「罪の奴隷か神の奴隷か」:2021年4月25日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

導入

年明けからずっとローマの信徒への手紙からの説教が続いています。これまで見てきたローマの信徒への手紙の内容の中で大きなテーマの一つは

イエス様を信じる信仰によって神様の前に正しい(義)と認められる

ということ。専門用語で「信仰義認」です。でも、努力や行いではなく、神様の恵みによって、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われると聞くと、

信じた後はもう自分の好き勝手に生きても良いのではないか?

と思う人が少なからずいらっしゃると思います。

実際、そのような考え・思いは、現代の日本に生きる私たちだけではなく、2000年前のローマ帝国に生きたクリスチャンたちも持っていたようです。

今日は

神様の恵みによって救われた後の生き方について、神様が私たちクリスチャンにどのように生きてほしいと望んでいらっしゃるかについて

共に学んでいきたいと思います。

罪か義か

今日の聖書個所の初めにパウロは

神様の恵みによって救われた後に神様の考え・望み・思いを無視して自分の好き勝手に生きようとする生き方、即ち、罪を犯す生き方をはっきりと否定

しています(ローマの信徒への手紙6章15節)。

気になるのはその理由です。

パウロによると、私たちは

福音(「伝えられた教えの基準」)に出会う前は「罪の奴隷」

でした(17節)。けれども、

福音に心から聞き従ってイエス様を信じ、恵みによって神様の前に正しい(義)と認められた後は罪の支配から解放され「義の奴隷」

となりました(18節)。それだから、

義の奴隷となった私たちは(罪の奴隷のように)自分の好き勝手に生きてはならない

とパウロは語っています。

ここで注意が必要なのは「奴隷」という言葉だと思います。

ローマの信徒への手紙の6章で「奴隷」と訳されている言葉は他の聖書個所では「僕(しもべ)」とも訳される言葉です(例:マタイによる福音書25章1-30節)。

ローマの信徒への手紙6章の文脈をみると、

「奴隷」というのは、ある特定の主人の支配下にあって、その主人に仕え従う立場

という意味合いで用いられていることが分かります(参考:ローマの信徒への手紙6章6-7, 12-14, 16-20節)。

ですから、「奴隷」というよりも実際は「執事」や「メイド」というイメージに近いように思います。

いずれにしても大事なことは、

私たち人間には「罪の奴隷」になるか「義の奴隷」(6章22節では「神の奴隷」)になるかのどちらかしかない

ということです(6章16節)。

死か命か

パウロはローマの信徒への手紙6章16節で

罪に仕える奴隷は死に至り、神に従う奴隷は義に至る

と言っています。さらにパウロは20-21節で

「罪の奴隷」状態にある人が行き着く先は死

だと言っています。対して、

罪から自由にされて「神の奴隷」となった人の行き着くところはイエス様にある永遠の命

だと言っています(22-23節)。

「死」に対して「永遠の命」が対比されていることから、ここでパウロの意味する「死」とは単に肉体的に死ぬことではなく、永遠の懲らしめ(刑罰)としての死であることが分かります(参考:マタイによる福音書25章41-46節;ヨハネの黙示録20章10, 13-15節)。

罪の奴隷が結ぶ実(ローマの信徒への手紙6章21節)について、例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節には

淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのもの
【ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節】

出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)343頁

が挙げられています。対して、

イエス様を信じ、神の奴隷として生きる人々の内側には神の霊である聖霊が住んでくださいます。

その聖霊に導かれて歩む神の奴隷が結ぶ実(ローマの信徒への手紙6章22節)は

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制
【ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節】

