「互いに受け入れ神を崇める」:2020年9月27日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。

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導入

前回(先々週)の説教では、クリスチャン(教会)にとっての「新常態(ニューノーマル)」は何かを考えました。

クリスチャンまた教会にとっての「新常態(ニューノーマル)を考えるときに重要になってくるのは、クリスチャンまたは教会として、絶対に変えてはいけないことは何か、変えてもよいことは何かを明確にすることだと思います。

今日の聖書個所の話には、このクリスチャンまたは教会として変えてはいけないことと変えてもよいことが関連しています。

ローマの信徒への手紙15章1説に「強い者」「強くない者」という表現が出てきていますが、これは「信仰」が強いという意味です。

ローマの信徒への手紙14章以降の文脈をみてみると、パウロの語る

「信仰が弱い人たち」とはキリスト教の教えに基づいた確固とした信仰がないため、変えてもよいことを変えることができない人たち(多くはユダヤ人)

のこと。対して、

「信仰が強い人たち」とは正しい信仰に基づいてキリスト教的に変えてもよいことを変えることができている人たち(多くは異邦人)

のことと言えます(参考:ローマの信徒への手紙14章2, 5-6, 14-15 ,20, 22-23節;比較:コリントの信徒への手紙一 8—10章)。そして、この二つのグループは互いに裁きあっていたようです(14:13)。

イエスのように隣人を喜ばせる

それ故にパウロは、特に信仰が強い人たちに対して、

自分を喜ばせるのではなく強くない人の弱さを担い、隣人を喜ばせる

ように勧めています(ローマの信徒への手紙15章1-2節)。

注目すべきはその理由が記されている3節。ここでパウロは詩編69編10節(新改訳では詩篇69篇9節)を引用しながら、

神様に敵対するもののそしりがキリストであるイエス様に降りかかった

と言っています。そのことが最もはっきりと表されているのがイエス様の十字架刑です。

イエス様ほど正しい信仰に基づいて変えてはいけないことと変えてもよいことを知っていた人はいません。

パウロの言葉を借りるならば、イエス様ほど「信仰が強い人」は他にはいません

にもかかわらず、イエス様はその信仰・知識を鼻にかけて自慢することはなさいませんでしたし、イエス様を真の救い主(メシア)だと信じている人たちの信仰をつまずかせるようなことはなさいませんでした。

むしろ

イエス様は、聖書に基づく正しい信仰をもっていなかった人たち、聖書の神様に敵対する人たちの嘲りや罵りを十字架上で受けられました。

神様に敵対する人たちの中にはある意味、イエス様を信じる前の私たち自身も含まれています。

イエス様を信じる前に私たちが神様に対して抱いていたであろう様々な暴言・失言をもイエス様は十字架上で耐え忍んでくださった

のです。

ここに愛があります(参照:ローマの信徒への手紙5章6-8節)。

このような

イエス様の愛を経験した者として、自分を喜ばせるのではなく信仰の強くない人の弱さを担い、愛をもって隣人を喜ばせなさい

と聖書は語ります(比較:ローマの信徒への手紙13章9-10節)。

イエスのように相手を受け入れ神を崇める

信仰の強い人に対して自分を喜ばせるのではなく、愛をもって隣人(信仰の弱い人)を喜ばせるようにパウロが勧めているのにはもう一つの理由があります。それは、

信仰の強い人も弱い人も皆が一つとなって、父なる神様を崇めるようになる

ためです(ローマの信徒への手紙15章5-6節)。

信仰の強い人も弱い人もイエス様に倣って思いを一つにして、父なる神様を共に賛美し礼拝するようになってもらいたい。

「だから」とパウロは続けて7節で、当時ローマに住んでいた全てのクリスチャンたちに対して、イエス様が受け入れてくださったように互いに相手を受け入れるように勧めています。

ここの「受け入れる」という表現はただ「相手の主義主張や存在を認める」という消極的な意味合いをもったものではありません。

むしろ、15章1-2節にあったように

「自分を喜ばせるのではなく、愛をもって相手を喜ばせる」という積極的な「受け入れ」

を意味していると理解できます(比較:14章1節)。

信仰の強い弱いに関係なく全ての人が自分を喜ばせるのではなく、愛をもって他の人の弱さ・足らなさを担いながら、心を一つにして神様を共に礼拝するようになるための理由・動機となるのが7節の「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」という部分です。

