「主の戦い」:2024年9月22日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

今日の聖書個所を含むサムエル記上17章の話はいわゆる「ダビデとゴリアト(ゴリアテ)」と呼ばれる話です。

聖書の中で一、二を争うほど有名な個所ですので、ひょっとしたら、私(説教者)が語ろうとする話(説教)の内容も大体、想像できるという方がいらっしゃるかもしれません。

そういう方の多くは恐らく、「ゴリアト」を私たちの「人生の中の問題・課題や苦難・困難」と捉え、

ダビデのように信仰を固くもってさえいれば、人生のどんな問題・課題、苦難・困難にも打ち勝つことができる

といった類の説教をイメージしていらっしゃるのではないかと思います。

そのようなメッセージは決して間違いとは言えません。

しかし、それは、

サムエル記の作者(神様)がⅠサムエル17章全体を通して最も伝えたかったことではない

のではないかと個人的には考えています。

今日は

サムエル上17章全体を通してサムエル記の作者(神様)が最も伝えたかったことは何なのか?

について、共に考えていきたいと思います。

「メシア」のあるべき姿

「ダビデとゴリアト」の戦いはイスラエル民族とペリシテ人との戦いの最中に置きました(サムエル記上17章1-3節)。

このときのイスラエル民族の王はサウルでしたが、

サウルは神様の命令に従わなかったため、その王位がサウル以外の別の人物に与えられることになる

と預言を受けていました(サムエル記上15章28節)。この

サウルに代わるイスラエルの新しい王として預言者サムエルに油注がれた人物がダビデ

でした(16章12節)。

サウルもまたサムエルから油注がれていましたので(10章1節)、今日の聖書個所に記される出来事が起きたとき、

イスラエルには二人の「メシア(油注がれた者)」がいた

ことになります(サムエル記上12章3節; 16章6節)。

ただ、

先のメシアであるサウルは神様から離れてしまっていました(15章10節)。

対して、

後のメシア(ダビデ)は神様の御心に適う者と言われていました(13章14節)。

このことはサムエル記上17章全体を通しても示されています(比較:サムエル記上17章11, 32節;比較: 17章36-37節, 38-40節)。

サムエル記の作者はサムエル記上17章全体を通してサウルとダビデの言動を対比させることで、

「メシア」として神様に選ばれた者のあるべき姿を伝えようとしている

と言えます。

人が見るように見ない神

次に、サムエル記の作者がサムエル記上17章全体を通して何を伝えようとしているかを考えるため、

サムエル記上17章全体を通して、神様について何が分かるか?

を考えます。

そのヒントは、17章の一つ前の16章に記されています。

実際、サムエル記上16章7節に

神様は、人が見るように物事を見ることは無く、人の外見ではなく心を見るお方

であると記されています。

誰もがゴリアトの大きな体格と立派な武具を見て、恐れおののいていました(17章4-7, 11節)。

サウルはゴリアトのように立派な武具を身につければ、もしかしたらダビデも戦いに勝てるかもしれないと思い、ダビデにサウル自身の武具を身に付けさせようとしました(17章38-39節)。

しかし、

神様が救いをもたらすためには優れた武具は必要ないことを、皆が知るようになるだろう

とダビデはゴリアトに宣言します(17章47節)。

実際、ダビデにとって、勝利のために必要だったのは

「主の御名」と主に対する信仰、そしてその信仰に基づいた行動

でした(17:45-46, 50-52)。

人が見るように物事を見ない神様は、私たち人間の目から見てどれほど不利・不可能に見える状況であったとしても、私たち人間が到底、思いつかないような方法・手段をもって、私たちを救い、勝利をもたらすことができるお方