出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)343頁

です。これは、一言で言ってしまえば、

神の奴隷は聖霊によってイエス様に似た者へと変えられていく

と言えます(コリントの信徒への手紙二3章18節)。

結論

この世に生きる私たちは

罪の奴隷になるか義(神)の奴隷になるか

そのどちらしかないと聖書は語ります。

私たちは皆、イエス様を信じ、神様の前に正しい(義)と認められる前は「罪の奴隷」で、神の怒りを免れることができない存在でした。

その行き着く先は永遠の懲らしめ(刑罰)です。

しかし、

神様の恵みによって、イエス様を信じる信仰によって私たちの過去、現在、未来の罪が全て赦され、罪の支配からも解放され、神様の奴隷となりました。

その行き着く先は永遠の命です。

それだけではありません。

神様の奴隷として生きる者の内には聖霊が住んでくださっています。

その聖霊の助けと導きによって私たちは日々、

イエス様に似た者へと変えられていく

のです。

と言われても、です。

そもそものところ、

「罪の奴隷」になるか「神の奴隷」になるかのどちらかしかないと言われても納得できない

方がいらっしゃるかもしれません。むしろ

自分は誰にも行動を制限されることなく自由に生きている

と思われる方は多いのではないでしょうか。

確かに、私たちには自由が与えられています。ですが、問題となるのは、その

与えられた自由をどのように使っているか

です。

あなたにはどんな犠牲を払ってでも喜ばせたいと思う人はいないでしょうか。

どんな犠牲を払ってでも大事にしたいと思う人やモノ、絶対に手に入れたいと願う人やモノはないでしょうか。

もちろんそれらは全てあなたの人生において大事なものです。しかしながら、

それらがあなたの人生の中心にあって、あなたの考えや行動全ての基準・動機・目的となっているとき、あなたの人生はそれらの支配下にあり、あなたはそれらに仕え従って生きている

といえます。特に、あなたが仕え従っているものが神様以外の何・誰かであるとき、それはあなたの人生の「偶像」であり、あなたは「罪の奴隷」となっていると聖書は語ります。

あなたが自分の人生の中心に置いているもの、あなたの考えや行動の基準・動機・目的となっているものは何でしょうか?

もしそれが神様以外の何・誰かであるならば、神様を中心とした生き方に改めてほしいと神様は願っていらっしゃいます。

ただし、そのような

神様中心の生活が必ずしも教会中心の生活とは限りません。

神様は教会内だけでなく、私たちの生活全てに関わっておられるからです。

それぞれが置かれた場所で、神様を中心として、神様に与えられた才能を存分に発揮しながら神様のために生きる

それが聖書の語る「神の奴隷」としての生き方です。そして、そのような

神の奴隷として生きるために必要な助けと導きがあなたの内に住んでおられる聖霊によって与えられます。

とはいえ、残念ながら、

罪の支配から解放されて神様の奴隷となり、聖霊の助けと導きを受けながらもなお、神様の望まれる生き方を完全・完璧に生きることはできません。

時には、神様の望んでおられない選択をしてしまうことがあるでしょう。

知らず知らずのうちに、神様以外の何・誰かを人生の中心に置いてしまっていることもあるでしょう。

そんなときは

素直に自らの過ちを認め、神様に立ち返ってください(ヨハネの手紙一1章8-10節)。

そして、

危害や損害を加えた相手がいれば、その人に対して謝り、必要であれば、その被害を償ってください。

自分の非を認めて謝り、過ちを償うというのは誰に対しても、何歳になっても難しいものです。でも、そのようなときにこそ、

あなたの内に住む聖霊の助けにすがってください。

きっと聖霊は人間関係の修復に必要な勇気と力を与えてくださいます。

また、時として

「神の奴隷」としての生活に疲れてくるときがやってくるかもしません。

もしくは、

「神の奴隷」としての生活がパターン化してしまい、そこに何の喜びや楽しみを感じなくなってしまうことがあるかもしれません。

クリスチャンとしての義務感から「-しなければならない」または「-してはならない」という思いで毎日を過ごしているならば、そこに喜びはありません。

いずれは疲れ果て、燃え尽きてしまいます。

ですから、喜びに満たされた生活を送るためには

絶えずイエス様の十字架と復活を思い起こす

必要があります。

神様はあなたをありのままで受け入れ、愛してくださっています。
たとえあなたが神様の望まれる生き方を完全に生きることができないとしても、神様のあなたに対する愛が変わることはありません。
神様は御自分の命に代えても惜しくないほどに、あなたの存在そのものを高価で尊いと思っていてくださっています。

と同時に、

神様はあなたにイエス様のように生きてほしいとも願っていらっしゃいます。

イエス様のように生きることが神様に造られた人間本来の生き方だからです。

と言われても、

イエス様のように生きることは到底不可能なことに思えるかもしれません。

確かに、それは人間の力や努力では実現不可能なことです。が、

神様には不可能ではありません。
死にすら打ち勝つ絶対的な力をもった神様の霊があなたの内に住み、あなたを内側からイエス様に似た者へと変えてくださる

のです。

決して変わることのない神様の愛に満たされ、絶対的な力をもつ聖霊の働きに期待しながら、イエス様のように日々、感謝と喜びをもって神様に仕え従うことができますように。

参考文献および注釈

  • Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
  • ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
  • Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告