「見えざる神の御手」:2022年1月16日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

新型コロナウイルスの感染拡大が始まって二年が経とうとしています。

この辺りで一度、コロナ禍を通して神様について学んだことを落ち着いて整理してみるのはとても大切なことではないかと思います。

コロナ禍を通して個人的に再確認したことの一つは

神様は、私たちにとって働いておられないように感じられるときでも、いつも働いておられる

ことです。

神様は私たちの知らないところで働いておられることは今日の聖書個所からも学ぶことができます。

今日の聖書個所には「神」または「主」という言葉は一度も出て来てきませんが、神様がその背後で働いておられるのは明らか

だからです。

今日はこの見えざる神の御手について、共に学んでいきましょう。

救いの暗示

今日の個所にはモーセが生まれた時の様子が記されています。

その時代、イスラエル民族はエジプトに寄留していました(出エジプト記1章1-7節)。

しかし、その数が増し加わっていくことに恐れを感じたエジプトの王は彼らに強制労働を課します(8-11節)。

ところが、エジプト人がイスラエル民族を苦しめれば苦しめるほど、彼らの数は増すばかりです(12, 20節)。

このため、エジプトの王(ファラオ)は更なる強硬策にでます。

彼はイスラエル民族に対して、生まれたばかりの男の子をナイル川に投げ込むように命じたのです(22節)。

ところが、モーセが生まれたとき、

彼の両親は生まれたばかりの赤子をナイル川に投げ込むことができません

でした(出エジプト記2章2節)。

しかし、いつまでも赤子を隠し通すこともできません。

ついに彼らは生後3か月のモーセを防水加工した「籠」に入れ、ナイル川のほとりにある水草の茂みに置きました(3節)。

ここで

「籠」と訳されているヘブライ語の言葉は創世記6章でノアが作った「箱舟」と同じ

です。この言葉は聖書全体をみてもノアの「箱舟」と赤子のモーセが入れられた「籠」にしか用いられていません。従って、

出エジプト記の作者は、「籠(箱舟)」に入れられた赤子がノアのように神様によって助けられ、いずれは神様に大きく用いられていく

であろうことを暗に示そうとしていると理解できます(比較:創世記9章1-7節;出エジプト記19章3-6節)。

神の救い

事実、神様は非常に不思議な方法で「籠(箱舟)」に入れられた赤子の命を救い出されます。

赤子のモーセが入れられた籠(箱舟)のすぐ傍で、ファラオの娘が水浴びを始めたと聖書は語ります(出エジプト記2章5節)。

そして、このファラオの娘は泣いているヘブライ人(イスラエル人)の赤子を不憫に思い、実の父親の命令に背いて、彼を育てる決心をします(6-10節)。

さらに、モーセの姉がファラオの娘に申し出たことを通して、モーセの実の母親が乳母としての手当をもらいながら、モーセの世話をすることになります(7-9節)。

この時代の状況を考えると、

これ以上ない最高の結果がモーセの家族にもたらされた

と言えるでしょう。

その後、モーセが大きくなるとファラオの娘は彼を「モーセ」と名付け、息子として育てます(10節)。こうして

モーセはエジプトの王室において、当時の世界で最高水準の教育を受けることになった

と思われます。この知識と経験は、後にモーセがイスラエル民族を導くときに大きな助けとなったはずです。

神の御手

冒頭でも述べましたが、今日の聖書個所には「神」もしくは「主」といった言葉は出てきません。

モーセの両親が三か月間、生まれたばかりの赤子を隠したのは、神様にそう命じられたからではありません。

親としてかわいい我が子を見殺しにすることができなかったからです。

そして、ただ赤子をナイル川に投げ込むのではなく、防水加工をした籠(箱舟)に入れて、水草の茂みに置いたのもまた、神様からそう指示されたからではありませんでした。

恐らくは、できるだけ赤子が生き長らえるようにと考え抜いた末の行動だったと思います。

モーセの姉やファラオの娘についても同様です。

彼女たちは別に神様に命じられて、特定の行動を取った訳ではありません。しかしながら、

神様はそれぞれの人物に直接命令やメッセージを与えることなく、彼らの思いや行動を用いられました。

その結果、

神様はただモーセの命を救っただけではなく、モーセの家族にとって当時の状況下ではこれ以上ない最高の祝福をもたらされました。

と同時に、

後にもたらされるイスラエル民族全体に対する救いの基礎をも築き始められた

訳です。この意味で、

神様はファラオの命令をも逆手にとって、イスラエル民族を救う計画を実現しておられた

と言えます。

たとえ人間の目にははっきりと見えない・感じない状況にあったとしても、ありとあらゆるモノを用いながら救いの計画を実現していかれる神様の御手

を見てとれます。

結論

神様は御自分の計画を必ず成し遂げていかれる絶対的な主権をもったお方

です。しかも、

神様の計画の実現方法は、私たち人間が期待や予想さえしない方法であることが多い

と言えます。

たとえ私たち人間にとって神の御手が見えないと思うような状況にあったとしても、神様はこの世にある全てのモノを用いながら、その救いの計画を確かに実現しておられる

のです。

神の御手が見えないと思うような状況にあっても、神様がその救いの計画を確かに実現しておられたことがはっきりと分かる出来事がイエス様の十字架です。

イエス様が生きた時代、誰一人として救い主(メシア)が十字架刑に処せられるとは思っていませんでした。

事実、イエス様が十字架で亡くなられたとき、弟子たちは意気消沈していました(参考:ルカによる福音書24章17-21節;ヨハネによる福音書20章19節)。

イエス様を通してはっきりと示されていた神の御手が突然、消え失せてしまったと思った訳です。

けれども、

誰もが消えてしまったと思っていた神様の御手はイエス様の十字架の上にこれまで以上にはっきりと働いておられました。
イエス様の十字架によって、神様は悪の力から人々を解放する道を開かれた

からです(ヘブライ人への手紙2章14-15節)。

しかしながら、イエス様の十字架によって悪(死)の力から解放されたとは言われても、

この世はまだまだ悪で満ちています。

誘惑に負けて罪を犯してしまうこともあります。

自分たちのあまりの無力さ、罪深さに自暴自棄に陥ってしまうことがあるかもしれません。

神様の助けを感じなくなってしまうかもしれません。

神様の存在そのものも疑いたくなってしまうかもしれません。

でも、

十字架で死んだ後、復活されたイエス様は世の終わりまでいつも共にいると弟子たちにおっしゃいました(マタイによる福音書28章20節)。

たとえ今、神様の存在や働きを感じられないと思う状況にあったとしても、

神様はあなたの知らないところで休むことなく働いておられます。

事実、

神様はあなたが神様のことを知らないときも、

神様のことを無視し続けていたときも、

神様に敵対していたときも、

いつも変わらずあなたを愛し、

あなたを滅びから救うために働き続けてくださっていました。

その神様の愛がイエス様の十字架に表されています。

あなたが神様の存在や働きを感じるかどうかにかかわらず、
神様はあなたを愛してくださっています。
イエス様はいついかなるときもあなたと共におられ、あなたを守り導いてくださっています。
あなたのうちに住む聖霊は、あなたが神様の御心をなすために必要な力と助けを与えてくださいます。

神様の御手が全く見えない・感じられないと思うことがあるならば、

イエス様の十字架を見上げてください。

そこに表されている神様の無条件の愛と絶対的な主権に思いを巡らせてみてください。

どんな状況にあったとしても、三位一体の主に全幅の信頼を置いて歩み続けることができますように。

参考文献および注釈

  • Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
  • Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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