聖書の神様は、私たちが神様の命令・戒めをどれだけ守ったかどうかに応じて、私たちの願い・望みをかなえてくださるといった類の神様ではありません。

聖書の神様は、私たちが何かをしようとする前に、もう既に私たちに最も必要なものを一方的な恵みによって与えてくださっています。

私たちにとって最も必要なものとは、

イエス様を信じる信仰によって与えられる神様との絆の回復

です。この

神様がもう既に与えてくださっている大いなる恵み・御恩に対する「恩返し」の具体的な方法を教えてくれるものが聖書の中に出てくる勧め・戒め・律法

です。

結論

神様の独り子イエス様は御自身を喜ばせることなく、私たち人類の弱さ・足らなさを担って十字架にかかり、死んでよみがえってくださいました。

その恵み・御恩に報いるため

私たちもまたイエス様のように自分を喜ばせることなく相手の弱さ・足らなさを担い、愛をもって相手を喜ばせる

ことが求められています。

神様・イエス様はもう既に私たちを受け入れてくださってます。

その恵み・御恩に報いるため

私たちもまたイエス様のように相手を受け入れる

ことが求められています。そして最終的には、

互いに相手を受け入れることで皆が心を合わせ、声をそろえて、父なる神様を崇めることが神様に対する最高の恩返し

だと聖書は語っているのです(参考:ローマの信徒への手紙15章8-12節)。

新型コロナの勢いが収まらない現在、個人としても教会としても色々と難しい判断を迫られることがあります。

個人としては例えば、礼拝に物理的に参加した方がよいかどうか、交わりのために皆で外食してもよいかどうかといった判断があります。

教会としては例えば、教会内で礼拝をもつときの対策は万全かどうか、そもそも物理的に礼拝をもち続けるべきかどうかといった判断が必要です。

こうした問題に対する考え方はその人の文化的社会的背景によって大きく異なります

ある人は新型コロナのことを全く気にせず、マスクをすることさえ面倒がります。

またある人は感染を非常に警戒して家から一歩も出ようとしなかったりします。

そのような傾向が度を超すと、相手のことを「信仰が足りない」とか「神の御心が分かっていない」などと裁いたり非難したりしてしまうことにもなりかねません。

もちろん、コロナ禍であろうがなかろうが、どんな状況にあっても聖書的に絶対に変えてはいけないことがあります。

その点についてはお互いにじっくりと話し合って、正しい聖書理解を得ようと努める必要があります。

しかしながら、私たちの生活に関わることの中には意外に変えてもよいことが多いのではないかと思います。というのも、

神様は私たちが何をしているかという外面的な行いよりも、なぜそれを行っているのかという内面的な動機・心の部分をご覧になるお方

だからです。

礼拝についても同じことが言えます。

物理的に集まる方がオンラインを通して礼拝するよりも神様の御心にかなっているとは必ずしも言えません。

大事なのは心の部分です。

物理的に集まっていても心がそこになければ意味がありません。

反対に、物理的に集まれなくても、自分が今いる場所でオンラインを通して心からの礼拝を捧げるのであれば、神様はその礼拝を喜んでくださっています(比較:ヨハネによる福音書4章21-24節)。

とはいえそれは、皆が物理的に集まって礼拝する必要がないということではありません。

今日の個所でみたように、

皆が一ヵ所に集まって心を合わせ、声をそろえて神様を崇めることも大事

です(ローマの信徒への手紙15章6節)。

細かい考え方の違いはあります。単純に趣味が合わないということもあるでしょう。

しかし、

イエス様はそのような違いを受け入れてくださっています。

また、

イエス様は不完全な私たちの弱さ・足らなさをも受け入れ、自分を喜ばせるのではなく、私たちを罪の滅びから救い出すために十字架上で苦しまれ、死んでよみがえられました。
それほどまでに私たちを愛してくださっている神様を共に崇めるため、私たちもまたイエス様が私たちを受け入れてくださったように、愛をもって互いに相手を受けいれることができますように(参照:ローマの信徒への手紙15章5-6節)。

参考文献および注釈

  • Cranfield, C. E. B. A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to the Romans, Volume 2. International Critical Commentary. T&T Clark Ltd, 2004.
  • Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
  • ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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