「頑なになる心」:2022年4月24日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。

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導入

先々週の聖書個所(出エジプト記7章14節以降)から、神様はエジプト人に対して「10の災い」をもたらし始めました。

これら「10の災い」の話の中にはある特定の言い回しが繰り返し出てきます。

その言い回しとは

「ファラオの心はかたくなになり」

もしくは

「ファラオの心をかたくなにした」

です。この表現が引っかかるのは、ファラオ自身だけでなく(出エジプト記7章13, 22節; 8章11, 15, 28節[新改訳は8章15, 19, 32節]; 9章7, 34, 35節)、

神様もまたファラオの心を頑なにする

と記されているからです(4章21節; 7章3節; 9章12節; 10章1, 20, 27節; 11章10節)。

神様によってファラオの心が頑なにされたのであれば、

ファラオは自らの意思とは関係ない行動を取らされたにもかかわらず、その行動に対する裁きを受けたのでしょうか?
神様はファラオの心を弄んで悲劇・災難をもたらす極悪非道なお方なのでしょうか?

また、

神様は自分の力を誇示するためにはファラオの心を頑なにして、人や家畜が死ぬことも厭わない冷血なお方なのでしょうか(参考:7章4-5節; 9章14-17節; 10章1-2節)?

今日はこの

「頑なになっていったファラオの心」に着目しながら、聖書の神様はどのようなお方なのか

を一緒に考えたいと思います。

頑なになる心

今日の聖書個所には10の災いのうちの四つ目から六つ目までが記されています(あぶ、疫病、腫れ物)。

4つ目の災いの後でファラオは自分の心を頑なにし(出エジプト記8章28節[新改訳では8章32節])、
5つ目の災いの後でも心は頑ななまま(9章7節)
6つ目に至っては神様がファラオの心を頑なにした(9章12節)

とあります。

心を強める神

出エジプト記において、「かたくなにする・なる」と訳されているヘブライ語の言葉は実は3つあります。

登場回数が最も少ないのはqâshâhで、「(心などが)硬くなる、頑固・強情になる」という意味合いを持った言葉です(出エジプト記7章3節; 13章15節)。

次に多く出てくる単語はkâbad/kâbêd、その意味には「硬くする」という他にも「重くする、鈍くする」といったものが含まれます(出エジプト記8章11, 28節[新改訳では8章15, 32節]; 9章7, 34節; 10章1節)。

最も登場回数の多い単語はchâzaqです。このchâzaqには「頑なにする・硬くする」という以外に「強める、励ます、大胆にする」といった意味合いがあります(出エジプト記4章21節; 7章13, 22節; 8章15節[新改訳では8章19節]; 9章12, 35節; 10章20, 27節; 11章10節; 14章4, 8, 17節)。2

注目すべき点は、

「神様がファラオの心を頑なにした」とある箇所を「神様がファラオの心を強めた・励ました・大胆にした」と置き換えてみても、意外に全体の話の流れに合うのではないか

と思える点です。3

実際、châzaqが用いられていて「神様がファラオの心を頑なにした」と訳されている個所は10の災いの後半部分(出エジプト記9章12節; 10章20, 27節; 11章10節)にしか出て来ず、このときファラオは徐々にモーセの要求に譲歩しようとする姿勢を見せています(8章4, 24節[新改訳では8章8, 28節]; 9章28節; 10章10-11, 24節)。

言うなれば、

イスラエル人を去らせたくないという自分の思いを押し通すか、自分の思いを曲げてモーセ・神様の要求を受け入れるかという選択の中でファラオの心は揺れ動いている

と言えなくありません。

そんなファラオの心を神様が「頑なにした」のではなく、むしろ

「強め・励まし・大胆にした」結果、ファラオはイスラエル人を去らせないという彼自身の最初の思いを貫き続けた

とするのは決して全体の話の流れに合わないものではないように思います(比較:4章21節)。

もしこの訳が正しいならば、

神様はファラオの心を自分の意のままに操ろうとするどころか、彼が自分の意思を貫き通せるように助けるお方

であると言えます。また、仮にこの訳が正しくないとしても、

神様は確かに人間の意思を尊重されるお方

だというのは間違いありません。というのも、

神様がファラオの心を頑なにするのはいつも災いが収まった後であって、イスラエル民族を去らせなければ災いを受けるという警告が与えられた直後ではない

からです(7章14, 27節; 8章17節[新改訳では8章21節]; 9章2, 14-18節; 10章4節)。

ファラオは何度となくイスラエル民族を去らせるチャンスが与えられていたにも関わらず、自らの意思でそのチャンスを無視していた

訳です。

神様は、ファラオが神様の前にへりくだり、悔い改めるのを愛と憐れみをもって待ち続けていた

と言えなくありません(参考:9章17, 30節; 10章3節)

頑なな心も用いる神

「やはり神様は人の心を操って弄ぶようなお方じゃなかった。これにて一件落着」といきたいところですが、残念ながら、問題はまだ残っています。

というのも、

châzaq以外の二つの単語が用いられている個所で確かに「神様がファラオの心をかたくなにする・した」と記されているところがある

からです(出エジプト7章3節; 10章1節)。しかしながら、

これら二つの単語はいずれも「ファラオは(自分の)心をかたくなにした」(8章11, 28節[新改訳では8章15, 32節]; 9章34節)または「ファラオがかたくなになり」(13:15)という表現にも使われています(13章15節)。
ファラオの心を頑なにしたのは神様とファラオ、一体どちらなのか?

