礼拝説教の要旨です。
礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。
- 日時:2019年2月24日(日)
- 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「神は愛」
- 聖書個所:ヨハネの手紙 一4章7-10節
7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)445頁1
導入
前回の私の説教では「十字架刑の真実」と題して、イエス様が処された十字架刑がどれほど残酷で屈辱的な処罰だったか、また、なぜ神の御子イエス様が十字架刑に処される必要があったのかをみました。
今日は「罪とは何か?」「赦しとは何か?」「なぜイエス様は死ぬ必要があったのか?」といったことを考えながら、神様がどういうお方かをみていきたいと思います。
罰する神
まず「罪とは何か」について。
聖書において一番最初に罪を犯した人物はご存知アダムとエバです。彼らは「神のように善悪を知るものとなれる」(創世記3章4節)という蛇の甘い言葉にそそのかされ、神様の言い付けに背いてしまいます。
また、罪と訳されている元々のヘブライ語およびギリシャ語には共に「的外れ」という意味があります。
ということができます。
罪を犯してしまうと罰を受けることになりますが、
です。
この世に罪が入り込んできたために全ての人が死ぬようになったと聖書は語ります(ローマの信徒への手紙5章12節)。また「罪が支払う報酬(罰)は死です」とも記されています(ローマの信徒への手紙6章23節)。
そこには
の一面が表れています。
また、
と言えます。
赦す神
神様は私たちのズレ(罪)を罰しないではおられない正しいお方です。しかし、それと同時に、
でもあります。
ただし、神様は私たちの罪を無条件で赦してくださる訳ではありません。
です。私たち人間同士のもめ事に関しても謝罪はもちろん、賠償金や示談金を払う場合があるのと同じです。
聖書の律法には罪を犯した人(加害者)が、その罪を償うにはどうすれば良いかを記しているものが数多く存在します。中でも有名なのは、神様に対していけにえを捧げる儀式に関するものでしょう(例:レビ記4―5章)。
でも、
それは先にみた「罪の罰は死である」ことと関係しています。神様にとって人間の罪に対する罰は、罪の大小にかかわらず全て「死」。なのですが、人間が罪を犯す度に命を捧げていては、人類はあっという間に消滅してしまいます。そこで神様は
のです(参照:レビ記17章11節)。
ただし、
私たちが形式的ではなく心から神様に立ち帰り神様に従うとき、恵みと憐れみと慈しみに富んだ忍耐深い神様は私たちの罪を赦してくださいます。
救う神
心から神様に従いながらいけにえを捧げることで、神様は私たち人間が犯した罪を赦してくださるはず。なのにもかかわらず、
のです。罪の罰が死であることを考えると、
ということになります。
ここで思い出して頂きたいことは、
ということ。しかも神様は、死が存在していなかった天地万物を「極めて良かった」とされたことです (創世記1章31節)。
のです。これはとても大切なことです。なぜなら、神様の救いの計画の中には最終的に死を滅ぼすことが含まれているからです(参考:コリントの信徒への手紙 一15章26節)。
そして、
のです。
なお、罪の赦しを得るためには心から神様に立ち帰り(悔い改めて)神様に従うことが必要だったように、
です(参照:使徒言行録2章38節)。
愛なる神
神様は人間が自らの罪のために死んでいくことを良しとされず、人々の罪を償ういけにえとして自らの独り子を十字架につけられたと聖書は語ります。しかし、そもそものところ、
聖書には、
と記されています(創世記1章27節)。この「人が神にかたどって造られた」という表現の中には、神様が私たちをどれほど愛していてくださっているか、神様と私たち人間の間の特別な「絆」の深さが込められていると思います。
その絆の深さは人間的な血のつながりの深さを超えるもの。
ような気がします。
私には1歳になる一人息子がいます。この子が少し前に初めて40度近い高熱を出して5日間ほど苦しんでいた時がありました。息子が高熱でうなされ、泣き叫んでいる姿をみながら、
と本気で思いました。
ただ自分の愛する我が子が苦しんでいるのを見過ごせない、放っておけない、できることなら代わってあげたいという思いだけでした。
神様が私たち人間を救おうとされたのも、この思いに近いのではないかと思います。もちろん神様は、私が息子を思う以上に、御自分にかたどって造られた私たちをかけがえのない存在だと思ってくださっています。
そして、私たちが死の滅びに向かうのを良しとされず、子なる神御自身が身代わりとなって、私たちを救い出そうとされました。
です(参照:ヨハネの手紙 一4章7-10節)。
結論
神様は人間が御自分に従わないこと、御自分の考え・望みからズレていることに対して罰を与える(死を要求する)正しいお方です。
と同時に、そんな人間を赦される恵みと憐みと慈しみに富んだお方。
そして、たとえどんな犠牲を払ってでも、人間が死んで滅びようとしているのを見過ごせない愛に満ちたお方です。
その愛を示すため、