「主が共におられる人生」:2018年9月30日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。

  • 日時:2018年9月30日(日)
  • 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「主が共におられる人生」
  • 聖書個所:創世記39章1-6節

     1ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。
    2主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。 3主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、4ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。 5主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。 6主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)68頁1

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導入

「主が共におられる人生」と聞くとどのような人生を思い浮かべるでしょうか。ある人は喜びと楽しみに溢れた人生をイメージするかもしれません。ある人は何をしても成功が約束された人生を想像するかもしれません。今日は聖書が語る「主が共におられる人生」とはどういうものかを一緒に考えたいと思います。

異国に連れて来られたヨセフ

創世記39章2節や5節を読むと主が共におられる人生は祝福に満ちた素晴らしいものであるように思えます。しかし、聖書は文脈に沿って読むことが大事です。このときのヨセフの状況・心境はどのようなものだったのでしょうか。

ヨセフがエジプトに連れて来られたのはヨセフの兄弟たちが彼をねたみ、彼を捕まえて商人に売り飛ばしたからです(参照:創世記37章)。このときヨセフは17歳(参考:37章2節)、家族を離れて一人で暮らしたことも無かったはずです。ヨセフは両親、特に父親からの愛情を一身に受け(参考:37章3節)、何不自由なく過ごしていました。それが突然、遠い異国の地で言葉もろくに分からないまま(参考:42章23節)奴隷生活を始める(参考:39章17節)ことになった訳です。このときの彼の心境はどのようなものだったのか。

言葉が理解できないということは、周りの状況が何も分からないままに物事が進んでいく訳です。次に何が起こるか分かりませんし、身の安全も保障されていませんので絶えず緊張を保っていなければなりません。心が休まる暇はなく非常なストレスを感じていたことでしょう。

しかも、ヨセフの場合は実の兄弟たちに捕らえられ売り渡された訳です。自分が信頼していた人たちに裏切られ、見放される。精神的にこれほど辛いことはありません。

主が共におられたヨセフ

そんなにも辛く寂しく不安に満ちた状況にあって聖書は語ります。「主がヨセフと共におられた」と(2-3節)。

「主が共におられる人生」というとついつい成功と喜びと幸せに満ちた人生を想像してしまいがちです。しかし、

家族から見放され心が深く傷ついている時、家族を離れ異国の土地で言葉も分からず不安と心配で心が潰れそうな時、「主がヨセフと共におられた」

と聖書は語るのです。

しかも、ヨセフの場合は祖父イサクや父ヤコブの場合と違って、神様から直接「私はあなたと共にいる」と語りかけられた訳ではなかったようです。しかし、たとえ神様からの直接的な語りかけがなかったとしても、主は確かにヨセフと共におられたと聖書は語ります。

ヨセフの場合、確かに主が共におられたことで遠い異国の地においても全ての事が上手く運びました (2-6節)。しかし、話はここで終わりませんでした。ヨセフはポティファルの妻の誘いを頑なに拒否したため、濡れ衣を着せられ監獄に入れられてしまいます(7-20節)。

主が共におられたはずなのになぜこんな目に遭うんだ?主はヨセフを見捨てたんだろうか?

と思わずにはいられない出来事。そんな中にあってもなお聖書は続けて語るのです。「主がヨセフと共におられた」と(21節)。そして、ずっと後になってヨセフは監獄から出ることとなり、エジプトにおいて王のファラオに次ぐ身分を得るようになります(41章40節)。このときヨセフは30歳(41章46節)、エジプトに売られてから13年ほどが経っています。

聖書が語る「主が共におられる人生」というのは問題や困難が何もない人生ではない

と言えます。

結論

主が共にいてくださったとしても辛いことや悲しいことは経験します。不安や絶望に暮れることもあります。逆に言えば、

辛いことや悲しいことを経験したり、不安や絶望に暮れるような状況になったとしても、それは神様があなたを見捨てた訳でも見放した訳でもない

のです。神様はどんな状況にあってもいつもあなたと共にいてくださっています

あなたが今経験している困難・試練は永遠に続くものではありません。ヨセフの人生のように、いつかは必ず解決の道が示され希望の光が見えてきます。ただ、

解決が与えられるタイミングと方法は神様だけが知っていますので、神様に信頼して希望を持ち続ける

必要があります(比較:ローマの信徒への手紙5章3-5節)。

もし仮にこの世で生きている間に解決の道が示されない(例:迫害にあって殉教してしまう)としても、イエス様が再び来られるその時には間違いなく全ての思い煩いから解放されます。というのは、再び来られたイエス様が全てを正しく裁いてくださいますし、イエス様を信じる私たちは復活の身体をもって新天新地で神様と永遠に生きるようになるからです。

でも、今はとてもそんな先のことを考える余裕がないかもしれません。目の前の課題や問題で押しつぶされそうになっているかもしれません。そんな時には思い出してください。

神様・イエス様は今この瞬間もあなたと共にいてくださっています。そして、これからもずっとあなたと共にいてくださるのです。

しかも、イエス様はあなたの辛さ悲しさ、心の痛みを誰よりもご存知なお方です。なぜなら、イエス様御自身がその人生を通して、この上ない辛さ悲しさ、心の痛みを経験されたからです。

「神様が共におられた」イエス様の人生もまた困難や試練と無縁の人生ではありませんでした。家庭は貧しく、悪魔の誘惑を受け、指導者たちには憎まれました。十字架に架かる直前には約3年間ずっと連れ添った弟子たちにも見捨てられ、ユダに至っては裏切られてしまいます。自分の愛する人たちに全く理解されず、憎まれ、裏切られ、見放される…。これほど辛いことはないでしょう。

しかし、そんな辛い状況においても、神様はいつもイエス様と共におられたのです。そしてイエス様は、神様の御心を成すため、御自分の受ける傷によって私たちを癒すため、全ての辛さ悲しさ痛さを一身に背負い十字架に架かって死んでくださいました。また、死んで終わりではなく三日目によみがえって今も生きて私たちと共にいてくださり、私たちをいつも守り導いてくださっているのです。

これはとても大きな希望です。

あなたは独りではありません。

嬉しい時や楽しい時はもちろん、悲しい時や辛い時、不安一杯でどうしてよいのか分からない時、絶望に暮れて生きていくことが嫌になっている時、どんな状況にあったとしても、あなたは独りではありません

あなたの状況を誰よりもよくご存知なイエス様が、いつもあなたと共にいてくださいます。聖霊があなたを慰め励まし勇気づけ、あなたの歩みを守り導いてくださいます。

いつ如何なる時もいつも共にいてくださる神様に目を向け、感謝と喜びをもって日々、歩むことができますように

参考文献および注釈

  • Waltke, Bruce K., and Cathi J. Fredricks. Genesis: A Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
  • Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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