礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。
- 日時:2020年9月27日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「互いに受け入れ神を崇める」
- 聖書個所:ローマの信徒への手紙15章1-13節1
導入
前回(先々週)の説教では、クリスチャン(教会)にとっての「新常態(ニューノーマル)」は何かを考えました。
クリスチャンまた教会にとっての「新常態(ニューノーマル)を考えるときに重要になってくるのは、クリスチャンまたは教会として、絶対に変えてはいけないことは何か、変えてもよいことは何かを明確にすることだと思います。
今日の聖書個所の話には、このクリスチャンまたは教会として変えてはいけないことと変えてもよいことが関連しています。
ローマの信徒への手紙15章1説に「強い者」「強くない者」という表現が出てきていますが、これは「信仰」が強いという意味です。
ローマの信徒への手紙14章以降の文脈をみてみると、パウロの語る
のこと。対して、
のことと言えます(参考:ローマの信徒への手紙14章2, 5-6, 14-15 ,20, 22-23節;比較:コリントの信徒への手紙一 8—10章)。そして、この二つのグループは互いに裁きあっていたようです(14:13)。
イエスのように隣人を喜ばせる
それ故にパウロは、特に信仰が強い人たちに対して、
ように勧めています(ローマの信徒への手紙15章1-2節)。
注目すべきはその理由が記されている3節。ここでパウロは詩編69編10節(新改訳では詩篇69篇9節)を引用しながら、
と言っています。そのことが最もはっきりと表されているのがイエス様の十字架刑です。
イエス様ほど正しい信仰に基づいて変えてはいけないことと変えてもよいことを知っていた人はいません。
パウロの言葉を借りるならば、イエス様ほど「信仰が強い人」は他にはいません。
にもかかわらず、イエス様はその信仰・知識を鼻にかけて自慢することはなさいませんでしたし、イエス様を真の救い主(メシア)だと信じている人たちの信仰をつまずかせるようなことはなさいませんでした。
むしろ
神様に敵対する人たちの中にはある意味、イエス様を信じる前の私たち自身も含まれています。
のです。
ここに愛があります(参照:ローマの信徒への手紙5章6-8節)。
このような
と聖書は語ります(比較:ローマの信徒への手紙13章9-10節)。
イエスのように相手を受け入れ神を崇める
信仰の強い人に対して自分を喜ばせるのではなく、愛をもって隣人(信仰の弱い人)を喜ばせるようにパウロが勧めているのにはもう一つの理由があります。それは、
ためです(ローマの信徒への手紙15章5-6節)。
信仰の強い人も弱い人もイエス様に倣って思いを一つにして、父なる神様を共に賛美し礼拝するようになってもらいたい。
「だから」とパウロは続けて7節で、当時ローマに住んでいた全てのクリスチャンたちに対して、イエス様が受け入れてくださったように互いに相手を受け入れるように勧めています。
ここの「受け入れる」という表現はただ「相手の主義主張や存在を認める」という消極的な意味合いをもったものではありません。
むしろ、15章1-2節にあったように
を意味していると理解できます(比較:14章1節)。
信仰の強い弱いに関係なく全ての人が自分を喜ばせるのではなく、愛をもって他の人の弱さ・足らなさを担いながら、心を一つにして神様を共に礼拝するようになるための理由・動機となるのが7節の「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」という部分です。
聖書の神様は、私たちが神様の命令・戒めをどれだけ守ったかどうかに応じて、私たちの願い・望みをかなえてくださるといった類の神様ではありません。
私たちにとって最も必要なものとは、
です。この
です。
結論
その恵み・御恩に報いるため、
ことが求められています。
その恵み・御恩に報いるため、
ことが求められています。そして最終的には、
だと聖書は語っているのです(参考:ローマの信徒への手紙15章8-12節)。
新型コロナの勢いが収まらない現在、個人としても教会としても色々と難しい判断を迫られることがあります。
個人としては例えば、礼拝に物理的に参加した方がよいかどうか、交わりのために皆で外食してもよいかどうかといった判断があります。
教会としては例えば、教会内で礼拝をもつときの対策は万全かどうか、そもそも物理的に礼拝をもち続けるべきかどうかといった判断が必要です。
こうした問題に対する考え方はその人の文化的社会的背景によって大きく異なります。
ある人は新型コロナのことを全く気にせず、マスクをすることさえ面倒がります。
またある人は感染を非常に警戒して家から一歩も出ようとしなかったりします。
そのような傾向が度を超すと、相手のことを「信仰が足りない」とか「神の御心が分かっていない」などと裁いたり非難したりしてしまうことにもなりかねません。
もちろん、コロナ禍であろうがなかろうが、どんな状況にあっても聖書的に絶対に変えてはいけないことがあります。
その点についてはお互いにじっくりと話し合って、正しい聖書理解を得ようと努める必要があります。
しかしながら、私たちの生活に関わることの中には意外に変えてもよいことが多いのではないかと思います。というのも、
だからです。
礼拝についても同じことが言えます。
物理的に集まる方がオンラインを通して礼拝するよりも神様の御心にかなっているとは必ずしも言えません。
大事なのは心の部分です。
物理的に集まっていても心がそこになければ意味がありません。
反対に、物理的に集まれなくても、自分が今いる場所でオンラインを通して心からの礼拝を捧げるのであれば、神様はその礼拝を喜んでくださっています(比較:ヨハネによる福音書4章21-24節)。
とはいえそれは、皆が物理的に集まって礼拝する必要がないということではありません。
今日の個所でみたように、
です(ローマの信徒への手紙15章6節)。
細かい考え方の違いはあります。単純に趣味が合わないということもあるでしょう。
しかし、
また、
参考文献および注釈
- Cranfield, C. E. B. A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to the Romans, Volume 2. International Critical Commentary. T&T Clark Ltd, 2004.
- Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
- ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.