礼拝説教の要旨です(説教の音声はこちらから)。
- 日時:2020年3月22日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「理不尽な世の中と神」
- 聖書個所:使徒言行録24章1-27節
導入
というのは人間の社会においていつでもどこでも見られることではないかと思います。
今日の聖書個所ではパウロが総督フェリクスによって裁判にかけられる場面が描かれています。
パウロは自分に対する容疑を見事に弁明しますが、フェリクスはパウロに無罪判決を下すどころか、ある程度の自由を与えつつ彼を監禁します(22-23節)。結果、パウロは二年もの間、監禁されることになりますが、それは総督フェリクスがユダヤ人の歓心を買おうとしていたからでした(27節)。
です。
今日は、この理不尽な出来事を通して、
また
を考えたいと思います。
理不尽な世の中
それにしても、そもそものところ、
その理由を一言で言うと、
です。彼らが殺そうとするほどまでにパウロを憎んでいた表向きな理由は、パウロが神様や神殿を冒涜しているから(参照:使徒言行録21章28節;24章6節)です。
しかしながら、実際には、彼らは
ことが記されています(13章44-45節;17章5節)。
ユダヤ人たちがパウロを殺すほど憎んでいた理由として、パウロに対する妬み以外にもう一つの理由が考えられます。
というのも、パウロを含めたクリスチャンたちの教えが世の中に広まっていくことは、ユダヤ人たちにしてみれば、自分たちが聖書の語るメシアを殺したという悪評が広がっていくことを意味しました(参照:5章28-33節)。
つまり
訳です。神様や神殿に対する冒涜ではなく、あくまでもユダヤ人たちの個人的な妬みや恨みによって命を狙われていたパウロ。その状況は極めて理不尽なものです。
理不尽を用いる神
神様はそんな理不尽な状況にあったパウロを救い出すどころか、
その御計画とは、パウロがエルサレムだけでなくローマでもイエス様のことを宣べ伝えるというものです(参照:使徒言行録23章11節)。
今日の個所にある裁判が開かれることになったのは、既に見たように、人々が理不尽な理由でパウロを殺そうとしていたからでした。
裁判を執り行った総督フェリクスは理不尽にもパウロを無罪放免にはせずに2年間も監禁していました。
フェリクスの後任としてやってきたフェストゥスもまた正義よりもユダヤ人の歓心を買おうとしていたようです(25章9節)ので、パウロはローマ皇帝に上訴を願い出ます(25章10-11節)。
このような人々の理不尽な行い・態度を通してパウロはローマへと連行され、ローマでもイエス様のことを証しするようになります(27―28章)。
神様はパウロの置かれていた理不尽な状況を用いて、御自分の計画を成就された訳です。
が表れています。
理不尽を共にする神
神様はこの理不尽極まりない世の中にあっても、御自分の計画を必ず成し遂げることができる絶対的な主権者であり全知全能なお方です。しかも、
事実、使徒言行録23章11節においてイエス様はパウロに勇気を出すように彼を励ましておられます。先のことが分からず、不安や心配で心がくじけそうになっていたであろうパウロをイエス様は励まされたのです。
神様・イエス様を信じて従おうとしていたとしても、
ことがあります。
かもしれません。でも、
のです。
それだけはありません。
です。
今日の個所でパウロは総督フェリクスの前で見事と呼べる弁明をしています(使徒言行録24章10-21節)。
しかし、その彼の弁明は彼自身の知恵や力によってなされたものではありません。イエス様ご自身が彼と共におられ、彼に言葉を与えておられたと聖書は語ります(参照:ルカ21章12-15節)。
結論
クリスチャンになったからといって、そんな世の中の理不尽さから逃れられる訳ではありません。むしろ、イエス様を信じて、神様の望まれる生き方をしようとすると余計に理不尽な目に遭うことがあります。
でも、
です。
そのことが最もはっきりと示されているのがイエス様の十字架です。
イエス様の場合もパウロのときと同じくユダヤ人指導者たちから妬まれ恨まれ、無実の罪で十字架に架けられました(参照:マルコ15章10節;ルカ23章13-25節)。誰が考えても理不尽極まりない状況です。
しかし、
それほどまでに絶対的な主権をもち全知全能なお方が聖書の神様です。その
のです。
この世にあって、時には自分が行った悪いこと(嘘をついたり、盗んだり、相手を傷つけたり)によって、自分の身に災難が降りかかってくることがあります。
そんなときはまず神様に対して悔い改め、自分の非を認めて相手に謝罪をし、必要であれば弁償もする必要があります。
しかし、時には全く理由も分からずに苦しみや悲しみ、痛みを経験することがあります。そんなときには
イエス様は神様の前に正しく生き、全ての人を愛し抜かれました。人々に愛されこそすれ、憎まれるようなお方ではなかったはずです。にもかかわらず、世の人々はイエス様を妬み、憎み、ついには無実の罪で十字架につけました。
でも、それこそが神様の御心であったと聖書は語ります(参考:イザヤ書53章)。
ある出来事がなぜ起こるのか、その納得のいく説明・理由が得られないことの方が多い理不尽な世の中です。
が、しかし、
です。そして、
ここに希望があります。
参考文献および注釈
- Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
- Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.