「決して見捨てない愛なる神」:2020年1月12日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(説教の音声はこちらから)。

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導入

今日の聖書個所の主人公はギデオンという人物です。今日はこのギデオンの物語を通して、神様について共に学びたいと思います。

従いきれないイスラエルの民

ギデオンの話が記されている「士師記」は「士師」と呼ばれる人たちに関する物語が記された書物です。

士師たちが登場するのはモーセの後を継いだヨシュアが現在のイスラエルにあたる領土を占領した後の時代。このとき、イスラエルにはまだ王がいませんでした。

このため、異民族の侵入・侵略に悩まされた時には「士師」(聖書協会共同訳)もしくは「さばきつかさ」(新改訳 2017)と呼ばれる人たちが指導者・リーダー的存在として人々をまとめて異民族に立ち向かいました

士師記の話の中には以下のパターンがあって、そのパターンが何度も繰り返されています (参照:士師記2章10-23節)。

  1. イスラエル民族が聖書の神以外の神々に仕える。
  2. 怒った聖書の神は異民族にイスラエルを支配・略奪させる。
  3. イスラエルの民が主に助けを求める。
  4. 主は士師を用いて異民族の支配・略奪からイスラエルを救い出す。
  5. 士師が生きている間は平安が保たれる。

しかしながら、士師が死ぬとイスラエルの民は再び別の神々を礼拝するようになり、先のパターンが繰り返されます。

士師記全体を通して、

聖書の神様に従いきれない不従順なイスラエルの民の様子が描かれています。

ギデオンの話もこのパターンに沿って物語が進んでいきます。

  1. イスラエルの民は聖書の神以外の神々(バアルやアシェラ)を礼拝する(士師記6章1, 10, 25-32節)。
  2. 神はミデヤン人の手にイスラエルを渡す(6章1-5節)。
  3. イスラエルの民は主を叫び求める(6章6節)。
  4. その叫びに答え、主はギデオンを用いてイスラエルの民をミデヤン人から救い出そうとする(6章14-16節)。

今日の聖書個所には、神様に召されたギデオンがミデヤン人たちと戦いを開始しようとする直前の様子が描かれています。

信じきれないギデオン

私は個人的に「士師記」という書物に非情な親近感を覚えます。というのも、ある意味、とても人間臭い話ばかり出てくるからです。

今日の聖書個所に出てくるギデオンもまた敬虔で信仰心篤く神様に従順な人物だとは到底言うことができない言動を何度となく繰り返します。

主の使いがギデオンのところにやってきたとき、彼は一度ならず二度までも御使いの言葉に異を唱えます(6章12-15節)。

その後に彼は自分と話しているのが間違いなく主の使いであることの「しるし」を求めます(16-17節)。そんな彼の求めに主は答えられます(17-24節)。

それから神様はギデオンに対して、彼の父がもっているバアルの祭壇とアシェラ像を壊し、主のための祭壇を築いていけにえを捧げるように命じます(25-26節)。

ところが、ギデオンは家族と町の人々を恐れ、昼間ではなく誰も見ていない夜中に神様の命令を実行に移しました(27節)。

そんなギデオンを神様は御自分の霊で包んだと聖書は語ります(34-35節)。ここで神様は、ギデオンを御自分の霊で包むことによって、ギデオンにイスラエルの部族(マナセ、アシェル、ゼブルン、ナフタリ)を戦いのために集める権威を与えたことが分かります。

