子供の育児に関わる中で神様と自分との関係を考えさせられることがあります。前回は以下の記事で「眠り」について考えました。
今回は、神様が私たちをどれほど愛してくださっているか、特に以下の聖書の言葉について考えさせられました。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。【コリント人への手紙 第一13章4節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉346頁
上記の言葉はキリスト教式の結婚式では結構な割合で使われる常套句ですので、ひょっとしたら、キリスト教(聖書)に馴染みのない方でも一度は聞いたことがあるかもしれません。1
しかし、
と言われたところで、なかなかピンとこない方は多いのではないでしょうか。
それは恐らく、私たちの日常で「愛する」という言葉が使われるとき(滅多に使うことはないかもですが)、それは相手のことが好きか嫌いかといった「恋愛感情」を指すことが多いからだと思います。
でも、
となってきます。
ですから、例えば、キリスト教的に「〇〇さんのことを一生愛する」というのは、「〇〇さんのことを一生好きであり続ける」ということではなく、「〇〇さんに対して一生、寛容かつ親切に接して、ねたみも自慢もせずに高慢な態度もとらない」ということを意味します。
とはいえもちろん、そのように人を愛することは非常に難しいことです。
しかしながら、
ことがあります。
一歳になったばかりのうちの息子は最近になって一人で歩けるようになってきました(とはいえ、まだまだハイハイの方が速い状態です)。
このため、私がいなくても一人で色んな所に移動して、手当たり次第にそこにあるものを引っ張り出してきます。そして、しばらく放っておくと、
さて、
と考えるとき、皆さんそれぞれのご意見・考え方があると思いますが、私はできるだけ子供の自由にさせたいと思っています(用事があるときなどは途中で止めさせますけど)。
もちろん、ケガをする危険がある場合には即座に止めさせますが、それ以外は基本的に子供の好きなように気が済むまで遊ばせてあげるように努めています(最近は、ひとしきり遊んだ後に出した物を元の場所に戻すように教えているところですが、道はまだまだ険しそうです)。
なぜなら、
子供にとっては分からないことばかり、初めて見るものばかりな訳ですので、できるだけ自分の五感を使って、好きなように自由に触れ合ってもらいたいと思うからです。
そのためには、
と思うようにしています(まだまだ出来ていませんが)。
そこには(かなり大袈裟ですけど)、
と思います。そして、そのように
だとも言えます。
事実、聖書の神様は自らの命(厳密には三位一体の子なる神イエス様の命)を犠牲にして、私たち人間にとって最も良いことを成し遂げられました。2
その最も良いこととは、イエス様を信じて従おうとする人が死の滅びから救われて永遠の命を得ること。3
相手を自分の思い通りに動かしたり自分の益となるために利用するのではなく、
そこに聖書の語る「愛」の一つの形があると思います。
- なお、「愛」についてはコリント人への手紙 第一13章4節から13節まで語られています
- 三位一体説について、興味のある方は下記のブログ記事をご覧ください。「キリスト教の三位一体説とは何か?聖書には書いてない!?矛盾してる?」
- イエス様を信じることで死の滅びから救われ永遠の命を得ることについて、興味のある方は下記のブログ記事をご覧ください。「イエス・キリストはなぜ死んだのか?③―十字架のキリスト教的理由・意味―」