神が共におられた人々⑥:ヨシュア―神の愛と恵み―
神様は、人格的に素晴らしい人や優れた功績を挙げた人を優先的に愛するお方ではなく、欠点や弱さのある人も全て愛される恵みに満ちたお方です。神様はこの世の全ての人をありのままで愛してくださっています。その神様の愛と恵みが表されているのがイエスの十字架です。
物理好きの無神論者がキリスト教の牧師になって始めたブログ
神様は、人格的に素晴らしい人や優れた功績を挙げた人を優先的に愛するお方ではなく、欠点や弱さのある人も全て愛される恵みに満ちたお方です。神様はこの世の全ての人をありのままで愛してくださっています。その神様の愛と恵みが表されているのがイエスの十字架です。
神様が人を選ぶ基準は才能や能力、知識や経験ではなく、選ばれるに値しない人(選ばれるに値しないと自覚している人)を恵みによって選ばれます。そして神様は、恵みによって選ばれた人といついかなるときも共におられ、その人を通して御自分の救いの御業を成し遂げるお方です。
神様が共にいれば問題や困難に遭わなくなる訳ではありません。問題や困難に遭うからといって、突然、神様が共におられなくなった訳でもありません。神様は、私たちが直面する問題や困難を用いて神様の恵みと祝福を広げることができるお方、全知全能で絶対的な主権をもったお方なのです。
神様の守りとは、この世の苦しみ、悲しみ、痛みを神様と共に乗り越えるための勇気と力と慰めを与えられ、神様との関係性が更に深められていくことの中にあるのではないかと思います。どんな状況でも神様がいつも共にいてくださるという祝福を心から味わい知ることができますように。
神様は、私たちが本来受けるに値しないものを無代価で惜しみなく与えてくださる恵み深いお方、私たちとの約束を必ず守る誠実なお方。大事なことは、この恵み深く、約束を必ず守る誠実な神様を信頼して、イエス様を信じ従おうとする信仰の一歩を踏み出すことができるかどうかです。
神様にとって、いてもいなくてもどうでもよい存在の人は一人もいません。神様にとって、いてもらいたくない・いてはいけないという存在の人もいません。神様にとっては全ての人が唯一無二のかけがえのない存在、いついかなる時も共にいたいと思う存在なのです。
十字架刑(磔刑、たっけい)は実は非常に屈辱的で残酷な処罰でした。今回はこの十字架刑の屈辱・残酷性に着目しながら「なぜイエス・キリストはそんなにも屈辱的で残酷な処罰を無実の罪で受ける必要があったのか」を考えます。イエスが十字架で死んだ理由・意味は一体何か。
窒息、出血多量、ショック死、心不全・心臓麻痺、不整脈、失神などなど、十字架刑の死因は一つでなく色々な可能性が考えられる!?今回は、十字架刑によってどのようにして人が死に至るのかを紹介しつつ、なぜ死因の特定が難しいのか、その理由も考えます。
十字架はアクセサリーにもよく使われていますが、実は昔の死刑執行の道具だったことをご存知の方は少ないかもしれません。今回はイエス・キリストが処刑された十字架刑(磔刑、たっけい)とはどのような処刑方法だったのか、その主な目的とは何だったのかを紹介します。
キリスト教の聖典である聖書が「旧約聖書」と「新約聖書」の二つに分かれていることは知っていても、その二つの「どこがどう違う」かを説明できる人は少ないはず。という訳で、まだ聖書を読んだことが無い人を対象に旧約聖書と新約聖書の違いについて説明します。