。

身近な例で言えば、

神に助けてもらうためにお賽銭(キリスト教では「献金」)をするのではなく、もう既に助けてもらったお礼として、神に金銭を捧げる

というかたちです。キリスト教的な言い方をすれば、

一方的な神の愛と恵みと憐れみに応答するかたちで、(律法や掟に記されている)神の望まれることを行う

または、

キリスト教(聖書)の神の恵みは律法に先立つ

ということを聖書は教えていると言えます。7

キリスト教において、「神の恵みは律法に先立つ」ということは非常に重要なことです。というのも、多くの宗教は順序が逆で「神の律法は恵みに先立つ」となっているから。

先に挙げたお賽銭(献金)の例もそうですが、キリスト教以外では「神や人に何か良いことをすれば、神から何か良いことをしてもらえる」と教える宗教が多いと思います。

しかしながら、キリスト教は「神に既に良いことをしてもらったから、そのお返しとして神や人に何か良いことをする」という流れになっています。

しかも、一番最初に神に良いことをしてもらったのは、神の一方的な恵みによるものであって、私たちが何か神に喜ばれることをしたからではありません。

ここに神の愛が表れています。そして、そんな神の愛の究極のかたちがイエスの十字架なのです。

神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって
私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって
神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。【ヨハネの手紙第一4章9-10節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉483頁

人は罪を犯した(神の望まないことをした)結果、神との関係性が壊れ、死の支配から逃れられなくなってしまいました。

そんな状態の人々を見捨てておくことができなかった神は、自らがイニシアティブをとって人々との関係性を回復し、人々を死の支配から解放しようとします。

それは、人間が何か良いことをしたからでも神が喜ぶことをしたからでもありません。ただただ神の一方的な愛と恵みによって、救われるに値しない人間を救おうとされたのです。

ただし、そのためには一人の犠牲が必要だったのです。その犠牲とは

「私たちの罪のために宥(なだ)めのささげ物」となった子なる神イエス・キリスト

なのです。そして、

私たちが受けるはずだった罪の罰をイエスがその身に背負って十字架で死んでくださったと信じ、それまでの生き方を改めて神の望む生き方をしようと決心する時、私たちは永遠のいのちを得ることができる

のです。

永遠のいのちを得る(救われる)ために神の望む生き方をするのではなく、イエスを信じる信仰によってもう既に永遠のいのちを得た(救われた)から、神に対する感謝と喜びをもって神の望む生き方をする。

別の言い方をすれば、

キリスト教(聖書)の神は、(救われるに値しないにも関わらず)恵みによって救われた人々に対して、神の望む生き方をすることを期待する

と言えるでしょう。

救い主なる神の摂理(providence)


前回の記事では天地万物の「造り主なる神」という側面に着目しました。その中で、神の特質の一つとして「造り主なる神の全能性(omnipotence)」というものをみました。

キリスト教(聖書)の神の全能性とは、神が成そうとすること(論理的にも自身の性質とも矛盾のないこと)は何でも実現することができる力

を指します。なお、

キリスト教(聖書)の神は、万物を支配または導きながら自分の成そうとすることを必ず実現する

ことを神の「摂理(providence)」と呼びます。9

ここで、気になる方は

「神が成そうとすること」って何だ?

と思われたかもしれません。この疑問は被造物である私たち人間にとってとても重要な疑問です。ある意味、それによって、私たちの命運が左右されるといっても言い過ぎではありません。

では、非常に気になるキリスト教(聖書)の「神が成そうとすること」が何かというと、前節でみたように、

人が罪を犯したが故に壊れてしまった神と人との関係性を回復し、死の支配から人を解放すること(人を救うこと)