その答えはある意味、

神様とファラオの両方

だと言えます。というのも、

神様は全地を統べ治める絶対的な主権者ですので、神様の許し無しでは善いことであれ悪いことであれ、何事も起こりえない

からです。

ファラオは自らの意思に基づいて、何が起きてもイスラエル人を去らせないという思いを貫きます。

けれども、その彼の決断・選択もまた神様の絶対的な主権の下でなされていることです。

事実、

神様は、エジプト人が神様のことを知るようなるため(7章5節)、またイスラエル民族がこれから先ずっと神様が主であることを知るようになるため(10章2節)、ファラオの決断・選択(頑なな心)を用いられた

と聖書は記します。

ファラオが自らの意思で自分の心を頑なにしたこともまた神様の絶対的な主権の下にあるという意味において、確かに「神様がファラオの心をかたくなにした」と言うことができる

のです。

結論

神様は私たちの思いや考えを支配して、自分の意のままに動かそうとするお方ではありません。むしろ、

神様は私たち人間の意思を最大限に尊重しながら、私たちが神様の前にへりくだり、悔い改めて神様の元に戻ってくるのを待ち続けておられる、愛と憐れみに満ちたお方

です(比較:ルカによる福音書15章11-32節)。

ですから、私たちの下す選択の責任は全て私たち自身にあります。神様を責めることはできません。

また

神様は、私たちの選択がどのようなものであれ、それらをも用いて御自分の計画を実現していくことができる絶対的な主権をもったお方

でもあります。

神様に対してあなたの心を頑なにするものは何でしょうか?

自身のプライドやエゴ、

先入観や固定観念といった思い込み、

人並ならぬ欲望・願望などなど。

そのかたちは様々で、人それぞれだと思います。

でも、いずれにしても、

自分の思いや考えを神様の思いや考えよりも優先させるとき、私たちの心は神様に対して頑なになっていきます。

どんなに状況が悪くなっていったとしても、「これだけは譲れない」または「自分は絶対に正しい」と言い聞かせ、他の人や神様の言葉が耳に入らなくなってくると危険です。

その典型的な例がイエス様の時代の宗教指導者たちでした。

彼らは自分たちの神様・聖書に対する理解が絶対に正しいと思い込んでいました。

その間違いをイエス様に何度となく指摘され、戒められたにもかかわらず、彼らの心は益々頑なになり、遂にはイエス様を殺そうと企て始めます(マルコによる福音書3章5-6節)。

イエス様はそんな彼らの企てを全てご存知でした。

にもかかわらず、イエス様は彼らとの関りを断つことなく彼らからの質問や招きに応じ続けられました(例:ルカによる福音書14章1-6節; 20章20-26節)。

それは、

彼らが神様の前にへりくだり、悔い改めるのをずっと待ち続けていたから

です(参考:ルカによる福音書15章1-32節; 16章14-31節)。

けれども彼らはそんな神様・イエス様の思いに気付くことなく、イエス様を十字架にかけてしまいます。

そんな彼らの罪を赦してくださるようにとイエス様は十字架上で神様に祈り求めました(ルカによる福音書23章34節)。

それから間もなく、イエス様は十字架の上で息を引き取られます。

でもそれは、

自らを十字架にかけた人々の罪だけでなく、この世の全ての罪の罰をその身に受けるため

でした。

神様はイエス様を十字架につけようとした心の頑なな人たちを用いて、救いの計画を成し遂げられた

のです。

遅すぎることはありません。

愛と憐れみに富む神様は今もあなたが神様の元に戻ってくることを待っていらっしゃいます。

「絶対に手放せない、手放したくない」とあなたが握りしめているものを神様に明け渡し、神様の手を握って歩み始めるとき、得も言われぬ神様の安らぎと平安があなたの心を満たす

ことでしょう(参考:マタイによる福音書11章28-30節;フィリピの信徒への手紙4章6-7節)。

参考文献および注釈

  • Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
  • Brown, Francis, S. Driver, and C. Briggs. A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament, 1906.
  • Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
  • Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。なお、出エジプト記の7章26節から8章28節まで、聖書協会共同訳と新改訳とでは章節の振り方が異なっている。聖書協会共同訳の7章26-29節は新改訳の8章1-4節に相当する。以降、聖書協会共同訳の8章1節は新改訳の8章5節にあたり、4節ずつ節番号がずれている。
  2. Francis Brown, S. Driver, and C. Briggs, A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament, 1906.
  3. 詳細な議論は下記を参照。T. Desmond Alexander, Exodus, Apollos Old Testament Commentary (London: IVP, 2017), 163–171.
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