です。

結論

サムエル記上17章には二人の「メシア」、即ち、「油注がれた者」が出て来ていました。

一人はサウル、もう一人はダビデです。

Ⅰサムエル17章では、この二人の「メシア」の言動が対比させられながら、

「メシア」の本来あるべき姿がどのようなものか

が強調されています。

サウルは神様から離れていましたが、

ダビデは神様に絶対的な信頼を置いていました。

サウルは苦難・困難を目の前にして、神様ではなく自分の力に頼ろうとしました。

対して、

ダビデはどんな苦難・困難であったとしても、神様の御名を汚す者との戦いは主なる神様の戦いであって、神様の御手によって救いの御業が成し遂げられる

と固く信じていました。

また、サムエル記上17章全体を通して

神様というお方は、人間が見るように物事を見ない

ことがはっきりと示されていました。

その場にいた人は、ダビデを除けば恐らく誰一人として、ダビデがゴリアトに勝つとは思っていなかったでしょう。

しかし、

たとえ人間の目から見て絶対に不利・不可能に見える状況であったとしても、神様というお方は、私たち人間が到底、思いつかないような方法・手段をもって私たちに救いと勝利をもたらすことができるお方

です。この神様の絶対的な主権と力がダビデのゴリアトに対する勝利にはっきりと描かれています。

ここで問題となるのは

何を信じているか

です。ダビデが信じていたことは、

神様の御名を汚す者との戦いは主なる神様の戦いであって、神様ご自身が戦われる

ということ。そして、その

神様の戦いには人間の手ではなく、神様の御手によって救いの御業が成し遂げられる

ということでした。

神様・イエス様を信じていれば、どんな戦いにも勝利できるということをダビデが信じていた訳ではありません。

あくまでも

神様の御名を汚す者との戦いにおいては神様ご自身が戦われ、たとえその相手がどれほど強そうに見えたとしても必ずや勝利をもたらしてくださる

という訳です。

神様の御名を汚す者との戦いというのは、例えば、神様・イエス様を信じる信仰が故に受ける様々な苦難や困難と言えるでしょう。

また、神様・イエス様の御心に適うことをしようとするときに受ける誹謗中傷とも言えるかもしれません。

そのような

苦難・困難、誹謗中傷を受けている人に対して、天で受ける報いは大きいから喜びなさい

とイエス様はマタイによる福音書5章11-12節でおっしゃっています。

イエス様を信じ、神様の御心に適った生き方をしようとする人生は必ずしも順風満帆でバラ色の人生ではありません。

むしろ、イエス様を信じ、神様の望まれるように生きようとするとき、この世の人々から煙たがられたり、非難されたり、排斥されたりすることがあります。

でも、たとえそうだとしても、そのような

苦しさや辛さを補って余りある報いがある

とイエス様は約束してくださっています。

その意味において、確かに、

私たちには最終的な勝利がもたらされます。

ただ問題は、

その勝利が私たちの望むタイミングに、私たちの望むかたちでもたらされる訳ではない

ということです。

そのため、実際の現実社会において様々な苦難・困難、問題・課題に直面するとき、その状況からの救いがなかなか与えられずに滅入ってしまうことが少なからずあると思います。

けれども、

たとえ人間の目から見て、絶対に不利・不可能に見える状況であったとしても、神様というお方は、私たち人間が到底、思いつかないような方法・手段をもって、私たちに救いと勝利をもたらすことができるお方

です。その

神様に信頼しつつ、置かれた状況で自分にできる最善をイエス様と共に成し続けていってみてください。

それでも心くじけそうになるときには

イエス様の十字架を見上げてください。

十字架というのは当時の社会においては「敗北」の象徴でした。

しかし、

神様というお方は人間が見るように物事を見ないお方

です。

神様はこの人間の目から見て「敗北」の象徴であった十字架を「救い」「勝利」の象徴へと変えてしまわれました。

この

偉大なる神様・イエス様が今も生きて、あなたを通して、その御心を成し遂げようとされておられます。

その戦いはあなたの戦いではなく、主の戦いです。

あなたの知恵や力に頼るのではなく、主の知恵と力にすがりつつ、イエス様の十字架を見上げて、主の御手によってもたらされる救いを待ち望むことができますように。

そして、

その救いの御業を通して、あなたの周りの人たちが神様のおられることに気付くことができますように。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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