キリスト教にとって、
という問いは、教えの中心・中核・核心をなすものです。
この記事では、政治的・ユダヤ教的背景などを除き(それらは別の記事で扱っています)、「キリスト教的理由・意味」という観点から、特に「神の正義」「神の愛」「救い」という三つの観点から、イエスの死の理由と意味を大枠で整理します。
なお、この記事は、過去に掲載した下記の記事の内容から要点を抽出して、キリスト教のことをよく知らない人やキリスト教初心者の方にも分かりやすいかたちになるように、簡潔に要約したダイジェスト版(まとめ)です(内容を加筆修正しているところもあります)。
興味を持たれた方は是非、上記の記事もご一読ください。
罰する神:罪と「死」という結果
聖書は「罪」を単に悪い行いでなく、「神に従わないこと」と説明します。
人が神に逆らうならば、その結果(罰)としての最終的な帰結は「死」であるとされます(旧約聖書の物語にも、ノアの洪水など、神の罰としての死のイメージが繰り返し描かれます)。
この視点から見ると、
という厳しい現実が示されます。
これは裏を返せば、
だということを意味しています。
赦す神:正義と愛の両立
けれども同じ聖書の中で、
としても描かれます。
問題はここにあります。
神が正義を重んじるお方なら、罪を見逃すことはできません。
しかし、神が愛に富むお方なら、罪人を赦したいと願うはずです。
この「正義」と「愛」の両立を、聖書の神は「いけにえ(傷のない動物の命)を捧げる」という形で表しました。
のです。それは、
というものでした。
ただし、「いけにえ」を捧げるとは言え、形式的に捧げればいいという訳ではなく、心から神に立ち返る(悔い改める)ことが伴うべきだと聖書は強調します。
救う神:身代わりによる和解
イエスの死の理由
この「罰する神」「赦す神」という二つの観点を統合すると、イエス・キリストが十字架で死んだ理由が見えてきます。
まず、罰する神(神の正義)の観点から、人間は罪を犯したため、その結果(罰)としての死を免れることができないということになります。
しかし、赦す神(神の愛)の観点から、罪の結果(罰)として死を免れない人間に対して、神はいけにえという「身代わり」による赦し(救い)の道を用意されました。
そして、その
であると聖書は語ります。
つまり、
それによって、
なのです。
イエスの死の意味
最後に、イエスが十字架で死んだことは「私たちにとって何を意味するのか」を整理します。
聖書は
と語ります。つまり、
ということになります。
ただし、注意すべき点があります。
イエスが十字架で死んだからといって、ただちに全人類が自動的に救われる(神との絆が回復される)という訳ではありません。
救い、和解された関係を受けるには「人間の側の応答」が必要です。具体的には、
- 自分が神に逆らった罪人であることを認める。
- イエス・キリストがその罪のために死んでくださったことを信じる。
- 神の望まれるような人生に向き直ろう(悔い改め)と決心する。
このような
というのがキリスト教の教えです。
まとめ
今回の記事では、なぜイエス・キリストが十字架で死んだのかという問いに対して、キリスト教的に「神の正義」「神の愛」「救い」という三つの観点から整理しました。
- 神の正義──神は罪を犯した人間に死という罰を与える。
- 神の愛──神はただ罰を与えるだけでなく、身代わり(いけにえ)を通して赦し(救い)の道を用意された。
- 救い──その究極的な身代わりとして、イエスが無実ながら人間の罪の代価を背負って十字架で死んだ。
- 意味/応答──イエスの死は神と人との和解を可能にし、悔い改めてイエスを信じ応答する者には永遠の命が与えられる。
しかし、最終的には「悔い改めて、イエス・キリストを信じる・応答する」ことが、この死の意味を「自分のもの」とする鍵だと言えるでしょう。