神様の働きでなければ、家族の中で最年少で(15節)、取り立てて有名でもないはずのギデオンの呼びかけに誰一人として答えるはずはないからです。

神様が御使いを通してギデオンに直接語りかけ、しるしも与え、神様の霊で彼を包まれた

訳です。

これだけの確証・証拠が与えられれば、恐らく誰もが「さあ、後は神様に信頼して目の前の敵と戦うだけだ!」と思うのではないかと思います。

が、しかし、神様に召された張本人、多くのしるしを目撃したはずのギデオンはまだ神様のことを信じきれていないのです。

事実、ギデオンは36-40節で、神様が確かに自分を通してイスラエルを救うかどうかを一度ならず二度も試しています。しかし

神様は何度となく神様を試すギデオンの要求に何も言わずにお答えになりました(40節)。

結論

神の言葉が記された「聖書」と聞くと、神聖かつ崇高なイメージをもたれる方は少なくないと思います。

しかしながら、

イエス様を除くと、聖書に出てくる登場人物は皆もれなく神聖または崇高といったイメージとはかけ離れた存在

です。

今日の聖書個所でみたギデオンはその最たる例です。

皆それぞれに人間としての弱さをもち、時として神様を信じきれず間違いや失敗を犯すという点において、私たちと全く変わりません。

そんな弱く不信仰な人間を神様は見捨てることができない。見捨てるどころか、弱く不信仰な私たちを用いて、神様は御自分の計画を成していかれる全知全能なお方

である。そのことが聖書全体を通して、何度となく描かれています。

士師記に描かれるイスラエルの民は神様に対して不従順極まりない人たちです。

彼らは何度となく神様に逆らい、他の神々に仕えます。にもかかわらず、自分たちが苦しむことになると、聖書の神様に助けを求めます。そして神様に助けてもらった後、しばらくの間は神様に従ってはいても、またすぐに神様のことを忘れて他の神々にうつつを抜かす訳です。

一体いつになったら分かるんだろうか

とツッコミたくなるくらい、身勝手でわがままで恩知らずな民族です。

そんな彼らを神様はどうして見限らないんだろう

と思わずにはいられません。

が、しかし、です。

よくよく考えてみると、私たちもまた士師記に描かれるイスラエルの民と大差がないことに気付かされます。

聖書の神様以外のモノに知らないうちにすがっていることはないでしょうか。

また、

神様との関係以上に大切・大事にしているモノはないでしょうか。

お金、友人、恩師、牧師・宣教師、両親、子供、恋人・配偶者、趣味、旅行など。

ある特定のモノを神様の思いや願いよりも優先することがあれば、それが自分にとっての「偶像」となってはいないか

を問い直す必要があると思います(比較:マタイによる福音書6章24節;10章37節)。

仮に「偶像」に値するモノがないと言う人であっても、神様から見て非の打ち所がない完璧な生活を送ってはいないはずです。

程度の差はあれ、私たちは皆もれなく弱さをもち、時には神様を信じきれず間違いや失敗を犯す存在。神様に従いきれない存在です。にもかかわらず、何か困ったことや悩みがあると神様の助けを求める訳です。そして問題が解決した後は神様に大した感謝もせず、神様のことを忘れて元の生活に戻る。

神様からしてみれば、

一体いつになったら分かるんだろうか

とツッコミたくなるくらい、身勝手でわがままで恩知らずな存在。なのにもかかわらず、

神様は私たちを見捨てることをなさらない

のです。イスラエルの民を見捨てることがなかったように。

でも、

なぜ神様は身勝手でわがままで恩知らずな私たちを見捨てることをなさらないのでしょうか?

そこには理由・理屈はありません。

理由や理屈では説明できないほど、神様は私たちを愛してくださっている

のです。

神様はあなたが敬虔・従順だから愛してくださるのではありません。

神様の望むことを完璧に成し遂げるから愛してくださるのでもありません。

もしあなたが神様に100%従順で、神様の望むことを完璧に成し遂げることができるのであれば、イエス様が十字架で死ぬ必要はありませんでした。

神様はあなたが弱く不信仰で間違いや失敗を犯す罪人であり不敬虔な者なのにもかかわらず、十字架で死んでくださいました。それほどまでに神様はあなたを大事に大切に思っていてくださっているのです(参照:ローマの信徒への手紙5章6-8節)。
この神様・イエス様の愛に満たされ、神様・イエス様が愛してくださっているように周りの人たちを愛することができますように。

参考文献および注釈

  • Block, Daniel I. Judges, Ruth: An Exegetical and Theological Exposition of Holy Scripture. Edited by Kenneth A. Mathews and David S. Dockery. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 1999.
  • Butler, Trent C. Judges. The Word Biblical Commentary. Nashville, Tenn.: Thomas Nelson, 2006.
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