です。

おっ、それなら、愛に満ちた神様のことだから、全世界の人を救ってくれるってことだな。よかった、よかった。

と思いたくなります。が、実は、聖書はそうではないと語るのです。

確かに、救い主なる神は全世界の人を愛しています。そして、そのために神の独り子であるイエスが十字架にかかったのです。

ところが、

だからといって、全世界の人々が自動的に救われるとは限らないのです。なぜなら、救われるためにはイエスを救い主として信じる信仰が必要だからです。

前回の記事の「造り主なる神の主権(sovereignty)」でもみましたが、

キリスト教(聖書)の神は王として天地万物を統べ治める権力をもっていますが、その権力を用いて人々に無理強いをさせるようなお方ではない

のです。あくまでも個々人の意思を完全に尊重されるのがキリスト教(聖書)の神。

従って、先にみた「神が成そうとすること」は、正しくは、特に

全世界の人々がイエスを信じれば救われるという道を用意すること

であって、信じるか信じないかの決断は各人に委ねられているということになります。1

「神が成そうとすること(神の計画)」と「人間の意思決定」に関する話をしていると、学者の間でも大きく意見が分かれてくる疑問が出てきます。その疑問とは

神が成そうとすることは、人間の意思決定の結果に左右されるのか?

というもの。10

例えば、よく挙げられるのがイエスの弟子ユダの裏切り行為。ご存知の方もいると思いますが、ユダの裏切りによってイエスは捕らえられ、裁判にかけられた後、十字架刑に処されます。

The Kiss of Judas By Giotto di Bondone - https://www.artworkonly.com/famous-art/the-arrest-of-christ-kiss-of-judas-by-giotto-famous-art-handmade-oil-painting-on-canvas, Public Domain, Link

では、

もしユダが裏切らなければ、イエスは十字架に架かることがなくなり、神の救いの計画は台無しになってしまったのでしょうか?

歴史に「~たら」「~れば」を言い出すときりがありませんが、聖書的に言えば、ユダが裏切らなかった時点で神の計画は狂ってしまうことになります(従って、ユダが裏切らないということは有り得ない)。

というのも、ユダが裏切ることはイエスが前もって預言していましたし(マタイの福音書26章21-25節)、旧約聖書にも預言されていたことでもあるからです(使徒の働き1章16節)。

でも、

ユダが裏切ることは予め定められていた(預言されていた)

となると、圧倒的多数の人は

それだとユダがあまりにもかわいそうじゃないか?裏切るように定められていた(預言されていた)のなら、ユダの意思じゃなくて神の意思(計画)によるものだから、ユダには何の責任もないはずだろう!?

と思われると思います。

しかしながら、ここでも神は(非常に不思議というか理解し難いことですが)ユダに裏切りを強要した訳ではなく、あくまでも彼の意思を完全に尊重しているのです(比較:ヤコブの手紙1章13-15節)。

それはつまり、

確かにユダの裏切りは前もって預言されていた(神の計画として定められていた)けれども、ユダの裏切りはあくまでも彼の意思決定によるものであり、裏切り行為の責任は神ではなくユダ自身が負わなければならない

ということになります。11

まとめると、

キリスト教(聖書)の神は、人が自らの意思で決断した善(神の望むこと)はもちろん悪(神の望まないこと)さえも用いて、自分の計画を確実に実行していく

と言えるでしょう。そして、そのことが端的に表されているのは以下の聖書個所。

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。【創世記50章20節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉98頁

ここの「私」は「ヨセフ」という人物で、「あなたがた」というのは「ヨセフの兄弟たち」。

彼らは自分たちの意思決定によってヨセフを商人に売り渡すという「悪」を謀ったのですが、神はその出来事を通して、多くの人を飢饉から救うという「良いこと(神の計画)」を成し遂げられたのです(参照:創世記37-50章)。

まとめ

今回は前回に引き続いて「キリスト教(聖書)の神はどんな神?」がテーマでした。前回は天地万物の「造り主なる神」についてみましたが、今回は人間の「救い主なる神」の側面に注目しました。

結果、キリスト教(聖書)の神について分かったことは以下の通り。

  • キリスト教(聖書)の神は、天地万物を造った直後から積極的に被造物(特に人)に関わっている
  • キリスト教(聖書)の神は、人が神の望まないことをしてしまった結果、人との関係が壊れたままとなり、人が死んでいくのを良しとはされなかった(罪を犯した人間を見捨てておけなかった)
  • キリスト教(聖書)の神は、契約を結んだ人々と(婚姻関係にたとえられるほどの)非常に近しい関係をもつ
  • キリスト教(聖書)の神は、契約に基づいて、被造物である人間の神となる(人間が神の民となる)
  • キリスト教(聖書)の神は、契約に基づいて、人々のただ中に住み、いつも共にいてくれる
  • キリスト教(聖書)の神は、神の恵みによって救われた人々(救われるに値することは何もしていない人々)に対して、神の望む生き方をすることを期待する
  • キリスト教(聖書)の神は、万物を支配または導きながら自分の成そうとすること(特に全世界の人々がイエスを信じれば救われるという道を用意すること)を必ず実現する
  • キリスト教(聖書)の神は、人が自らの意思で決断した善(神の望むこと)はもちろん悪(神の望まないこと)さえも用いて、自分の計画を確実に実行していく

以上、今回の内容は神の愛と恵みと憐れみといった性質が強調された内容だったと思います。

次回は「裁き主なる神」の側面に焦点を当てますので、神の厳しさ・正しさが強調される内容になります。このため、恐らく

一体、どれが本当の神の性質なんだ?愛なる救い主?それとも厳しい裁き主?

と混乱してくるかもしれません。が、

キリスト教(聖書)の神は、愛と恵みと憐れみだけでなく、正しさと厳しさといった性質も兼ね備えた存在

なのです。ですから、どれか一つの性質だけを強調しすぎると誤った(偏った)理解に陥ってしまいますので注意が必要です。

このことについては次回の記事「裁き主なる神の性質」の最後に総まとめとして再度、触れようと思います。

キリスト教(聖書)の神はどんな神?③ー裁き主なる神の性質ー
「キリスト教の神も『八百万の神』の中の一人でしょ!?」と思われている方に「キリスト教(聖書)の神はどんな神?」と題して贈る三回シリーズの最終回。今回は世の終わりの時に全てを正しく裁く「裁き主なる神」の性質について。これまでの総まとめもします。

参考文献および注釈

  • Bray, G. L. “GOD.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  • Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
  • Frame, John M. Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology. Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  • Oswalt, J. N. “GOD.” Edited by T. Desmond Alexander and David W. Baker. Dictionary of the Old Testament: Pentateuch. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003.
  • ———. “GOD.” Edited by Mark J Boda and J. Gordon McConville. Dictionary of the Old Testament: Prophets. Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012.
  1. キリスト教(聖書)に詳しい方にとって、「救い主=イエス」というイメージが強いと思います。しかし、このブログ記事では、父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神は同じ一つの神という三位一体説に基づき、特に必要がない限り、父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神を明確には区別せずに全て「神」と表します。三位一体説については、「キリスト教の三位一体説とは何か?聖書には書いてない!?矛盾してる?」を参照ください
  2. 天地万物の創造後には天地万物と一切かかわらない神は「理神論(deism)」の神と呼ばれます。
  3. John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 12.
  4. 神が人と契約を結んだ目的は、神が人々の中に住むことであったと考えることもできます。詳細な説明は下記を参照。J. N. Oswalt, “GOD,” ed. T. Desmond Alexander and David W. Baker, Dictionary of the Old Testament: Pentateuch (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003), 858.
  5. Frame, Salvation Belongs to the Lord, 116.
  6. 神の名前に関する詳細は下記を参照。G. L. Bray, “GOD,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 513.
  7. 詳細は下記を参照。Frame, Salvation Belongs to the Lord, 117.
  8. 詳細は下記を参照。J. N. Oswalt, “GOD,” ed. Mark J Boda and J. Gordon McConville, Dictionary of the Old Testament: Prophets (Downers Grove, Ill; Nottingham :Inter-Varsity Press: IVP Academic ;, 2012), 290–291.
  9. 厳密には、上記の表現は神の摂理の中で「統治(government)」に関する側面を表します。神の摂理には「統治」の他に「保持(preservation)」と「合同作用(concurrence)」があります。詳しくは下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 315–351.
  10. この問題について興味のある方は、例えば下記を参照。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 317–336; Grudem, Systematic Theology, 330–351.
  11. 予め神が定めていた(預言されていた)ことを人が行ったとしても、神ではなく人が責任を取る必要がある理由について、聖書は明確な説明を与えてくれません。よって、人間にはその理由は分かり得ないと認めるしかないように思われます。Grudem, Systematic Theology, 330.
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